- Diary 2008/06

2008/06/30/Mon.

My best of「みんなのうた」を選ぶなら『こだぬきポンポ』を推したい T です。こんばんは。

運動日記

スポーツ・ジム 18回目。

運動が終わった後は、汗に濡れたインナーを検分し、その発汗量に自己満足する。腕を振るためか、上半身は肩〜脇〜背中あたりが特によく湿っている。脇腹が濡れることは少ない。下半身は、内股〜尻〜腰にかけて満遍なく汗を掻いている。しかし、唯一陰茎が触れている部分だけは湿ることがない。チンポには汗腺がないのだろうか。生殖行為を考えれば、確かに男根が発汗すると不都合である。下らないことだが、自分には発見であった。

ところで、ベルト・コンベアーの上を走ると、トラックやロードを走るときに比べて発汗量が増加する。通常、10 km/時で走るということは、10 km/時の向かい風を受けることと同義である。この空気の流れが汗の気化を促進し、もって体幹の温度を下げる。ところがベルトの上を走っていると、自分自身の絶対位置が変化しないので、気化熱の恩恵に預かれない (汗が乾かない)。体幹温度が下がらないので、脳はさらに汗を掻かせようとする。こうして、ベルトでランニングすると汗がポタポタと「落ちる」。室内のトレーニングだと侮り、水分補給を疎かにするのは愚かなことである。

運動をする人、あるいは真夏にバイクを走らせるライダーは経験的に御存知だろう。動きを止めた途端に汗が「噴き出す」。停止状態では汗が乾かない。同じことである。

ちなみに、高温のサウナに静止状態でも長時間耐えられるのは、サウナの湿度が極端に低いからである。

2008/06/27/Fri.

東京の学会に応募した演題が採択された T です。こんばんは。

またジョー兄に会えるかな。

研究日記

昨日に引き続き、大量の検体の homogenize。無事に終了。来週は RNA の抽出、逆転写、Q-PCR と続く。

職場の健康診断。毎年、尿で引っかかっている。「尿に悪いモノが出ている」というのだが、そんなの当たり前だろう。悪性物質を体外へと放出するために排尿しているんだから。身体に悪いモノをガブガブムシャムシャ摂取しておいて、尿が水みたいだったら困るじゃないか。

ゲーム日記

『剣と魔法と学園モノ。』(ととモノ。) は "Wizardry XTH" そのまんまらしい (絵やエフェクトだけ変えてある)。俺がゲームを発売日に買うのは「"祭り" に参加するため」だが、これは要するに攻略祭り・進行祭りである。『ととモノ。』が新しい要素を欠くゲームであるならば、祭りもヘッタクレもない (「XTH の Wiki 読め」で話が終わってしまう)。

というわけで、『ととモノ。』の購入はしばし見送り。"XTH" はプレイしていないから、いずれ買うつもりだけど、この週末は、まだまだフルコンプには程遠い MHP2G で遊ぶことにする。

御侍史、御机下、拝

元部長氏が「『御侍史』の読みを Google で調べた」と日記に書いておられた。就職したとき、俺も全く同じことをしたのでよく覚えている。「御侍史」の他に、「御机下」という語も使われる。製薬会社の DM などで目にすることが多い。参考に辞書を引いておく。

きか【机下・几下】
脇付 (わきづけ) の一。(相手の机の下に差し出す意で) あて名の左下に添えて書く。案下。

(『新辞林』)

ちなみに俺の机の下にはゴミ箱が置いてある。

「〜拝」という締めくくりもよく目にする。さらなる敬意を表すため、「再拝」「三拝」「九拝」と大袈裟になっていったりもする。ここで、毎度のことだが、夏目漱石『吾輩は猫である』の一節を引用する。苦沙弥先生が郵便を読む場面である。

主人は第二信を取り上げたが「ヤ、これも活版だ」と言った。

時下秋冷の候に候ところ貴家ますます御隆盛の段賀し上げ奉り候のぶれば本校儀も御承知のとおり一昨昨年以来二、三野心家のために妨げられ一時その極に達し候えどもこれ皆不肖針作が足らざるところに起因すと存じ深く自ら警むるところあり臥薪嘗胆その苦辛の結果ようやくここに独力もって (中略) 本校建築費中へ御寄付なしくださると御思召しここに呈供仕り候秘術綱要一部を御購求の上御侍女の方へなりとも御分与なしくだされ候て御賛同の意を御表章なしくだされたく伏して懇願仕り候匆々敬具

大日本女子裁縫最高等大学院
校長 縫田針作 九拝

とある。主人はこの鄭重なる書面を、冷淡に丸めてぽんとくず籠の中へほうり込んだ。せっかくの針作君の九拝も臥薪嘗胆もなんの役にも立たなかったのは気の毒である。第三信にかかる。(中略)

もし我をもって天地を律すれば一口にして西江の水を吸いつくすべく、もし天地をもって我を律すれば我はすなわち陌上の塵のみ。すべからく道え、天地と我と什麼の交渉かある。(中略)
我の人を人と思うとき、他の我を我と思わぬ時、不平家は発作的に天降る。この発作的活動を名づけて革命という。革命は不平家の所為にあらず。権貴栄達の士が好んで産するところなり。朝鮮に人参多し先生何がゆえに服さざる。

在巣鴨 天道公平 再拝

針作君は九拝であったが、この男はたんに再拝だけである。寄付金の依頼でないだけに七拝ほど横風に構えている。

(夏目漱石『吾輩は猫である』)

何度読んでも爆笑する。猫が「拝」の数に拘るのが愉快だ。それから何といっても、天道公平の手紙が秀逸である。彼はいわゆる「電波」な人間なのだが、その病的なテキストを「真面目に」理解しようとした苦沙弥先生は、とにかく意味を汲み取ろうと試みたが諦めて、「なかなか意味深長だ。なんでもよほど哲理を研究した人に違いない。あっぱれな見識だ」と手放しで称賛する。この台詞を読んだ後に、もう一度「朝鮮に人参多し先生何がゆえに服さざる」を見るとまた笑いが込み上げてくる。

面白過ぎるだろ。大好きだ。

2008/06/26/Thu.

