- 判断基準が「善悪」という倫理であるとき、その学習は反省となる

2008/09/15/Mon.判断基準が「善悪」という倫理であるとき、その学習は反省となる

職場で日記を書いている T です。こんばんは。

この週末はイライラしていたので心ない日記をものしてしまった。反省している。と書くのは簡単だ。

ところで、動物は反省をするのだろうか。まずは反省を定義せねばならぬ。行動学的に捉えるならば、反省とは学習の一環であるように思われる。自分はこうした → するとこうなった → したがって次はこうする。立派な学習だよな。

ある学習を反省たらしめるのは、「次はこうする」と決めるときの判断基準ではないか。判断基準が「善悪」という倫理であるとき、その学習は反省となるように思われる。

犬を躾けるときのことを考えよう。犬が家の中でうんこをしたとする。飼い主は犬をうんこの前まで引っ張り出し、とりあえず怒ってみせては、犬の頭をぶつなり何なりする。すると犬は家の中でうんこをしなくなる。学習したわけだ。このときの犬の学習プロセスはどういうものだろう。「ここでうんこをするのは悪いことなんだな」「悪いことだから、ここでうんこはしないようにしよう」。犬はそう考えるだろうか。否。こう考えるはずだ。「ここでうんこをするとぶたれるんだな」「ぶたれるのは嫌だから、ここでうんこはしないようにしよう」。犬は恐らく、善悪ではなく損得で判断する。動物としては当然のことだが。犬は立派に学習するが、やはり反省しているわけではない。私はそう思う。

善悪による判断とは、つまりタブーであろう。犬にタブーがあるだろうか。よくわからない。

善悪か損得かという観察は、人間に対しても使える。ある人間が反省しているように見えるとき、彼が心の奥底で本当に気にしているのは善悪なのか損得なのかを忖度する、という極めて底意地の悪い観察である。広い範囲で応用できるように思われる。

研究日記

朝に細胞を処理して、夕方にまた処理するという実験。間の数時間はやることもないので、MHP2G をプレイしていた。この日記も書いた。その時間で勉強するなり別の実験をするなりすれば立派なものだとはわかっているが、どうも気力不足である。

腹痛日記

昨日の夜は牛丼を食べた後に腹が痛くなった。今日の昼はコンビニ弁当にしたが、食べている最中にみるみる激痛が発生してきたので思わず笑ってしまった。胃にモノが落ちた途端、そこから痛みが拡がるというか。何ぞこれ。