- Diary 2008/09

2008/09/30/Tue.

料理よりも後片付けを面倒だと思う T です。こんばんは。

研究日記

寝過ごして遅刻。疲れているのか。出勤後、やたらと暑かったので部屋の窓を開けていたら、「寒いから閉めろ」と言われ、どうも風邪をひいているらしいことに気付く。

昨日はセーターで失敗したので、今日はジャケットを着ていったのだが、襟元にクリーニング屋のタグが付いたままだったという。何かもう色々とダメだ。

ボンヤリとした頭で自分の論文を読み直すと、苦し紛れに書いた、意味の取りにくい文章が浮かび上がってくるので、これは便利だった。後日、平易な表現に改めることにしよう。

自炊日記

早めに帰宅して、久々に自炊する。

炊飯器を開けると、以前に炊いた米 (であったもの) が出てきてビックリした。泡沫化した何かがそこにあった。mixi の日記によると、最後に自炊したのは 2007年 12月 12日である。

シチューを作り、たらふく貪って就寝。

2008/09/29/Mon.

セーターを買うのって面倒なんだよな、と思う T です。こんばんは。

今朝は肌寒かったのでセーターを出したのだが、衣替えのときに洗濯したのが悪かったのか、丈がひどく縮んでおり、とりあえず着てみたものの、まるで大リーグ養成ギプスのような有り様である。時間もないことなので、あっちこっちをバリバリと引っ張り伸ばしてから、「よし!」(何がだ) と意気高らかに出勤したところ、テクニシャン嬢から「てろんてろんではないか」と怒られた。「何でそんなものを着て来るんですか」「セーフかなと思っ」「どう見てもアウトです」。本当にありがとうございました。

先週から試験している新しい測定キットで、調べたい parameter をめでたく定量化できたが、目的の遺伝子との相関関係はなかったという。まァこういうこともある。結果は芳しくなかったが、系が確立できたのは収穫だった。応用範囲は広いので、いずれ他のサンプルでも検証してみよう。という positive thinking。

『あたし彼女』について・再

前論は「『あたし彼女』について」を参照。

『あたし彼女』の文体がとにもかくにも画期的であることについては既に触れた。そしてこの文体が、「ケータイ小説」に実を与えるかもしれないなと妄想した。

もとよりケータイ小説を熱心に読んだことがないので大いに勘違いしているかもしれないが、以下に思うところを書く。

『あたし彼女』以外の候補作にも一通り眼を通したが、これらは従来のケータイ小説の延長線上に存在するもののように思えた。で、「従来のケータイ小説」がどういうものかというと、非常に意地悪な書き方をすれば、それは「単に未熟なだけの小説」でしかないのが実情なんだよね。携帯電話で読まれるだとか、そういう事情は小説の本質とは無関係である。逆にいえば、これまでは、ただの下手クソな小説を「ケータイ小説」と銘打つことで、その未熟さに眼を瞑っていたわけだ。そこには「ケータイ小説だから」という甘えと侮蔑が共存している。読書家を自認する者の多くが、ハナからケータイ小説を相手にしなかったのは、このカラクリを初めから見抜いていたからだろう。

何をもってケータイ小説とするのか、あるいはなるのか。この問いに対する明確な答えはない。そこで。

『あたし彼女』の文体の特異さは、この茫洋として実体のなかったケータイ小説というジャンルを新たに規定する (してしまう) のではないか——。これが俺の推測である。『あたし彼女』の文体と、ケータイ小説であることとの間には、本来的には何の関係もない。ただ、この斬新な形式が「ケータイ小説」として発表されたという、まさにその理由によって、これが以後のケータイ小説のスタンダード (の一つ) となる可能性は非常に高い。恐らく近い内に、『あたし彼女』式のケータイ小説が雨後の筍のごとく輩出されるだろう。

問題は (というか個人的な興味は)、この形式によって何を物語るのか、という点だよなあ。『あたし彼女』にしたところで、内容はお粗末の一語に尽きる。実験小説的な観点から、最初の一作だけはかろうじて評価し得るけれども、上記の課題を超えない限り、後続の小説はやはり軽侮の対象にしかならないのではないか。

2008/09/28/Sun.

ボリボリとラムネを齧っている T です。こんばんは。

研究日記

細胞の培養とか、明日の下準備とか諸々。

結局、今月は皆勤となってしまった。何だかなァ、といつも思う。これで良いのか、という自問に代えても良い。

これで良いのかと実際に問うならば、別にどうでも良い、という答えになるのだが、「良いわけねえだろ」という、いわゆるところの常識 (= 他人の思考の emulation) もあって、それが「何だかなァ」感の出所であると思われる。しかしこんな分析も別にどうでも良いといえばどうでも良い。

うーん

何だかなァ

みたいな

話は逸れるが、第3回日本ケータイ小説大賞受賞作『あたし彼女』が、各位の毀誉褒貶に晒されながらも、とにかくここまで話題になっているのは、つまるところその特異な文体に依るものであろう。「内容はたいしたことではない。市井のゴミのような話である」(©津本陽)。ありとあらゆる形のコピペ (= 形式のパロディ) が出回っているにも関わらず、話の筋に関してはほとんど触れられていないことがその証拠である。

で、その文体であるが、まァ驚異的であると言って良い。少しでも日本語について考えたことがある者なら、あのような文章 (と言えるのだろうか) は書けない。あの、これ、批判ではないですよ。俺も含めてだが、日本語に多少の拘りがある人間は、その固定観念に縛られて、『あたし彼女』のような破壊的な文章は書けない、書き得ない、という意味である。

だから俺が抱いている一番の興味は、kiki という作者が、どこまであの文体に自覚的であったのかな、という点にある。確信犯だとしたら万歳するより他はなく、そうあってほしいと願っている。無自覚であるのなら、特にコメントはない。評論家あたりがわかりやすい理由を付けてくれるだろう。

2008/09/27/Sat.

