- 裏切り

2008/08/19/Tue.裏切り

アキラメンのツーリング日記に「俺もまた乗りたいぜチクショー!」とコメントしたら「バイクは裏切らないぜ」と返された T です。こんばんは。

どういう意味だろう、と少し考えてしまった。

研究日記

昨夜はボスが遅くまで研究員嬢の manuscript を添削していたのだが、それもついに終わったということで、大学院の K先生、研究員嬢、ボスの長男君 (普段はアメリカ在住だが現在は帰省中) と一緒に職場近くの焼き鳥屋で晩餐。

夏休みを 27 - 29日に取ることにした。

今朝は大学に寄って研究員君とテクニシャン君に細胞へのウイルス感染を伝授した。実験が上手くいくことを祈る。祈るのは簡単だ。その後、あれこれと情報交換。

「裏切られた」というのは、自分の予測と結果現象が異なった場合、それでもなお自分の予測が正しいと信じ、現象の正統性を懐疑する感情である。

科学研究では常に、仮説 (hypothesis) を立ててその当否を検証する。予測が外れることもしばしばだが、結果に「裏切られた」という感覚を持つことはない。自然現象は絶対の真であるからだ。それがサイエンスの世界観でもある。自己の外側の世界を疑えば、それは哲学となる。世界の法則を任意に決めるなら、それは数学なり記号論理学となる。科学的世界観は非常に謙虚なのだ。「科学は傲慢」と批判する人間は、一体どのように世界を見ているのだろうか。聞いてみたいものだ。

上記を踏まえると、意図的に相手を「裏切る」には、相手の世界観を的確に把握しておかなければならないことがわかる。能動的な行為としての「裏切り」は高度に知性的だ。したがって、「バイクは裏切らない」は真である。

意図的でない裏切り——「この裏切り者め」「そんなつもりではござらぬ」というケース——、これは両者で世界観が共有されていないと見るべきで、要は擦れ違いである。この場合、「裏切り」は裏切られた側の感情にのみ存在する。逆にいえば、相手・状況に関わらず、常に「裏切られる」可能性が存在する。つまり、「バイクには裏切られない」は必ずしも真ではない。