単純作業に没頭するのは嫌いじゃない T です。こんばんは。

研究日記

大学に寄って、110余の検体組織を預かってくる。病院でテクニシャン嬢と homogenize するも、60検体で力尽きる。続きは明日。ボチボチやるさ。

ゲーム日記

『剣と魔法と学園モノ。』の発売日だったが、予約もせず、時間もとれなかったので購入できず。週末には買うつもり。いずれ中古で出回るものをなぜ発売日に求めるのか? ゲームをしない人からは、そういう質問を浴びることがある。俺の回答は「"祭り" に参加するため」。

ゲームでコミュニケーションを図りたかったら、ネット・ゲーム (あるいは面前通信プレイ) でもしろよ、と言われそうだが、それはまた別の話である。「祭り」への参加は、他人の日記を読む感覚に似ている。基本的に非対称なんだよね。それがネットのコミュニケーションである、と逆説的に定義することもできる。それは「そういうもの」であって、良いとか悪いとかいう話ではない。

とはいえ、「それでも、こう、もっと何とか……」と思うことはある。「人と人が会うことは絶対になくならない」と俺が考えるのもそのため。

2008/06/25/Wed.

夏は実験で忙しくなりそうな T です。こんばんは。

どこのラボも同じだとは思うけれど。春は比較的のんびりとしている。秋は学会の季節。年末、年度末は雑用 (研究以外の仕事、の意) で忙しないって感じ。

研究日記

校正に出した論文とは別の論文 2本についてボスとディスカッション。1本はさっさと書き上げること、もう 1本は追加実験を要請された。

大学で M先生、研究員君と実験の話をした。実験動物のサンプルを一部預かり、私が解析することになっている。「多いぞ」とボスが言っていたので覚悟はしていたが、実数は私の予測の 1.5倍であった。まだまだ自分の見通しは甘い。

実にやり甲斐のあるサンプル数だが、thermal cycler が他国の占領下にあるので、解析はゲリラ的に行わざるを得ないという、非常に非科学的な問題を抱えている。本でも読みながら、夜中に PCR をかけるしかないか。

夜は大学のセミナーに出席。

2008/06/24/Tue.

論文モードの T です。こんばんは。

研究日記

OB の先生が残していったデータで俺が文章を書いている論文は、ボスによる訂正が終了。Manuscript は、submit する journal のスタイルに俺が整形した後、英文校正に出された (模様)。

共通実験室にある 2台の thermal cycler (Q-PCR用) は予約制になっている。今日、予約表を見てみると、7月末日までびっしりと隣の研究室に埋められていた。しかも 2台とも。何だこれ、と思わず目を剥いた。E研の研究員嬢は呆れて鼻で嗤っていた。予約は早い者勝ちとはいえ、他のラボの人間が丸1ヶ月も全く使えない状況ってどうなの。空気読めよ。っていうか空気以前の問題だろ。いやまァ、これくらいの強引さがなければ研究というものは進まないのかもしれないが……。

2008/06/23/Mon.

川端康成『伊豆の踊子』featuring with 荒木飛呂彦

ますます日本の出版社に絶望を抱いた T です。こんばんは。

ハヤカワの次は集英社か。

川端康成『伊豆の踊子』の表紙を荒木飛呂彦が手がけて話題になっている。

賛否両論毀誉褒貶があるようだが (どちらかというと悪評が多い)、元凶は荒木にオファーを出した者にある。引き受けたからには、荒木は荒木の絵を描くしかない。仮に「空気を読んで」画風を変えれば、それは荒木自身による、芸術家・荒木の否定になってしまう。そんなことはあり得ない。

「空気を読んで」オファーを断るという選択肢も荒木にあった。そうすると今度は、「『伊豆の踊子』という小説と私の画風は合いません」という、漫画家・荒木による『伊豆の踊子』(という自らとは異なる分野の芸術) に対する「解釈」が誕生してしまう。これって、職人的プロとしては避けたい行為だと思うんだよね。

荒木飛呂彦先生は、この絵を描くしかなかったと思うんだよなあ (自分に何の益がないことがわかっていても)。責められるのはむしろ、文庫本編集者の白痴ぶりであろう。荒木が漫画界で占めている地位を考えれば、こんなオファーなんてしないと思うんだけど。川端康成にも失礼だし。

研究日記

OB の先生が残していったデータで俺が文章を書いている論文 (長いな……) に、添削の順番が回ってきた。ボスの修正を幾つか受けて、終わりが見えてきた。Figure はもう完成している。

午後は断続的に、ボス、M先生とディスカッション。

夜はセミナー。終了後、ボス、研究員嬢と大学近くの焼き鳥屋へ。「ひな鳥」が卵を産み終えた雌鶏であり、その肉は少々固いことを学んだ。日付が変わる前に帰宅。

2008/06/22/Sun.