外出の計画はその日に立てる T です。こんばんは。

立てずに出かけることも多い。

研究日記

午前中に出勤して培養細胞のメンテナンス。

黄檗山萬福寺

京阪本線を出町柳から中書島まで歩いたことは「京阪本線踏破行 (1)」に書いた。今日はその続きである。

中書島から本線沿いに大阪方面へ向かうのが本筋ではあるが、今日は、同じく中書島から分岐している宇治線を歩いてみた。すなわち、中書島 - 観月橋 - 桃山南口 - 六地蔵 - 木幡 - 黄檗 - 三室戸 - 宇治。Wikipedia には路線距離 7.6 km とある。

中書島を降りて宇治川に沿って東へ (上流へ) 歩く。観月橋 - 桃山南口間で宇治川と木津川が合流しており、そこからは木津川を上って行く。六地蔵で南に下り、木幡 (こわた) の駅前が開けていたので、ここで食事を摂った。

宇治には何度か訪れているので、今日の主眼は途中の黄檗 (おうばく) に置いた。ここには黄檗山萬福寺という黄檗宗の総本山がある。開祖・隠元隆琦、続いて木庵性瑫などの高僧を中国から招聘して開かれた。江戸時代の話である。黄檗宗は日本三禅に数えられる禅宗の一つであるが、臨済宗や曹洞宗ほど有名ではないのは、開山の経緯と時代に依るものか。

黄檗駅から山の方にしばらく歩くと萬福寺に辿り着く。巨刹である。大きな三門をくぐって境内に入る。禅寺はの多くは作庭に力を入れているが、萬福寺の庭園も見事なものであった。松が良い。境内の一部が工事中であったのは残念だった。

萬福寺を辞し、宇治に至る。宇治茶を呑んで帰宅。

関連

2008/09/26/Fri.

少し酔った T です。こんばんは。

研究日記

追加の遺伝子解析では良い結果が出た。

新しいキットを用いた測定を、少数のサンプルを用いて試してみた。予想に近い形で work するようなので、来週には本試験を行い、論文を仕上げる予定。

夜は、研究員嬢論文受理記念 & 隣の研究員嬢退職祝いということで、テクニシャン嬢、研究員嬢、隣の研究員嬢と食事。

2008/09/25/Thu.

昼食時には週刊誌を読んでいる T です。こんばんは。

俺はテレビを観ないので世情に疎い。周りもそのことを知っている。それを良いことに、最近は何でも「知らない」と言い張っては、痴呆老人のようにニヨニヨとしている。大変ラクである。我ながらヒドいものだが、反省はしていない。

——語るべき物事のいかほどかある。

そんなことを言い出せば、この日記に書くことが真っ先になくなってしまうわけだが。

言葉そのものに価値があることはほとんどなくて、大抵は、交換・交感されることによってようやく幾ばくかの意味合いが生じる。力むと空回りするのはそのためなんだろうな。

研究日記

血清の lot check は順調に進行中。3種類の血清の内、ある 1つで顕著に幹細胞の分化が低下していた。これはこれで面白い現象だとは思うが、scientific な系としてどうかと思うし、technology としては落第という他ない。血清という成分不明の black box から細胞培養が解放される日は来るのだろうか。

運動日記

今日も本を読みながらバイクを漕いできた。エアロバイクには、普通の自転車に近い形状のもの (背筋を正立させるタイプ) と、脚を前に伸ばす椅子状のものがあると思うのだが、我がジムに設置されているのは後者である。本を読むなら前者の方が良さそうだなあ、といつも思う。

2008/09/24/Wed.

読書用の眼鏡を持ち歩いている T です。こんばんは。

裸眼で読めないこともないけど、紙面をかなり顔面に近付けねばならないので、外で本を読むときは、古い (度が浅い) 眼鏡をかけている。

研究日記

テクニシャン嬢が有給を取っているので、今日の実験は細々と。論文も少し進んだ。

新しい測定キットが届いたので説明書を読む。どれどれ。5 ml チューブ 48本を 1時間ボイルする……だと……? そんな設備なんてないぞ。

先月投稿した論文の review が終わったようだ (process の状況がネットで確認できる)。後は editor がメールを書いて、明日にはボスのところに届くだろうか。好意的な返事であれば良いが。

早めに帰宅する。今月はまだ休みを取っておらず、やや疲れ気味。

運動日記

前回同様、ペダルを漕ぎながら本を読む。運動しながら読書をしているのか、読書をしながら運動しているのか——。別にどちらでも良いが、読むのに熱中して脚が止まっていたのはどうかと思う。ただのヘンな人ではないか。

2008/09/23/Tue.

ほんの近くにまで行きながら、桃山城のことを迂闊にも失念していた T です。こんばんは。

研究日記

午前中に出勤して細胞のメンテナンスと実験を少々。

参拝日記

京阪宇治線に乗り込み、桃山南口駅で降りた。乃木神社に参拝するためである。

福田和也『乃木希典』および司馬遼太郎『殉死』を読んで、乃木神社が京都にもあることを知った。ここ以外にも、那須 (乃木の別邸があった)、下関 (乃木の郷里)、赤坂 (乃木邸の隣地) などに乃木神社があるという。

年譜を確認してみたが、乃木は京都と深い縁があるわけではない。にも関わらず伏見桃山に乃木神社があるのは、明治天皇御陵があるからである。乃木神社は、御陵の麓に、帝霊を護るように建立された。

京阪電鉄の取締役だった村野山人は、会社を代表する形で御大葬に参列した翌日、乃木の殉死を知り、ある決意をした。乃木の一周忌に会社を辞め、全財産を投じて、伏見桃山陵に北面する位置に乃木神社の建立を企てた。京都の乃木神社は、東京、那須、長府、北海道など五つある乃木神社のなかで、一番最初に計画されたものである。

(福田和也『乃木希典』「葬礼」)

駅を降り、「乃木神社 →」という看板に従って、鬱蒼と樹々が生い茂る山の中へ入っていく。伏見桃山御陵の案内が見えたので、こちらを先に訪れることにした。とんでもない大きさの参道を登っていくと、忽然と御陵が現れる。この素晴らしい風景については、また別途写真で紹介する (私の写真でその素晴らしさが伝わるかどうかは定かではないが。しかしそれを言えば文章とて同じことであろう)。

