- 文学が宿命的に持つ破滅的に単調な構造に対する一つの竹槍

2008/08/20/Wed.文学が宿命的に持つ破滅的に単調な構造に対する一つの竹槍

自由であったり新しければ良いってもんじゃないけれどと思う T です。こんばんは。

文章を読み書きしていて絶望的な気分に陥るのはそのあまりにも単純過ぎるシーケンシャルな構造に疑問を抱いたときである。特に小説は最初の一文字から読み始め最後の一文字まで順番に読まなければならない。何という不自由!

学術論文は硬質で形式張った文章の代表格のように思われているが読み方は意外と自由である。特に理系の論文は高度にモジュール化されており必要な部分だけを抜き読みすることが可能だ。Results を読んでデータが見たくなったら figure を眺めつつ legend に目を通し実験方法を知りたくなったら materials & methods に飛べばよろしい。順番に読まなくともその内容の理解に妨げがあるわけではない。該当分野に精通しておれば introduction に目を通す必要はなく専門家ともなれば abstract を読むだけで正確に論文の全貌を把握することができる。充分な知識があれば discussion を読まずとも全く同一の議論を展開することができるだろう。

問題は小説を代表とするいわゆる文芸作品である。抜き読み斜め読み飛ばし読みをすることは不可能ではないがそのような行為にほとんど意味がない。とにもかくにも最初から最後まで通読することでしかその作品を味わう術はない。下の句を詠じてから上の句に移る詩歌がどこにあるだろうか。

文章を退屈な線形構造から遊離させるための古典的な方法として脚注が挙げられる。膨大な註釈がその本文となるいわゆる集註の体裁はあくまで実用上の要請から成立したものだが田中康夫『なんとなく、クリスタル』のように遊戯的で文学的な効果を狙った註釈小説といったものもなくはない。それが鑑賞者にとって面白いかどうかはまた全くの別問題ではあるが文学が宿命的に持つ破滅的に単調な構造に対する一つの竹槍であることには相違ない。

筒井康隆『エディプスの恋人』においては括弧などを用いた同時多発的な感情の並列表記が試みられており大きな成果と強い印象を残している。綾辻行人「殺人鬼」シリーズ「囁き」シリーズや瀬名秀明『パラサイト・イヴ』などでは括弧太文字反転文字の挿入によって時空間に近しい描写が同一のセンテンスに乗せられている。これらの表現は時間的に同じ位置にあるテキストは文章内においても同じ位置に書かれるべきという考え方に基づいている。時間軸上のそれぞれの地点において平面が切り拓かれることで小説世界はより緊密な記述を得たが逆にいうなら文学が持つシーケンシャルな時間構造をより強固にしただけともいえる。このように同時多発的な事柄を一つのパラグラフ内において文字通り同時多発的に描く手法はモザイクと呼ばれ発想としては実はそれほど新しい試みではない。

意図的なルビ (「俺の愛銃」と書いて「ワルサー P38」と読むような) は言語が持つ同時多発的な意味を視覚的に表しているという点で興味深い。ルビにさらにルビを振ることで重層的階層的な表現ができないかと考えたこともある。この考え方を援用すれば続々と実験的な手法を思い付くことができる。脚注に脚注を付ける。引用文を引用する。作中作に作中作を登場させる。あるいはこれらを組み合わせる。作中作で引用した文章に付せられた註釈が本文で振られたルビに対するものであった——などと自分でも書いていてよくわからぬ事態を現出させることも可能である。しかし一歩間違えれば目も当てられないメタ・フィクションに堕す危険性もあるので優れた作品とするためにはよほどの創意が必要ではあるだろう。

と書いていて気付いたのだが上記の効果のほとんどはハイパーリンクで実現可能であるばかりか既に多くの場所で実装されている。もっともその機能はあくまで合目的的に開発されたものであり文学的な効果を狙ったものではない。単に便利になっただけで根本的には昔から行われている文献の渉猟と同質であるともいえる。求められているのは直線的ではない全く新しい構造と読解世界を持つ単一にして完成された文芸だがそれがどのようなものであるかは想像することすら困難だ。

しかしひょっとして……シーケンシャルであることを放棄した小説はもはや小説ではなくなるのかもしれない。限りなく自由である小説という表現は何によって小説となり得るのかという問いに対する回答がこのあたりに潜んではいないか。