ハヤカワ・ファンの T です。こんばんは。

最近のハヤカワ文庫の帯がヒドい。アニメ調の女の子が大きく描かれており (「イトウゆーじ」という人の絵らしい)、以下のような文言が添えてある。

そこのアナタ、SF やミステリだけがハヤカワ文庫だと思ったら大まちがいよ。ハヤカワ文庫はノンフィクション——たとえば社会系雑学だってめっぽうツヨいの。ホントにあった「ノーベル賞受賞者の精子バンク」の顛末とか、仰天民事訴訟のあれこれとか。雑学ネタが豊富な人ってモテるじゃない? スキマ時間にさくっと読んでネタを仕込んでおけば、学校でも職場でも合コンでも人気者まちがいなしよ!

(お役に立ちますハヤカワ文庫。「社会」)

頭が痛いぜ……。

昔のハヤカワ文庫は「読めるものなら読んでみろ」という感じだったが、それが今や何という媚び様。しかもズレてるんだよなあ。「雑学」なんていらないし、「スキマ時間」はネットで消費する。

ここ数年、ちくま学芸文庫のラインナップが非常に充実してきて、ハヤカワ・ノンフィクションはすっかりお株を奪われたかのようである。ちくま学芸文庫が、たとえ 1冊 1500円でも売れているのは、「学術的で」「読破に時間のかかる」書物をしっかりと出版しているからだと思うのだが。

2008/06/21/Sat.

最近はコンプまでゲームに対する興味が続かない T です。こんばんは。

ゲームのアイテム収集などで、俺もよく「フルコンプ」と言ってしまう。「フルにコンプリートする (した)」の意味だが、これって「馬から落馬」と同じ類の間違いだよなあ。Complete したのなら、それは full に決まっているだろう。アホか。

研究日記

大腸菌のプレートを出すためだけにラボへ。しかもコロニー生えてないし。

読書日記

澁澤龍彦の本を抱えながら昼飯を摂ったり本屋に寄ったりと街をブラブラした。先日の日記で三島由紀夫の楯の会に触れたが、折よく保阪正康『三島由紀夫と楯の会事件』という文庫に出会えたので購入する。冒頭に三島の檄文が掲載されているのだが、それを読んだだけで満腹になった。しかしこの檄文が憂え、憤っているところは現在の日本にもそのまま当て嵌まる。近い内に精読するつもりである。

運動日記

スポーツ・ジム 17回目。

2008/06/20/Fri.

またもや下らぬことを考えている T です。こんばんは。

「弘法筆を選ばず」という諺は、もっぱら「書の名人としての空海」という側面からのみ解釈される。しかし果たして、「仏教者としての空海」という側面は、本当に「筆の選択」とは無関係なのだろうか。例えば、嵯峨天皇や橘逸勢は筆を選んだのか選ばなかったのか?

そもそも、「弘法筆を選ばず」は結果論なのか因果論なのか。これがよくわからない。名人だから筆を選ばないのか、筆を選ばないという精神が弘法をして書の名人たらしめたのか。もし後者であるならば、その精神の源流として仏教を仮定することは無理ではないし、「逸勢筆を選ばず」ではないことの説明にもなる (単純に、弘法大師が一番有名だから、というのが実際の理由なんだろうけれど)。

「弘法筆を選ばず」という諺には、恐らく大した意味はない。「弘法にも筆の誤り」ともいうのだから、いい加減なものだ。諺のダブル・スタンダード具合が異常なのは、しょせん技巧的な遊びに過ぎないからである。方便として使うには良いが、真面目な話に援用するとその矛盾が仇になる。

ところで、「ことわざ」は、やはり「言技」を意味しているのだろうか。なんてことを考えたり。

念のために書いておくが、上記は妄想実験であって、空海なり嵯峨天皇なりが「現実に」筆を選んだとか選ばなかったとかは全く関係がないし、どうでも良い。「弘法筆を選ばず」という言葉に宗教的な思想が含まれているのかどうか。それが問題 (というか、今日のゲームの焦点) である。無論、結論もどうだって良い。

2008/06/19/Thu.

ラクだからという理由で、他人の尻馬に乗って日記を書いている T です。こんにちは。

ところで、MO君が「ボキャブラリーを増やすにはどうすれば良いか」ということを書いていて、これは俺も関心のある問題である。「語彙を増やす」というのは、単純に知っている単語の量を増やすということではない。実際に自分の文章で使えるようになって、ようやく「語彙が増えた」といえる。と俺は思っている。

この問題に対して俺が実践している事柄を思い付くままに列挙してみる。

などとエラそうに書いておるわ。うはは。

2008/06/18/Wed.

生理学の一般向けの本を読んでいる T です。こんばんは。

恒常性を保つための仕組みって凄いよな。精妙である。加えて、想定外の状況にも (ある程度は) 耐えられるだけの冗長性もある。ある種の進化論者は、「肉体は遺伝子の乗り物」と言うけれど、その乗り物の安全性は極めて高い。

車の安全性が、衝突実験に代表される「破壊実験」によって検証されるように、生理機能の限界もまた「人体実験」によって検討されてきた。ヒト相手の研究って、最終的にはその壁を越えねばならんのだよなあ。

研究日記

siRNA のデザインをするときは "siSearch" という Web 上のプログラムを重宝して使っていたのだが、しばらく使っていない間に、"under reconstruction" という状態になっていた。

仕方がないので色々と探している内に、"siRNA Target Finder" (Ambion) というページを見付けた。示される siRNA 配列にスコアは付かないものの、手軽で便利ではある。プログラムが叩き出した候補の中から、4つの配列を選択し、ベクターに組む込むためのオリゴをデザインして発注した。結果はいかに。

2008/06/17/Tue.