造成を委嘱された大林組は苦慮した。というのも、天皇陵、それも神道式の山陵を作るのは実に四百年ぶりのことだったからである。(略)

陵を作るという伝統がまったく絶え、その作法も様式も途絶したところで、大林組は山陵を作らなければならなかったのである。

(福田和也『乃木希典』「葬礼」)

これは面白い事実だが、しかしそうとは思えぬ完成度の高さである。御陵だけではなく、周囲の参道、木々の剪定まで、実に配慮が行き届いている。西洋式の荘厳さや荘重さはないが、いかにも厳粛で、日本的な冒し難さを感じる。

隣に桓武天皇柏原御陵もあったので、ついでに参拝してきた。これは近年になって改めて整備されたものと思われる。当時の御陵がどうであったかはよく知らない。柏原御陵周辺もよく手入れされており、質素で静謐な空気を漂わせていた。

余談だが、大正天皇と昭和天皇は、東京は多摩に御陵がある。昭和天皇までは京都御所で即位式があったが、今上陛下は東京で即位された。即位と陵墓、ともに京都が関係しているのは、近代では明治帝が最後である。

御陵の丘を降りて道路を渡ると乃木神社がある。何ということはない普通の神社ではあるが、日露戦争の軍司令室や、長府の乃木の実家を再現した建物は面白かった。日露海戦で散った英霊の碑があるなど、靖国的な役割もあるようである (乃木は陸軍)。

駅前で蕎麦を喰って帰宅した。

食事は、自家で打ったそばであった。希典はここ数年、ほとんどそばを主食にしていた。客に「ご馳走をする」と予告して招待したときも、出したのはそばだけであり、客はそのためにおどろいた。希典はこのそばという食いものにさえ、かれは自分のストイシズムとそれへの感動と他人への訓戒をこもらせていた。

(司馬遼太郎『殉死』「腹を切ること」)

2008/09/22/Mon.

やはり和食が一番美味しいと思う T です。こんばんは。

研究日記

論文の discussion を書くために関連文献を一通り渉猟している内に、どうしても調べたい遺伝子が出てきたので、Q-PCR 用の primer を注文した。サンプルは既にあるから、実験に時間はかからないだろう。その結果を加えて、全くの仮説ではない何かが言えたらなあ、と思う。

夜はセミナー。終了後、ボス、助教の先生、研究員嬢と一緒に御池のスペイン料理屋へ。海鮮パエリアのあまりの生臭さに躊躇したが、食べてみたら意外と旨かった。しかし疑問に思うのだが、スペインの米というのは日本米に似ているのだろうか。

2008/09/21/Sun.

寝違えた痛みを庇って新たに寝違えている T です。こんばんは。

雨中日記

大雨の音で目覚める。窓を閉め直して二度寝。昼前に目覚めたら止んでいたので出勤。実験中に雨が降り始める。傘を差して帰宅。書評を書いていたら雨が止んだので食料を買い出し。食べた後で夕寝。大雨の音で目覚める。窓を閉める。布団の端が振り込んできた雨で少し濡れていたので舌打ちをする。

YouTube Today

素晴らしい。

2008/09/20/Sat.

T です。こんばんは。

研究日記

午頃職場へ。細胞培養と実験を少々。夕刻前に帰宅。

運動日記

本を読みながらバイクを漕ぐ、というのを試してみた。退屈せずに長時間の運動ができるので大変よろしい。しばらく続けてみよう。

2008/09/19/Fri.

寝違えた首が痛い T です。こんばんは。

「二進も三進も」と書いて「にっちもさっちも」と読む。それでは「四進」は「よっち」で、「五進」は「ごっち」か。何だか可愛らしい。

研究日記

論文をガリガリと書く。以前に比べ、随分と書く速度は上がった。が、まだまだ。10月半ばからは秋の学会ラッシュで、皆忙しくなる。それまでに一通り仕上げる予定。大学院の K先生にも論文執筆の GO サインが出た様子。

週末と秋分の日は出勤する予定。血清の lot check をしているから、培養細胞から目が離せないんだよね。血清は高額なので、購入 (lot の選定) を誤るわけにはいかない。普通の培養細胞株であれば lot 間の違いも大したものではないが、幹細胞となると途端に分化効率が違ってくる (こともある) ので、定量的に評価する必要がある。これも学会ラッシュ前に終わらさないといけない。

ゲーム日記

オッサン・ハンターたちの多くは、MH3@Wii の動向をやや批判的に注目している。

最大の懸案は、MH3 が棒振りゲームにならないか、という点にある。『ドラゴンクエストソード』『戦国無双 KATANA』など、Wii リモコンを用いたアクション・ゲームは死屍累々である。当然だよな……。

MHF や MH3 の要素を反映した MHP3 が出ればそれでもう良いよ、と思っている人も少なくない。俺もその一人である。MH のファン相は今や、オッサンと若年層 (精神年齢的な意味で) とに完全に二分されている。誰もが満足する MH を作成するのはもう無理だろう。

それにしても、リンク先の記事で公開されている大剣使いのポーズが気になる。ついに薙ぎ払いと斬り上げにも溜めが実装されるのか。強過ぎるだろ。

2008/09/18/Thu.

引き続き『昭和天皇』を読んでいる T です。こんばんは。

研究日記

論文の figure を作成してボスに送信。ある限りのデータを陳列していたのだが、その内の幾つかは不要ということで削除されて帰ってきた。文章であれ何であれ、このような形で推敲する (される) のが望ましい。何事も「足りない」状態で物事を成すのはとても困難である。

研究員嬢論文受理記念 & 隣の研究員嬢退職記念祝賀会を来週にでも開こうかという話になる。来月は、京阪中之島線が開通するので、鉄子であるテクニシャン嬢および隣の研究員嬢と一緒に乗りに行こうかという話も出ている。中之島線の開通で大阪国際会議場へのアクセスが便利になるのは喜ばしいことだ。翌3月にはそこで学会もある。しかし中之島に行ったところで何もないよなァと嘆息すると、「いや堂島ロールがある」とのことなので、それでは恵方を向いて丸かじりをしようと提案した。関東人にはわからないネタかもしれないけれど。

2008/09/17/Wed.

