- My Diary

2008/08/01/Fri.My Diary

日記については間歇的に考えている T です。こんばんは。

昨日は「読むということ」というエラそうな日記を書いたわけだが、この種のことを考えるたびに、僕は僕の日記がこのような「読み」に耐えないという事実に直面する。もっとも僕は、首尾結構が整った日記、すなわち自由な「読み」を制限する文章を志向して書く場合が多いので、これは当然の結果でもある。昔の日記から話題を膨らますこともあるけれど、それは空想を広げてというよりも、拙かった以前の論の穴を埋めるという意味合いが強い。そのことには概ね満足している。

この日記は後の自分が読み返すことを想定して書いているので、その内容はかなりの精度で記憶している。引用やリンクの必要があれば検索して簡単に引き出すことができる。検索の確度を上げるために、普段は使わない文句を意図的に挿入することもある。その日記を書いている時点から、これは後で参照するだろうなァ、などと考えているわけだ。単に、後の自分に任せようと甘えているだけなのかもしれないが、自分と自分の対話であるからそれはそれで構わない。

極く稀に、特定の個人ないし集団を意識して書くこともあるが、大抵は焦点がズレたり言葉足らずで終わってしまう。後で書き足したり書き換えたりしたくもなるが、そうなると背景を再びまたは新たに説明する必要が生じ、面倒臭いとかいう以前により一層不分明になる予感がして躊躇する。僕の力不足といえばそれまでだが、それだけではない構成的な原因があるようにも感じる。長らく設置していた BBS をいきなり取っ払ってしまった理由もそのあたりにあるが、まだ適切に言語化できていない。

語られるべき「テキスト」の位置が問題の核心の一つとして恐らく存在する。

読む者それぞれの頭の中に「別の物語」があるのだとすれば、また物語がそのような形でしか存在できないとすれば、実は『予告された〜』という単一の「物語」など実在しない、ということになる。残るのは記号としてのテキストのみ。

(「読むということ」)

『予告された殺人の記録』というテキストはマルケスという人間が書いたものであり、彼と全く無関係である僕や僕以外の他人からは等しく離れた位置に存在する。したがってそのテキストに対して僕と他者は同じ条件で語ることが可能である。

一方、僕の日記は僕が書いたものであり、そのテキストは僕と非常に近しい位置にある。したがって僕が僕の日記について語るあるいは読むという行為は、他者が僕の日記に対して行う事柄とは別の位相にある。僕が他者と他者のテキストに対峙する場合は、全く同じ事情が鏡像のように成立する。

(「語る」というのは、あくまで文章をもって、という事態を想定している。いわゆる顔を合わせての会話ではない)

作者の頭の中にあるモヤモヤっとしたもの → 作者が書こうとする理想化されたテキスト → 実際に書かれたテキスト → そのテキストが意味する事柄 → そのテキストを読み意味を把握した読者の頭の中に顕れるモヤモヤとしたもの。このような変遷を経る過程で、我々はどこに立っているのか、何を対象に語ろうとしているのかをまず明白にしなければ、およそ対話など成立しないのではないか。という疑念がずっと僕にはあり、無論そんなことばかり考えていると何も書けないし話せなくなるので、一所懸命に「読み」を制限しようとする。

誤読が豊饒な世界を開くことを一応は承知しながら、同時に、誤読はエネルギーのロスではないのかという懐疑もある。これはそのまま、僕の生活の重要な部分を占める文芸作品と科学論文の振幅でもある。文芸は文芸として読めば良いし、論文は論文として理解すべきだから、特に困ることはない。それはそれとして、で、僕は僕の日記をどこに位置付けるべきか。

「ここにあるべき」という正答などもちろん存在しない。単なる書き方の問題である。僕は素人小説と半素人論文を書いたことがあるから、両者の距離を何となく実感できる。しかしこれらは、他者に読んでもらうことを大前提として書かれている。Web の日記は、実にこの点が曖昧模糊としている。本当に自分のためだけの日記なら、公開する必要なんてどこにもない。じゃあいつも明確に読者を想定しているかといえば、そんな覚悟はどこにもない。かといって、それを意識すれば義務化する。日記は今とは全く別物となるだろう。

そして一番不思議なのは、そんなテキストを読む人間がいるということ。僕もまた、他人の獏としたテキストを読んでいるということ。何よりそれが、少なからず楽しいということ。

Web 日記

shuraba.com Mobile が随分と前から落ちていたことに気付いて修復した。