「タスク」というカタカナに虫酸が走る今日この頃、T です。こんばんは。

研究日記

ボスが明日から来週まで不在らしい。学会や出張ではないという。純粋に休むのだろうか。夏から秋にかけて、学会だの何だので忙しくなるから、ゆっくりできる内に休暇を取ってほしいものである。

「数ヶ月先の予定が決まっている状態」なんて冗談だろう。そう思っていた俺のカレンダーも予定だらけになっているのだから、大人なんてロクなもんじゃない。などと養老孟司のようなことを書いておるわ。「高い確度で予定された未来はもはや未来ではなく現在である」という主張は、まァ理解できる。では、「自分で把握できないほど予定が増えた状態」はどういう解釈になるだろう。経験がないので実感はないが、考えてみるとなかなか面白い話題ではある。

ところで、学会はかなり早い段階から期日が指定されるため、「じゃあそのときに会いましょう」という話を学会場近辺の人と数ヶ月前からするハメになる。もちろん、その予定が崩れることもある。「すまん、ダメになった」「どうしたんですか?」「いや、別の学会と重なっちゃって」。ううむ。

運動日記

スポーツ・ジム 16回目。調子が良かったのでスピードを上げて走った。シャワーを浴びて外に出ると夜風が心地良い季節になってきた。

普段は食前に体脂肪率を計測しているが、今日はうっかりしていて、食後の計測である。

2008/06/16/Mon.

落書き探しの旅に出ようかと思った T です。こんばんは。

先日の日記で紹介した「くねくね」という恐怖譚について、元部長氏が日記を書いておられたので、興味深く拝読した。

読んでいて気付いたのは、恐怖譚もまたヴァリアント問題を抱えているということだ。以前に俺はこう書いた。

昔話における各異説は微妙に違った小説でしかなく、「昔話」はそれらの集合を表す概念に過ぎない。つまり「昔話」と「小説」は属するレイヤーが異なるのだから、同列に論じる方がおかしい。

(「昔話のヴァリアントとしての小説」)

これは、「昔話」を「恐怖譚」に置き換えても通用する。それこそ柳田國男ではないが、昔話や恐怖譚がテキストとして定着するには、まず採取されなければならない。この点は極めて臨床的である。物語の各ヴァリアントは臨床例と言っても良い。この物語「群」をどう理解するか。

俺が「恐怖 "譚"」という単語を使っているのは、都市伝説などに対する漠然とした問題意識があったからだが、どうも思慮不足であったらしい。以前に書いた「恐怖譚 vs 探偵小説」という把握も、論点がズレていると言わざるを得ない。これは考え直す必要があるなあ。氏の日記を読んで、そういうことに気が付いた。

というわけで、「くねくね」について書こうと思ったことは棚上げになってしまった。代わりに、というのはおかしいが、昨日は怖い落書きの話を読んでいた。

暑夜のお伴にどうぞ。

2008/06/15/Sun.

散歩をしてきた T です。こんばんは。

久し振りに走ろうかとジムに行ったら、休館日だったんだよね。

母からメールがあったので実家に電話した。良い話もそうでない話もあったが、概ね平和であるようだった。

家族観について書こうかと思ったが、どうにも気恥ずかしいので止めておく。

今日のニコニコ動画

嫌いじゃないぜ、こういうの。

2008/06/12/Thu.

MGS4 を買ってきた T です。こんばんは。

今日だけは強がりではなくこう言える。持ってて良かった PS3!

2008/06/11/Wed.

明日は MGS4 の発売日だというのに、今一つ気分が盛り上がっていない T です。こんばんは。

とりあえず PS3 のアップデートを済ませておく。ついでに、PS Store (しばらく見ない間に随分とインターフェイスが改良されていた。中身は相変わらずスカスカだが) から MGS4 の予告トレイラーをダウンロードして視聴した。HD ムービーを大画面で観ると、やはり迫力がある。少しモチベーションが高まった。

気になる

「立方体」と「正方形」については先日の日記の枕で書いた。おかしなことはまだある。「直方体」というが「直方形」とはいわず「長方形」という (あるいは「長方体」といわない)。やはり気になる。

面白おかしくするために「気になる」と書いているわけではない。本当に気になるのだ。しかし、この感覚をわかってもらえることは少ない。そのことは俺も理解しているので、誰に話すでもなく、こうして日記に書いている。そんな日記が 6年以上も続いているのだから呆れたものだが、その過程で、気になっていたことが解消されることも稀にある。その小さな可能性に期待して書き残しているフシがないでもない。

ネットでは、俺が気にする事柄に共感してくれたり、同じように気になっている人を見付けたりすることもできる。その可能性にもまた魅力を覚える。自分の日記と、他者の日記の内容が被ることを避けようとする人もいるようだが、個人的にはほとんど気にならない (狙って被らせることはないが)。偶然にも被っていたりすると、妙な親近感を (一方的に) 覚える。それを契機として読むようになった日記は少なくない。

他者の日記に退屈したり飽きたりすることはほとんどない。相手の更新が止まってしまい、残念に思うことの方が圧倒的に多い。更新が 1年以上続く日記や blog は、全体的に見て極く少数である。長く続いているサイトでも、作者の環境の変化 (就職など) を機に更新がパッタリと停止するケースが散見される。そんな場面に直面したときの気分は以前に書いた。同じ轍を踏むまいとは思うが、実践するのはなかなか難しい。

俺達はネットや携帯電話が「当たり前」になっていく過渡期の世代だから、この種の距離感についてはスタンスが定まらないことも多い。

幾つもの RSS を流し読みしながら、そんなことを考える。

2008/06/10/Tue.