福田和也『昭和天皇』を読んでいる T です。こんばんは。

とても面白い。

例えば小説でヒトラー的なるものが出てきたとしても、それはそのまま「ヒトラー的なるもの」として解釈されるのであって、決して「ヒトラーのパクリ」にはならない。でも、天皇的なるものを書いたら、それはすぐさま「天皇のパクリ」になっちゃうんだよね。それだけ天皇というものが独特というかユニークというか。

何が言いたいのかというと、俺は歴史を物語として読むことが多いんだけど、そこに天皇というものをポーンと放り込まれると、やっぱり歴史として真摯に対峙せざるを得なくなる。もっとも、この性質を持つ天皇は明治帝と昭和帝に限られるんだけど。しかしこれは、俺の人生が昭和に始まっており、微かに明治と地続きしているから、という身体的理由によるものかもしれない。だから、今上陛下についてはどうか、と問われるといささか返答に困る部分もある。平成はまだ歴史になっていない。

自分の身体と結びついている歴史と、別にそうでもない歴史とを別けて考えねばならぬのかもしれない。俺が割と科学史を熱心に読むのは、もちろん現在の仕事と関係しているからだ。一方で、ムガール帝国がどうこうと言われても、やはりピンと来ない。今の俺と全く関係がない (ように思える) ので。一口に歴史といっても、捉えて咀嚼する意識の部位が違うように感じる。近代以前の日本史になると割と自由な意識で読むことができて、絵巻物のように楽しむこともできれば、現在とのつながりに思いを馳せて堪能することも可能である。しかし近代に至って天皇というものをドーンと置かれると、どうも自在な振幅が失われる。

明治帝や昭和帝の話は、ちょっとおかしい日本の現状や自分の周囲の状況と似ている部分も多いし、基本的に「読んでいて辛い話」であることも大きく影響している。明治の御代の英邁さに僅かに救われることがあるものの、それも実態はギリギリの背伸びの上で達成された、血の滲むような物語である場合が多い。とても哀しいがゆえに愛おしい。切ないと言っても良い。その心象を天皇が体現してもいる。それゆえにまた辛くなるというか。

っていうか、この「天皇に自分の心理を仮託してしまう」という性向は、筒井康隆のいう「天皇とは日本人のスーパーエゴである」という仮説そのまんまだよな。これある限り、近代天皇論とは実は筆者の自己言及に過ぎないんじゃね? という問題が残る。それでは天皇を自分と全く切り離して「読む」ことができるだろうか? 日本人である以上、それは非常に困難なのではないか。かといって、外国人が天皇を理解できるとはとても思えないし……。いや、そういうふうに考えるのがダメなんだ、という話ではなかったか。むむ。難しいぜ。

研究日記

病院で作成したサンプルを持って大学へ。研究員君の実験に供する。

夕方から、大学院の研究室の教授の最終講義を聴講。私は大学院に籍を置かせて頂いているが、日々の仕事は病院で行っており、この教授から特に何か指導を受けたというわけではない。けれども、そのような形で仕事をさせてもらえているのも、この教授が快く了承してくれたからであり、大変感謝している。院試の前に面談して頂いたとき、「医者だからとか医者じゃないからだとか、ここにはそんなのないから」と言われたのが非常に印象的だった。その一言で進学を決めたといっても良い。立派な先生だったと思う。

2008/09/16/Tue.

T です。こんばんは。

研究日記

先週末の実験結果をボスに見せてディスカッション。論文作成に GO サインが出る。まずは今週中に Fig を作成か。文章も今月中に書き上げる予定。最初に submit する journal も決まったので、投稿規定も調べておかないと。

研究員嬢の論文が accept されたお祝いということで、ボス、テクニシャン嬢、研究員嬢と先斗町へ。

2008/09/15/Mon.

職場で日記を書いている T です。こんばんは。

この週末はイライラしていたので心ない日記をものしてしまった。反省している。と書くのは簡単だ。

ところで、動物は反省をするのだろうか。まずは反省を定義せねばならぬ。行動学的に捉えるならば、反省とは学習の一環であるように思われる。自分はこうした → するとこうなった → したがって次はこうする。立派な学習だよな。

ある学習を反省たらしめるのは、「次はこうする」と決めるときの判断基準ではないか。判断基準が「善悪」という倫理であるとき、その学習は反省となるように思われる。

犬を躾けるときのことを考えよう。犬が家の中でうんこをしたとする。飼い主は犬をうんこの前まで引っ張り出し、とりあえず怒ってみせては、犬の頭をぶつなり何なりする。すると犬は家の中でうんこをしなくなる。学習したわけだ。このときの犬の学習プロセスはどういうものだろう。「ここでうんこをするのは悪いことなんだな」「悪いことだから、ここでうんこはしないようにしよう」。犬はそう考えるだろうか。否。こう考えるはずだ。「ここでうんこをするとぶたれるんだな」「ぶたれるのは嫌だから、ここでうんこはしないようにしよう」。犬は恐らく、善悪ではなく損得で判断する。動物としては当然のことだが。犬は立派に学習するが、やはり反省しているわけではない。私はそう思う。

善悪による判断とは、つまりタブーであろう。犬にタブーがあるだろうか。よくわからない。

善悪か損得かという観察は、人間に対しても使える。ある人間が反省しているように見えるとき、彼が心の奥底で本当に気にしているのは善悪なのか損得なのかを忖度する、という極めて底意地の悪い観察である。広い範囲で応用できるように思われる。

研究日記

朝に細胞を処理して、夕方にまた処理するという実験。間の数時間はやることもないので、MHP2G をプレイしていた。この日記も書いた。その時間で勉強するなり別の実験をするなりすれば立派なものだとはわかっているが、どうも気力不足である。

腹痛日記

昨日の夜は牛丼を食べた後に腹が痛くなった。今日の昼はコンビニ弁当にしたが、食べている最中にみるみる激痛が発生してきたので思わず笑ってしまった。胃にモノが落ちた途端、そこから痛みが拡がるというか。何ぞこれ。

2008/09/14/Sun.

