人体実験の被験体となった T です。こんばんは。
職場近くの小学校で野球チームが練習をしていた。ジャガーズというらしい。リトル・リーグにはチーム名があるんだよな。我が小学校のチームはブルーサンダースといった。弟が入団しており、週末は熱心に練習に通っていたものだ。
ちょうど甲子園大会が開かれているが、高校野球もチーム名を付けたら面白いのに、と思った。京都テンプルズとか。そんなことをやりだしたら、またぞろ「桐生レイパーズ」などとネタにされたりするんだろうけど。
MO君の写真が素晴らしいと紹介した後で、あれらの写真は撮影後に Photoshop などで仕上げをしているのかな、と少し気になった。画像処理ソフトを使ったからどうだとか、使わない方が良いだとかというわけではないけれど。ちなみに俺は無修整画像が好きなので撮影したそのままの写真を載せている。
おッ、これは撮影しておくか、という景色に出会ったときに限ってカメラを携帯していない。というか、普段から持ち歩いていない。いつも反省するが、すぐに忘れる。携帯電話で撮影すれば良さそうなものだが、やはりカメラの画質には及ばないので躊躇してしまう。べべべ別に、携帯電話での撮影方法を知らないってわけじゃないんだからね! とでも書けばツンデレになるのか。痩せたキャラクターだなあ。と批判することは簡単であるが、それほど単純な問題でもないと考えている。
何も理解していない俺が敢えて書くが、そもツンデレとは、「ツンでもありデレでもある」という複層性にこそその魅力が宿っていたはずだ。しかし「ツンデレ」としてラベル (= 認識) された途端、それは単層の人物像となってしまい、例えば「べべべ別に〜じゃないんだからね!」「勘違いしないでよね!」と表現するだけで (俺のような人間にも) 容易にそのキャラクターを消費できるようになった。無論、それが悪いといっているわけではない。
「ドン・キホーテのような人物」と表現することで誰もが共通の人物像を思い浮かべることができるように、典型としてのキャラクターは創作物がもたらす共通言語という側面がある。しかし同時に、『ドン・キホーテ』という小説で描かれた一人の男の狂気や哀しみもそこからは消え失せる。またあるいは、似たような人物を眼にするたびに、「これって要するにドン・キホーテでしょ」と四捨五入で分類してしまいがちになる。
これは非常に現代的な文学 (を含む全ての創作物) の問題で、作者がどれだけ良い作品を創造しても、それはすぐさま過去の膨大な作品群のどこかに結びつけられてしまう (鑑賞者は無意識に結び付けてしまう)。作品が高い評価を得るためには、ある意味ではわかりやすい形での「新しさ」が要求される。それは新しい地平線を切り拓く原動力にもなり得るが、進化の方向が新化ばかりで一向に深化しないという弊害も見受けられる。
この情報過多の世界で、俺達が白紙の状態で創作物と向き合う機会はほぼ絶無である。日々生きているだけで、物凄い量の先入観がびっしりと脳髄に植え込まれる。良くも悪くも、それが当世というものである。損だよな、と思うことも少なくない。
ボスの臨床研究に被験者として参加。詳細は後日。
夜はボス主催の宴会。