怖い話の構造に興味がある T です。こんばんは。

ふと思い出したので、テクニシャン嬢に「くねくね」の話をしてみた。気に入ってくれたのか、眼から涙がチョチョ切れていた。

「熊本で学会があるから演題を出しておいて」とボスに言われる。阿蘇山に行ったことはあるが、熊本市を訪れたことはない。熊本についてはあまり知らない。以下、調べずに書くので誤りがあるかもしれない。

熊本の有名人といえば細川護煕元首相か。彼は肥後藩主・細川家の正当な末裔であり当主である。肥後といえば天下の名城 (日本三名城の一) である熊本城が思い浮かぶが、これを普請したのは細川以前の領主・加藤清正だ。彼は築城家として有名である。この熊本城には、西南戦争の折りに官軍が立て篭もり、西郷軍を撃退している。銃が良くなったくらいでは、まだまだ日本の城は落とせない。中世の城郭を無力化するには大砲を引っ張り出す必要がある。

加藤清正の肥後入り以前は、佐々成政が統治していたはずだが、確か一揆が起きて改易になった。司馬遼太郎がこの一揆をエラく褒めていて、「肥後の人は理屈っぽく、熱い」みたいな評をしている (司馬は、どの国の人柄でも基本的に称賛するのだが)。

秀吉の九州征伐以前の熊本は大友家の勢力下にあり、島津家との抗争の場と化していたのではなかったか。このあたりから記憶が怪しくなる。南北朝時代には、後醍醐天皇の息子・懐良親王が九州で気炎を吐いていた。懐良親王という人は非常に面白い人物で興味を持っているのだが、彼に関するまとまった著作をまだ目にしたことがない。いつか調べようとは思っている。懐良親王を支援した国人の中に菊池という氏があったはずだが、確か本拠が熊本だったと思う。

それ以前になるとほとんど知識がない。熊襲の国が熊本らしい、ということくらいか。エラく時代が飛ぶ。ヤマトタケルが女装して熊襲に入り込み、クマソタケルを殺害した逸話は『古事記』に詳しい。『古事記』を読んでいたときに色々と調べたが、ヤマトタケルもまた興味深い人物である。いずれ日記で採り上げてみたい。

現代の熊本といえば水俣病が思い浮かぶ。熊本の必死の努力で、現在の水俣湾はそこいらの海よりはよほど綺麗になっていると聞く。どのような技術が用いられたのか、恥ずかしながら知らない。(知らないながら書くが) この種の環境技術で日本は世界をリードしており、経済的に見れば極めて重要な産業でもある。隠れた優良企業も多いようだ。

せっかくの機会だから、熊本の学会に行ってみようかなと思っている。

2008/06/09/Mon.

Best より better より enough であることが重要なんじゃないかと思わないでもない T です。こんばんは。

2乗のことを「平方」といい、3乗のことを「立方」という。「立方体」という言葉はあるが、しかし「平方形」とは言わない。「正方形」という。こういうことが、いつも気になる。独りで気にしている。

読書日記

文庫版が出ていたので、昨夜は井沢元彦『逆説の日本史 12 近世暁光編 天下泰平と家康の謎』を再読していた。単行本を読んだときの感想はリンク先を参照。

文庫版を購入したから単行本が不要になった。基本的に書物は売らない俺だが、コレクターではないので同じ内容の本を手元に置いておく習慣はない。京都に来てから、周囲に本を読む (ことを広言している) 人間がいないので、いつも引き取り手に困っている。

読書について、他人と語る機会は稀である。俺だけだろうか。研究室や職場で本の話をした記憶なんてほとんどない。逆にいえば、俺が知らないだけで、身近にも読書家がいるかもしれないけれど、やっぱり見ただけではわからない。

一方、ネットでは盛んに本のことが語られている。「語られている」と書いたけど、本当は日記や掲示板のコメントとして「書かれている」わけであって、要するに「本の話題」と「文章を書くこと」の親和性が高いということなんだろうな。

研究日記

ラボのセミナーで発表。動物実験の解析データを紹介した。

現象についてのイメージは掴めてきたように思う。病態が悪くなればこの遺伝子の発現はこう変わる、このような処理をすれば病態はこう変化する、などなど。メカニズムはまだよくわからない。現象論を突き詰めて記載的な理解を深めるか、あるいは機序の解明を目指して標的を探索するか。なかなか難しい。両方できれば最高だが、金銭も人力も限られている。

「ベストな選択」は判断するレベルによって異なってくる。極端な話、「人生を研究に費やすのがベストなの?」という問い掛けすら考え得る。極論に過ぎるが、あながち冗談ではないから笑えない。

2008/06/08/Sun.