T です。こんばんは。

あなたとは違うんです

研究日記

色々と出歩いて疲れた。

運動日記

ジムに行ってさっぱりしようと思ったら休館日だった。

面倒臭くなって久しくジムの記録を付けていないが、ボチボチと通っている。

2008/09/13/Sat.

敬老の日ということで祖父母に宇治茶を送った T です。こんばんは。

父方の祖父母から電話をもらった。孫である俺のことを気にかけてくれているのは痛いほどよくわかるし、とても有り難いのではあるのだが、毎回結婚云々の話をしてくるのには閉口する。もうウンザリなんだぜ?

どうもいまだに人間不信で、旧友を除いては誰にも会いたくないし、どこにも出かけたくない。「それじゃアカンやろ」とテクニシャン嬢がケツを叩いてくれるので、最近では幾分かマシになったが、それでも昔日の調子には程遠い。人間不信というか、自分自身に不信感があるんだよな。

ウザい日記になったな。もうやめておこう。

研究日記

昨日、テクニシャン嬢に頼んでおいた実験の結果を解析。またもや相関 r > 0.9 などという数字が出て、歓喜の小躍りをする。

2008/09/12/Fri.

共著論文が増えるのは嬉しい T です。こんばんは。

研究員日記

月曜日に submit された研究員嬢の論文が一発で accept されたという。早過ぎだろ。W先生の論文もそうだった。どちらも BBRC。良かったのかコレで。BBRC に投稿するのは勿体なかったんじゃね? という疑問は残る。

投稿先を見極めるのは難しい。高 IF の雑誌を狙って reject を喰らうのはつまらんし、何より時間がかかる。かといって、チャレンジしなければいつまで経っても良い paper は出ないんだよな。このジレンマ。

昨日の PCR の結果をこれまでのデータと一緒に解析したら、相関 r > 0.9 という素晴らしい数字が得られて脳汁が出る。おほほほほほ。ディスプレイを眺めながら狂笑する。誰も部屋にいなかったのが幸いだったが、誰かがいたとしても笑ったと思う。この瞬間のために仕事をしていると言ってもよろしい。いくら本を読んでもこの感覚だけは味わえない。

そしてこの三連休は仕事。やっほい!

2008/09/11/Thu.

それでもカレーを食べる T です。こんばんは。

昨夜はカレーを喰った。もちろん外食である。ここのカレー (武士の情けで名前は伏せるが、coco壱番屋という店である) を食べると必ず腹が痛くなるのだが、昨日は腹将軍の襲来がいつになく急迫で、店を出てからの帰宅途上にもう下腹がキリキリと痛み出した。我慢をして歩を進めるが、いよいようんこが漏れそうになって立ち止まるしかない。二進も三進もとはよく言ったものである。中腰になって冷や汗をダラダラと流しながら腹痛が彼方へと消え去るのを待つ。立ち往生。そんな言葉が脳裏を過るが、絶え忍んだ時間はせいぜいが 1分ほどのものであろう。腹痛がスーッと霧消して行く感覚、これは何とも形容に難い随喜である。気力を取り戻して勇躍前へと進む。再び暗雲が迫り来ることを俺は知っている。残された時間は少ない。道行かば。暗転。肛門括約筋とは要するに殿軍である。などという比喩が思い付くのは松本清張『私説・日本合戦譚』を読んだからだ。警察署の前で三度目の立ち往生を余儀なくされる。紛うことなき不審者。職務質問中にうんこを漏らせばやはり公務執行妨害になるのだろうか。

帰宅後、便所と風呂に入り、しばし微睡む。PCR の夢を見たことは日記に書いた。

研究日記

PCR がかからなかったプライマー 2種のうち 1つは、アニーリング温度を下げることで産物を得ることができた。もう 1つのプライマーも増えていないことはないのだが、非特異的なバンドが多くて遺伝子の定量には使えない感じ。プライマーが悪いこともあろうが、目的の遺伝子の発現量も少ないのだろうなァ、という印象。

帰国された研究員女史が午前中に病院へ来訪。ボス、大学院の K先生、テクニシャン嬢、研究員嬢と一緒に皆で昼食。

2008/09/10/Wed.

改装後の病院の食堂に初めて行った T です。こんばんは。

研究日記

朝はプライマーを受け取るために大学に寄った。旦那の留学に伴って滞米していた研究員女史が 2年ぶりに帰国し、今月から助教の先生のところに戻ってきている。久し振りにお会いし、色々と話をした。お元気そうで何より。

病院に赴き、ボス、M先生、研究員君とミーティング。研究員君が受け持っているプロジェクトがなかなかの難局を迎えている。俺も援護射撃をしたいのだが、これまた上手くいっておらぬ。

テクニシャン嬢に PCR をかけてもらうが、バンドは出ず。アニーリング温度を下げて再度試行するように頼む。これで増えてくれれば良いのだが。

夕方は大学に行ってセミナーを聴講。

やり直した PCR は成功した。という夢を見た。嬉しさで目覚めた後の虚しさよ。

2008/09/09/Tue.

