現実に臨む限り全ては臨床じゃないのか、と思うようになった T です。こんばんは。
大学 → 病院。
大学で動物から摘出した組織を頂戴し、病院でサンプルを調整。解析は明日から。
最近思うようになってきたのだが、比較的規模の大きい動物実験 (数十匹程度) の生データを眺めるのは実に面白い。個体間に生じるこの揺らぎは何なのだろう。安全性とは threshold のことでもあるが、これを決める mechanism とはどういうものか。それをブチ抜く law とは。云々。
「臨床」について少し考えてみる。
臨床的知見とは経験知であり、これは帰納的であるということだ。一方、Evidence-based の精神は還元論的つまり演繹的であり、現代のパラダイムではこれがすなわち「科学的」の意でもある。
数学では演繹的に証明された命題は常に真だが、サイエンスではそうでもない。科学は永遠なる仮説体系だ。全ての要素をあらかじめ含んだ系 (数学的にいえば「公理系」) を我々が設定できない以上、そうならざるを得ない。科学理論は、fact から出発した演繹的な推測と、臨床的に得られた帰納的な知見を結びつけるように構築される (サイエンスではこのことを指して便宜的に「証明された」という)。だが、これは理論 (theory) というより、むしろ論理 (logic) に近い。臨床的に得られた帰納的な知見、すなわち「現象」を基盤にしている以上 (生物学では特に現象論の占める割合が他の分野に比して大きい)、捉え方によっては「臨床」の range はかなり拡がる。
もちろん臨床「応用」の話になると、また全然変わってくるのだが、それは後述する。いまだ自分の中で「臨床」という言葉に対して曖昧な部分があるので、とりあえず思うところを書いてみた。
例えば forward genetics は、俺の定義では臨床的である。そこから原因遺伝子を特定し、演繹的に fact をつなぎ合わせ、その延長線上にあるものと仮定した現象を推測する。両者がぶつかるところに一つの hypothesis が誕生する。——もう少し考えよう。上の例でいう「原因遺伝子」は、この article の中で一つの公理のように機能している。しかし穿った見方をすれば、原因遺伝子すらあくまで「臨床的に」決定されたものに過ぎない。これはどういうことか。
"Fact" という言葉を使った。"A fact", "facts" と数えるように、科学的な「事実」とは厳密にいえば一対一対応のものである。日本語の語感にあるような普遍性はない。日本人が「事実」と聞いて思い浮かべるのは、どちらかといえば "truth" (真実) ではないか。Truth は数えられない。このあたり、英語の方が鋭い。
臨床的、つまり帰納的でないならば、原理的に「統計」という発想が不要であることに気付いた人も多いだろう。もしも科学的知見が「証明され得る」「真理」であるならば、多数の試行を統計的に解析して「解釈」する必要など全くない。
話が形而上的になり過ぎた。少し路線を変える。
先日、今春から大学院生になったチェリー嬢と奇遇し、その後、メールを頂戴した。所属するラボを選択しなければならないのだが、基礎も臨床もやりたくて云々、ということが書いてあった。彼女のいう「臨床」は、一般的にいう「臨床応用」のことだと思うが、そんなところから俺の思考は脇道に逸れていき、今日のような話になってしまった。
加えて、Dr. B の日記 (mixi に書かれたものなのでリンクは自重する。御覧になれない人はあしからず) を読んで、以下のようなことも考えた。
いわゆる実験も、全て臨床試験 (現象に何らかの人為を加え、その変化を観察する) と言えないこともない。そう考えると、臨床応用に対する語としての「基礎研究」って何よ、という話になる。実的な臨床応用を目指さない研究が基礎研究なんだろうか。応用を目的とするかしないかで、同じ研究が基礎研究になったりならなかったりするのだろうか。仮にそうならば、categorize の法則は「科学」の外側にあることになる。
医学研究を始めてからの俺は、この件について混濁した挙句、大した問題ではないと判断するようになった (思考を停止したといっても良い)。やっていることは同じ、科学的な研究であり、個人的にはそれで充分だ。
もう少し補足する。臨床応用を目指した研究を特徴付けるのは、問題や問題意識の特異性、個別性であろう。基礎研究は強く普遍性を目指している (場合が多い)。しかしそんなことを言い出すと、個々のモデル生物の研究ですら「応用的」になってしまう。生物学で普遍的というならば、DNA の複製を含む細胞周期の研究くらいしかないのではないか。という気がしないでもない。
何でも「程度問題」と括ってしまうのは乱暴な気もするが、これ以上考えても無駄というか、好きな研究をして結果を出す方がよほど重要である、という地点で思考が妥協してしまう。
いつものことだが、全ては俺個人の考えであり、誰かに押し付けたり、何かを否定するつもりは一切ない。