Mac では Safari、Win では Firefox を使っている T です。こんばんは。

Web 日記

Firefox 3 RC 2 (Mac版) を導入してみた。ちょっと触った印象では、

という感じ。とりあえず、shuraba.com の動作や表示がおかしくなることはなかった。

運動日記

スポーツ・ジム 15回目。

「休日になると無性にイライラする病」が再発して、目覚めてから最悪の気分だった。走って発散するかとジムに行ったまでは良かったが、頭に血が昇っていたせいか、インナーは忘れるわ、コイン・ロッカー用の小銭を忘れるわで散々だった。走り始めてもフォームはグチャグチャで苛立ちは募るばかり。結局、3 km ほど走った時点でマシンを降りた。

それでも、汗を掻いてシャワーを浴びると、幾分かは気分もマシになる。今日は天候も今一つだったから、「さっぱり」の効果は絶大だよなあ。

芥川龍之介の死

ところで、「さっぱり」していない日には自殺が多くなる、というのは統計的な事実である (交通事故や凶悪犯罪なども同様の傾向を示す)。芥川龍之介が自殺したのは 1927年 7月 24日未明だが、この日の東京は非常に不快指数が高く、それが彼をして自死せしめた一因ではないか、という話を読んだことがある。原典は忘れた。最近、この種の記憶が曖昧で自分に腹が立つ。

念のために書いておくが、芥川の自殺は発作的なものではない。以前から周囲に自殺を仄めかしたり、薬物を入手したりなど、前兆となる行為が複数の人間によって証言されている (自殺をはっきり考え出したのは死の 2年前あたりから、というのが通説である)。したがって、それが 7月 24日でなくとも、芥川はいつか自決しただろう。7月 24日の不快指数は、自殺が「その日」に決行された理由に過ぎない。引き金ではあるが原因ではない。

七月二十四日は未明から雨だった。それまで連日のように猛暑がつづき、新聞では三十三年ぶりの暑さだと報じた。

(松本清張『昭和史発掘 1』「芥川龍之介の死」)

芥川の自殺については、松本清張が『昭和史発掘』の中で「芥川龍之介の死」を書いている。ちなみに清張自身は、7月 24日の気候と芥川の自殺の関連については述べていない。私生活、文学活動の両面から芥川は挫折し、複合的な苦悩が彼を自死に追いやったというのが清張の見解である。

芥川は自殺を決心したが、いかなる方法を以てしても決行する勇気は出なかった。彼は方法ばかり考えて、実行を恐れていた。

そのとき M女が目の前に現れた。彼は M女と情死しようと思いついた。自分ひとりだと死ねないが、女となら死ねそうである。つまり、女を死の跳躍台にすることであった。

(中略) さて、芥川は、こうして M女に逃げられて、かえってひとりで自殺する決心をかためた。彼は、女人による死のスプリング・ボードを失い——自尊心を傷つけられたことによって、敗北感に打ちひしがれ、孤独の死を決意したと思うのである。いや、女に逃げられた衝撃が、かえって自殺のスプリング・ボードになった。

(松本清張『昭和史発掘 1』「芥川龍之介の死」)

「あまりに文芸的な」ものに徹しようとした彼は、文壇の主流が告白体の私小説にあるのを見て、少なからず将来に不安を抱いたのではあるまいか。彼は谷崎ほどには強靭ではなかった。

芥川の自信の喪失——作品の挫折感は、その虚弱な肉体からきている。彼がその挫折感を征服して乗り切るには、その衰弱した肉体ではとうてい不可能であった。大体、彼のテーマそのものが短篇性であるが、それも彼の弱い身体と無関係ではない。

芥川が「スプリング・ボオドなしに死に得る自信を生じ」(遺書) て、その決心を固めたのは、親友宇野の発狂を目のあたりに見てからだといわれる。(中略) 痴呆になった宇野の姿に人間末路のやりきれなさを見て、自殺決行になったのではなかろうか。

(松本清張『昭和史発掘 1』「芥川龍之介の死」)

芥川のいう「ぼんやりとした不安」という文句は、どうも作為的な感じがする。作家の遺書は、どうしても「作品」のようになってしまうきらいがある。江藤淳の「形骸」とか。日本には「辞世の句」などといって、死に臨んであらかじめ「作品」を作っておく習慣があるから、その流れで理解するべきなのかもしれない。

「自分の遺書は後世に残るから」という作家の自意識は、自らの永続性を願う一般的な心理と相通ずるものがある。自殺の心理はこれと真逆のベクトルではあるが、それでもなお死なずにはいられないという撞着が懊悩を呼ぶのだろうか。作家なら、そのときにこそ遺書ではなく「作品」を書いてほしいと思うが、人間はそこまで強くないということなんだろうな。

2008/06/07/Sat.

Twitter の挙動が不審になってイライラしている T です。こんばんは。

依存症か。というほど使ってもいないのだけど。Twitter のプログラムは結構いい加減なんじゃないか、というのは色々なところで言われている。確かに「何だかなあ」と思う部分は多い。

BB弾

昨日の日記に「ドラゴンボール目薬」の CM 動画と「BB弾」を追加した。動画の URL は隣の研究員嬢に教えてもらった。ありがとう。

どうでも良いが、"BB" は "ball bullet" の略なので、「BB "弾"」というのは基本的におかしい。

研究日記

午前中に病院へ。MHP2G をプレイしながら時間を潰す。研究員君が来たので細胞ストックを渡した。金曜日に出たばかりの結果について彼とディスカッション。動物から摘出した組織の解析なのだが、動物の飼育を管理していたのは彼なので色々と話が聞けて有益だった。その他、これからの実験についてあれこれ。

大学に戻る研究員君と一緒に電車へ。2人とも PSP を携帯していたので、MHP2G のギルドカードを交換した。彼がガンランスをメインに使っているのが印象的だった。かなり珍しいんじゃないか。

運動日記

スポーツ・ジム 14回目。

いつもは賑やかなスタジオが異様に静まり返っていたので、何なんだろうと覗いたらヨガをやっていた。ヨガなら走った後でもできそうだなあ。

2008/06/06/Fri.