T です。こんばんは。

近代以降の文学においてテキストが重視されるのは、それがテキストであることを意識されて書かれたテキストだからじゃないか、っていう。物語るためではなく文字通り読まれるものとしてのテキストという自覚、みたいな。それに伴う必然的な読者のレベル・アップっていうのもあるよな。

ところで。

我が周辺の住環境はとにかく静観で気に入っているのだが、どうも最近は騒々しい。大学が夏休みに入ってから階下の者が毎晩和合しており、窓を開けているのか、女の甲高い嬌声が俺の部屋にまで届くので大変うるさい。仕事が遅くなって帰ってきたときなどは、建物の向かいの道路にさしかかった地点で閨の声が聞こえてくる。散歩をしている人が我がアパートを見上げていることも多い。学生マンションではよくあることとはいえ、いささか常軌を逸しておる。

この交合は毎夜 2回、22時頃と 2時頃に始まるのだが、そのたびに住人が一斉に窓を閉めるのでいつも笑ってしまう。そして俺も窓を閉めるのだが、面倒といえば面倒なので、やはり少しく腹が立つ。読書や仕事をしているときなどは尚更である。勉強をしている者も多いだろう。住人の多くは学生なのでわざわざクレームを付けるようなことはしないと思うが、しかし隣近所の監視網が発達している京都のこと、近隣の居住者から大家に苦情が寄せられることは大いにあり得る。というか、大家老夫妻は件の部屋の下に住んでいるんだよな。やかましく感じているに違いない。

住人といえば、俺の斜向かいの部屋の玄関がいつも半開きになっているのも不思議である。深夜早朝に関わりなく、常に半開きなのだ。そして隙間からは、傘やゴミ袋がはみ出ている。人は住んでいるはずだが、見たことはない。灯が点いていることもない。留守なのか。留守なのに玄関が開いているのか。何なんだろう。異臭がしていないか、今でもつい注意を払ってしまう。

あと、我らが住人ではないが、深夜に物凄い大声で歌いながら自転車で向かいの道路を通過する男、というのもいる。何を歌っているのかは知らない。頻度も週1回ぐらいである。どれほどの大声かを説明するのは難しいのだが、ドップラー効果が発現するほどである、と書けば少しは想像できるだろうか。自転車の速度もなかなかのものであるに違いない。深更、何だか人の声がするなと思っていると幾何級数的に音量が大きくなってくる。奴が来た。と思った次の瞬間には我が建物を通り過ぎて彼方へと去って行く。Stormbringer。彼のことを俺は勝手にそう呼んでいる。

2008/09/08/Mon.

28歳なんてのは人生で一番モテる時期なんだからもう、お前は何をやってるんだ、っていうかダメだ——、というよくわからないお叱りをボスから頂戴した T です。こんばんは。

研究日記

夕方は全体会議。

夜はセミナーで発表。ある病態モデルでの遺伝子の発現の変化を見ているのだが、追加であと 3つほど別の遺伝子を調べて、それで論文にまとめようという話になった。実は manuscript は前もって書き進めており、あらかたの部分はもう済んでいる。ボスの指定する期日には間に合うだろう。ハードルは超えるたびに高くなるので、いつもこうしてクリアするのが賢明かといえばはなはだ疑問でもあるが。しかし「無理です」と答えるのは癪だしなァ。

研究員嬢の論文投稿記念ということで、ボス、大学院の K先生、研究員嬢と駅向こうの居酒屋で呑む。松茸の土瓶蒸しについて白熱した議論を交わす。日付が変わる前に帰宅。

今日のニコニコ動画

同年にニコ・ロビンがいたので救われた。しかし穴子さんが年下とは……。

2008/09/07/Sun.

T です。こんばんは。

飯屋でテレビを眺めていたら白痴的な喋り方をする男が映っていて、知的障害者のドキュメンタリー番組かなと思ったら、どうも金子とかいう芸人の漫談であったらしい。生徒会長だという。養護学校なのかな。当今はこういうものが面白いと見える。

研究日記

培養細胞のメンテナンスを少し。明日のセミナー発表の準備をボチボチと。

2008/09/06/Sat.

T です。こんばんは。

研究日記

Western を行う。抗体反応中に本を読んだり、ゆるりと過ごす。

月曜日のセミナーで発表するので、明日もラボに行く予定。

今日のニコニコ動画

感動した。

2008/09/05/Fri.

自分自身を客観的に見られない T です。こんばんは。

国際学会の航空チケット代を振り込むために朝イチで銀行へ。10万円以上の振り込みは窓口で行わなければならない。至極手間であるし、何よりも時間的に不自由なのが我慢ならぬ。振り込め詐欺を抑止するためらしいが、10万円以上の現金を持ち歩くことの方がよほど危険ではないのか。色々と間違えている気がする。

研究日記

個体差の激しいグループで平均値を求めても絶望的な棒グラフができあがるだけだ。しかし個体差を横軸に展開すれば美しい帯を描いた散布図に生まれ変わる (こともある)。これはもう、統計処理の技術というより、プレゼンテーションのテクニックに近い気もする。「説得力のあるデータ」って、どういうことなんだろうな。

あなたとは違うんです

「福田総理が突然の辞任だが、野党の連中みな言うことが同じ。投げ出しだの無責任だのと言うばかりで、自分たちが辞任に追い込んだのだと言って喜ぶやつがひとりもいないのはどういうわけだ。ひとりくらいわれわれの努力が実を結んだと威張るやつがいてもいいのではないか。まさかいじめたことで罪悪感を抱いているわけでもあるまい」筒井康隆が書いていたのが面白かった。さすがあ。

そういえば『銀齢の果て』を購入したまま放置していたのだった。早く読まねば。今週末は仕事の予定だから、来週末くらいにじっくり読もうと思う。

漫画日記

今号の『あぶさん』で、あぶさんこと景浦安武が 61歳 (1946年 12月 17日生) であることを再認識して吹いた。今回のエピソードでは、敬老の日に 43歳の小宮山 (1965年 9月 15日生) からホームランを打っていた。色んな意味でスゴ過ぎる。島耕作なんて目じゃねえよな。

『島耕作』は、これまでに『課長』『部長』『取締役』『常務』『専務』と、一通り全部読んでいる。現在連載されている『社長島耕作』も面白いのだが、俺と近い年齢の頃の彼が活躍する『ヤング島耕作』の方がやはり興味深い。

『島耕作』はサラリーマン漫画ではなくおとぎ話である——、ということは作者を含めた誰もが認めているが、会社勤めの経験がない俺にとっては、そもサラリーマンという存在自体がおとぎ話なのであり、「この部分はリアルである/ない」という判断すらできないから、あれは『太閤記』のようなものだろう、とふざけた捉え方をしている。社長になった島耕作が海外で活躍しているのは朝鮮出兵のようなものか。だとすれば島政権も危ないなァ。

今日の日記のタイトルは島耕作の座右の銘である。「俺の仕事じゃない」。何だか福田康夫元総理みたいだな。初芝電産は本当に大丈夫なのか。

学級委員

例えば——、図書委員会は図書委員から構成され、その中から図書委員長が選出される。委員会とはそういうものだ。

そう考えると、学校のクラスにおける「学級委員長 (と副委員長)」というあり方は極めて不思議である。どこに一般の委員がいるんだろう。

2008/09/04/Thu.