大学、小学校、中学校、高校の順に楽しかった T です。こんばんは。

国際学会への登録も済んだので、俺 (1980年播磨生)、テクニシャン嬢 (1983年摂津生)、研究員嬢 (1981年淡路生)、隣の研究員嬢 (1981年京都生) と一緒に、職場近くの飲み屋で夕食。

小学生時代の懐かしいアイテム群について語り合う。

20年前は楽しかったなあ。

2008/06/05/Thu.

血が薄くなっているのか、ここ数日は早寝早起きの T です。こんばんは。

最近は帰宅時に職場近くの唐揚げ屋やたこ焼き屋で買い食いをしている。部活動帰りの高校生みたいな気分になって、なかなか楽しい。帰宅しても空腹ではないので、そのまま就寝まで何も口にしないことが多い。最近、またぞろ食慾が失せてきた。体調はまずまず。金銭的にも熱量的にも燃費の良い生活だ。

文脈

上記とは関係のない話だが、「食慾がなくても無理して食べなきゃ」というのは本当に正しいのだろうか。犬などを観察しているとよくわかるのだが、不調時の彼らは、何も食べずにただひたすらじっとしている。

食慾不振は「食べないが吉」という脳のサインである、という可能性を科学的に検討するにはどうしたら良いのだろう。味覚、嗅覚、痛覚にも同じことが問える。卑近な例えをすれば、同じものを食べても、満腹時と空腹時で味わいが異なるように感じるのは何故か? 全身的な状態を紙背としたときの、個々のシグナルの意味を決定する文脈の問題。

文脈は、時間軸 (⊃ 記憶) を含む、周囲の環境に対して開かれた関数として記述されるのだろうなあ。などと考える。ある時間 t における文脈 F (t) は、

F (t) = F (F (t - Δt)) + αt

イメージとしてはこんな感じ。いや、適当だけど。

昨日の「臨床」に関係する話を少し。

例えば、SPF で飼育された無菌ラットで明らかにされた事柄が、そこらへんの残飯を漁って跳ね回るドブネズミでも同じように現象しているという担保はどこから来るの? という素朴な疑問。一言で言えば artifact の問題。

Well-regulated な環境で生かされるラットと、不確定要素てんこ盛りな環境を前提にして生きているラット、どちらの体内で生起する現象が nature なものなのか? という素朴な疑問。一言で言えば reality の問題。

「環境要因によって左右される」ことを織り込み済みの、もう一つメタな系の存在。を織り込み済みの、もう一つメタな系の存在。を織り込み済みの……。

「真理なぞ存在しない」という真理。

「毎回ランダムである」という再現性。

「有意差なし」という言説の有意性。

ま、言葉遊びなんだけど。マジになって考え始めると気が狂うのでほどほどに。

研究日記

国際学会に抄録を応募した。今年の開催地は New Orleans だから、是非とも行ってみたい。昨年、一昨年は Northwest を利用してトラブルに見舞われた。次に渡米するときは、日本の航空会社を使おうと考えている。ところで、来年からはアメリカへの入国が少し手間になる。

研究データなんかはどうすれば良いのだろう。PC からは消去して、USB メモリにでも入れて携帯するしかないのか。それでもコピーされるのだろうか。

太平洋や大西洋のド真ん中に、人工の国際会議島でも作ったらどうか。なんてことを思った。

2008/06/04/Wed.

現実に臨む限り全ては臨床じゃないのか、と思うようになった T です。こんばんは。

研究日記

大学 → 病院。

大学で動物から摘出した組織を頂戴し、病院でサンプルを調整。解析は明日から。

最近思うようになってきたのだが、比較的規模の大きい動物実験 (数十匹程度) の生データを眺めるのは実に面白い。個体間に生じるこの揺らぎは何なのだろう。安全性とは threshold のことでもあるが、これを決める mechanism とはどういうものか。それをブチ抜く law とは。云々。

「臨床」について少し考えてみる。

臨床的知見とは経験知であり、これは帰納的であるということだ。一方、Evidence-based の精神は還元論的つまり演繹的であり、現代のパラダイムではこれがすなわち「科学的」の意でもある。

数学では演繹的に証明された命題は常に真だが、サイエンスではそうでもない。科学は永遠なる仮説体系だ。全ての要素をあらかじめ含んだ系 (数学的にいえば「公理系」) を我々が設定できない以上、そうならざるを得ない。科学理論は、fact から出発した演繹的な推測と、臨床的に得られた帰納的な知見を結びつけるように構築される (サイエンスではこのことを指して便宜的に「証明された」という)。だが、これは理論 (theory) というより、むしろ論理 (logic) に近い。臨床的に得られた帰納的な知見、すなわち「現象」を基盤にしている以上 (生物学では特に現象論の占める割合が他の分野に比して大きい)、捉え方によっては「臨床」の range はかなり拡がる。

もちろん臨床「応用」の話になると、また全然変わってくるのだが、それは後述する。いまだ自分の中で「臨床」という言葉に対して曖昧な部分があるので、とりあえず思うところを書いてみた。