必要があって血管内皮の勉強をしている T です。こんばんは。

単語に慣れない。"arteriosclerosis" (動脈硬化) と "atherosclerosis" (粥状動脈硬化) なんて、パッと見てもすぐにどちらか判別できない。この例に限った話ではないが、病名って難しいよな。

研究日記

それにしても血管の論文、多過ぎだろ。Reference を辿っていたらエラく時間を喰ってしまった。

心血管 (cardiovascular) などと一言でまとめられることも多い心臓と血管だが、細胞レベルの研究における実態は大きく異なる。

血管を構成する内皮細胞および平滑筋細胞ともに、広く使われている優秀な培養細胞株が数多くある。まずこれが羨ましい。また、患者から血管細胞を採取することも比較的容易である。血管は、身体中のあらゆる場所、つまり全ての臓器に存在する。心臓の血管、脳の血管、肺の血管、肝臓の血管——、それぞれに固有の問題があると同時に、共通のシステムで動いてもいる。そして血管を流れる血液。これまた非常によく研究されている分野であり、もちろん血管系とは切っても離せない関係にある。血管の研究は幅広く、奥深い。血管再生、血管新生、人工血管などなど、興味深い話題に事欠かない、古くて新しい学問分野でもある。

心臓、特に心筋細胞の研究は難しい。心筋細胞は増殖しないため、培養細胞株のようなものはない。心筋細胞の実験をしたければ、新生児ラット (あるいはマウス) の心臓を酵素でバラバラにして初代培養 (primary culture) をする他ない。実験を始めるたびにこの作業が必要なのだ。系を安定させるだけでも大いに苦労するし、マン・パワーが要る。細胞生物学、分子生物学を心筋細胞で行う上で、これが最大のネックであろう。

心臓は重要な器官である。重要過ぎるため、発生学が困難である。心臓に関係のある遺伝子を調べようと思って reverse genetics の手法を使えば、個体は心臓に異常をきたして死んでしまう。心臓に関係のある遺伝子を取ってこようと思って forward genetics の手法を使えば、心臓に異常をきたした個体は生まれてこないので同定できない。どうやって調べろというのか。まァ、これは半分冗談だけど。

もちろん心臓は心筋細胞のみで構成されるわけではない。血管も含まれるし、血液も流れている。間質細胞もあるし線維芽細胞もある。一度悪くなってしまったこの複合的なシステムを、——しかも死んでしまった心筋細胞は蘇らないという重荷を背負って——、劇的に改善するのは至難である。この困難は、そのまま心臓疾患の脅威に等しい。だからこそ研究費も下りるわけだが、しかしこれは、心臓疾患に投じられている膨大な医療費の反映でもあるんだよな (金を喰う病気の研究はやはり振興されやすい)。

心血管系は競争の激しい分野でもあるから、胡散臭い研究も少なくない。そんなアレヤコレヤも含めて、面白いフィールドだとは思っている。

2008/09/03/Wed.

今日は昼食の代わりに午睡を貪った T です。こんばんは。

先日の日記で物語とテキストを区別したのは、以前から気になっている昔話や怪談や都市伝説が念頭にあったからだ。昔話や怪談や都市伝説は歴とした物語だが、文学のようにテキストを基盤にしているわけでは必ずしもない。むしろ物語が先行していて後にテキストに落とし込まれるケースが多い。これは昔話や怪談や都市伝説のヴァリアント問題 (「臨床例としてのエピソード」「昔話のヴァリアントとしての小説」) とも深く関係するし、「読者は皆、自らの内に描いたユニークな物語に独特の構造を、また別途に見出す」ことの裏返しでもある。文芸の実にこの点が面白いと思う。

テキストに物語が内包されているわけではない。むしろ逆で、テキストは一定の範囲の中で不定形に流動する物語をある一つの形で固定化したものなんだよね。

だから、テキストからある物語を導き出すことはできても、テキストの構造解析をすることでその物語を分析することはできない。『源氏物語』に何回「あはれ」という言葉が出て来るかを数えたところでどうなるというのだ。数えられるということは、それぞれの「あはれ」が均質であることを前提にしているのだと思われるが、そんなバカな。各「あはれ」の差異を物語上に位置付けることこそが文学じゃあないのか。

——などと独りで興奮しておるわ。いやまァ、この問題については割としつこく考えているので。

ところで、「一定の範囲の中で不定形に流動する物語をある一つの形で固定化」する行為を一言で表せば、それが「書く」ということになるんだろうな。単語の選択の振幅とか、そういうことにも関わってくるのではないかと今は思っている。

研究日記

IP-Western が上手くいかなくて途方に暮れる。

今日のニコニコ動画

感動した。

2008/09/02/Tue.

PSP を買い替えるかどうかで迷っている T です。こんばんは。

研究日記

動物組織からタンパク質を抽出。ホモジナイザーにこびりついた肉片を注射針でこそぎ取るときに、針先で指を突いてしまった。やたらと血が出て困ったが、そも注射針とは、血液を抜き取るために特化した形状をしているのだから、当然の結果ではある。たかが針とはいえ、俺の知らない長い歴史と様々な工夫がこの注射針には宿っているに違いない——。こういう想像は大事だと思う。

留学された先生から plasmid の request があったので発送。

研究員嬢の manuscript が完成し、後は submit するだけとか。

M先生の論文が掲載された学会誌が届いた。国内学会の雑誌で IF > 2 というのはかなり頑張っている部類だが、医学系の雑誌は基礎系よりも IF が高くなりやすいので、例えば分子生物学会の "Genes to Cells" (IF > 3) あたりと比べてどうなんだろう、という疑問はいつもある。ただしこの医学誌も、journal としての更なるステップ・アップを求めて、これからは臨床報告 (case report) を扱わないことにするらしい。これは世界的な潮流なのだろうか。

日本発の journal の IF については、このページの「日本と世界の Impact Factor」にデータがある。

ゲーム日記

本日のゲーム事情。PSP/PS3 周辺がちょっと活発になってきた。

あと、俺は買わないけれど、『ディシディア ファイナルファンタジー』『初音ミク Project DIVA』も売れそうだよな (ムービーを観た限り、『ディシディア』はクソゲーっぽいが)。

それから Xbox 360 の値下げ。GTA4 日本語版の発売日が 10月 30日だから、これから売れるかもしれんね。

2008/09/01/Mon.

能動的な「読み」を要求するのが文学であると思う T です。こんばんは。

少し前に、「物語が自明の『構造』があらかじめ内在しているというのは幻想だ。そんなものはない」と書いた。もちろんこれは極論なのだが、どうも言葉足らずだったような気がするので書き足す。

テキストの中には、作者が意図して作り上げた構造がほぼ間違いなく存在する。それを探り当てることは読者の「読み」を大いに助けるだろう。けれども、その構造を探し当てることがすなわち読書である、というわけではない。あらかじめ用意された正解があると想定し、それをテキストから導き出そうとする行為は、俺から言わせれば単なる謎解きにしか過ぎず、創造的でも知的でもない。算数の宿題と同じである (無論、算数の宿題は大切だ!)。

物語は、読者がテキストを読むことによって展開される。読者それぞれの脳裏に現出した物語において、「テキストの中に」「作者が意図して作り上げた構造」がどう関係するかは——もちろん大いに関係するはずではあるがしかし——、別問題である。読者は皆、自らの内に描いたユニークな物語に独特の構造を、また別途に見出すだろう。それは他の読者には見えないかもしれない。だがそれが良い。それが「感想」なのだ。

あるいはもっと進んで、意識的な「読み」により、テキストとは関連性の希薄な構造を浮かび上がらせることも可能である (パロディなど)。逆に、自分が抽出した構造をテキストと密着させることで、説得力のある評論を書くこともできるだろう。誰もがテキストを勝手に読んで、勝手なことを言っているのだ。大した話ではない。

……ということを書きたかったのだが、どうも肩に力が入っていたようである。いかんなァ。

さて、ここから色んな話題に分岐できる。

歴史や科学も物語であるというのは?

テキストに対して fact を想定すれば良い。Fact は真実ではない。観測限界の内側で認識された事実である。その限られた材料から、我々は史実や法則を「読み」出す。観測限界が拡大されて fact の質が変わると、以前の定説やモデルが棄却されることもある。異説や論争というのも、要するに「読み」の違いである。話者の頭の中には、また別の物語が展開されているのだろう。

俺が特に肝心だと思うのは、科学における法則は文学におけるテキストではない、ということである。あれは仮説という名の物語なのだ。教科書に書いてあるから、ついつい勘違いしてしまいがちなんだよな。

探偵小説における「構造」と「読み」

探偵小説における「読み」の第一義は、「テキストの中に」「作者が意図して作り上げた構造」を探り当てることである。恣意的に読んではいけない (とされる)。これは他の文芸には見られない特徴だ。

坂口安吾『不連続殺人事件』の愉快なエピソードを挙げよう。『不連続殺人事件』は、犯人宛て懸賞小説として執筆され、これに対して 4人の読者が完全なる答案を提出した。まずはそのことに対する安吾の弁。

私は思うに、巨勢博士の推理と全く同じように一々の細部にピタリと推理された方が四人もあったということは、私がむしろ誇ってよいことではないかと思う。つまり、ピタリと当たるように出来ているのだ。

(坂口安吾『不連続殺人事件』、傍線 T)

このような探偵小説に対して、読者が自由な読みを展開するとどうなるか。

最も答案の名作は森川信一座の俳優木田三千夫氏からのもので、これはまさに前代未聞の発想法により、現代推理小説のかつて思い及ばざる着眼点から、作者の向っ脛をカッ払って出てきたもので、

ひとつ、下枝は歌川家に召使わるること、という条より始まり、つまり、下枝というヒナには稀れな美少女が歌川家へ召抱えられる事となり、多聞老人の腰元となって侍くうち、つれづれなるままに多聞の書架より古今東西の探偵小説をとりいだして読むうちに、持って生れたる殺人鬼の毒血はここにムラムラとよみがえり、夜となく昼となく血の惨劇を思いふけって、ここに不連続殺人事件の幻想を構成し、ついにこれを実行するに至るテンマツを、古風優美な物語にこしらえあげていられるのである。

(坂口安吾『不連続殺人事件』、傍線 T)

「まさに前代未聞」となるのである。それでは、木田氏の「読み」は間違いであったのだろうか? 彼の読書体験は、物語は、甘美なものではなかったのだろうか? これは結構重要な問いかもよ。

さて、まとめのようなことを書くならば、「読み」とはテキストから飛翔する試み、と言えるかもしれない。しかしあくまで、テキストをジャンプ台にしているという点がミソである。「読み」は糸の切れた凧ではない。

もしも逆に、読書がテキストに縛り付けられるものであるのならば、「今」「私が」「読む」必然性はもうそこにはなくなってしまう。辞書を全て読み通す必要がないのと一緒。

読み出した物語は貴方だけのものであって、だからこそ価値がある。でないと、物語について語っても虚しいよね、っていう。