例えば forward genetics は、俺の定義では臨床的である。そこから原因遺伝子を特定し、演繹的に fact をつなぎ合わせ、その延長線上にあるものと仮定した現象を推測する。両者がぶつかるところに一つの hypothesis が誕生する。——もう少し考えよう。上の例でいう「原因遺伝子」は、この article の中で一つの公理のように機能している。しかし穿った見方をすれば、原因遺伝子すらあくまで「臨床的に」決定されたものに過ぎない。これはどういうことか。

"Fact" という言葉を使った。"A fact", "facts" と数えるように、科学的な「事実」とは厳密にいえば一対一対応のものである。日本語の語感にあるような普遍性はない。日本人が「事実」と聞いて思い浮かべるのは、どちらかといえば "truth" (真実) ではないか。Truth は数えられない。このあたり、英語の方が鋭い。

臨床的、つまり帰納的でないならば、原理的に「統計」という発想が不要であることに気付いた人も多いだろう。もしも科学的知見が「証明され得る」「真理」であるならば、多数の試行を統計的に解析して「解釈」する必要など全くない。

話が形而上的になり過ぎた。少し路線を変える。

先日、今春から大学院生になったチェリー嬢と奇遇し、その後、メールを頂戴した。所属するラボを選択しなければならないのだが、基礎も臨床もやりたくて云々、ということが書いてあった。彼女のいう「臨床」は、一般的にいう「臨床応用」のことだと思うが、そんなところから俺の思考は脇道に逸れていき、今日のような話になってしまった。

加えて、Dr. B の日記 (mixi に書かれたものなのでリンクは自重する。御覧になれない人はあしからず) を読んで、以下のようなことも考えた。

いわゆる実験も、全て臨床試験 (現象に何らかの人為を加え、その変化を観察する) と言えないこともない。そう考えると、臨床応用に対する語としての「基礎研究」って何よ、という話になる。実的な臨床応用を目指さない研究が基礎研究なんだろうか。応用を目的とするかしないかで、同じ研究が基礎研究になったりならなかったりするのだろうか。仮にそうならば、categorize の法則は「科学」の外側にあることになる。

医学研究を始めてからの俺は、この件について混濁した挙句、大した問題ではないと判断するようになった (思考を停止したといっても良い)。やっていることは同じ、科学的な研究であり、個人的にはそれで充分だ。

もう少し補足する。臨床応用を目指した研究を特徴付けるのは、問題や問題意識の特異性、個別性であろう。基礎研究は強く普遍性を目指している (場合が多い)。しかしそんなことを言い出すと、個々のモデル生物の研究ですら「応用的」になってしまう。生物学で普遍的というならば、DNA の複製を含む細胞周期の研究くらいしかないのではないか。という気がしないでもない。

何でも「程度問題」と括ってしまうのは乱暴な気もするが、これ以上考えても無駄というか、好きな研究をして結果を出す方がよほど重要である、という地点で思考が妥協してしまう。

いつものことだが、全ては俺個人の考えであり、誰かに押し付けたり、何かを否定するつもりは一切ない。

2008/06/03/Tue.

下のような日記を書きながら、基本的に刹那的なるものは否定している T です。こんばんは。

だからこそ憧れるというか。

「漢」という字を「おとこ」と読み出したのは誰なんだろう。比較的最近のことだとは思うが。「漢代 (おとこだい)」「漢文学 (おとこぶんがく)」「漢民族 (おとこみんぞく)」などと脳内変換していたら楽しくなってきた。

成金「どうだ明るくなつたろう」

ドブに捨てるような金の使い方をすると刹那的な楽しさを享受できる。そのような刹那的な楽しみはしょせん下らないものだ、という意見もあるが、この指摘はやや論点がズレている。刹那的な楽しみの本質はその「刹那性」に存するのであって、楽しみの中身はあまり関係がない。これは俺の想像だが、達観すれば、比喩ではなく文字通り純粋に「ドブに金を捨てる」だけでも愉悦を感受できるのではないか。しかし残念ながら俺はそこまで金持ちではないのでオマケを求めてしまう。

「どうだ明るくなつたろう」と言って、暗がりで靴を探す女中のために百円紙幣を燃やす成金の戯画がある。この絵は通常、成金の愚かさを嗤うものとして解釈されるが、本当にそうなんだろうか。成金の世にも幸せそうな顔を見よ。少なくとも彼はこの刹那、無常の楽しみを味わっていたに違いない。ちょっとした想像力があればわかることだ。他人の幸せを嘲笑う行為は普通、嫉妬と呼ばれる。それこそ「貧すれば鈍す」だと思うのだが。貧 → 鈍の過程を阻害できるのは想像力だけだ。清貧などというダブルスタンダードな言葉まであるくらいだから、「貧すれば鈍す」は必ずしも真ではない。

成金の行為は、今 (あるいは当時) の感覚からすれば野暮だろう。しかし刹那に快を見出すのは粋の精神でもある。札束を見せびらかすだけなら完全に野暮だが、燃やすという行動に粋としての最期の可能性がある。この頃はまだそのような美学が息づいていたのだなあ、ということがわかる良い資料である。美学とはつまるところ流行であるから、現在の価値観でその美醜を量るのはいささか卑怯である。平安美人を指して「オタフク顔の不細工」と罵るようなものだ。何の意味もない。

運動日記

スポーツ・ジム 13回目。

2008/06/01/Sun.

久し振りに走ってきた T です。こんばんは。

今日のニコニコ動画

ザンシロが復活していた。前半のザンシロ・バトルはいつ見ても吹く。

運動日記

スポーツ・ジム 12回目。