- ボランティア労働はダンピング行為になり得るという仮説

2008/03/16/Sun.ボランティア労働はダンピング行為になり得るという仮説

賃金は、雇用者と被雇用者の間に存在する唯一の真実だと思う T です。こんばんは。

派遣労働の問題は、その安定性云々よりも、この真実への到達が間接的にならざるを得ない部分にあると思うのだが、まァそれは別の話。今日はボランティアについて書く。

病院には「ボランティア職員」という制度 (?) がある。近隣在住と思われる老年の方が「ボランティア」の腕章を付け、外来患者の案内だとか、ロビーで暇を持て余している入院患者の話し相手などをしている。ボランティアというからには無償なのだろう。それでも老人達は嬉々として働いている。長い人生を過ごしただけあって、人間のあしらい方は若者の及ぶところではない。貴重な人材だと思う。

以下は私の妄想である。ボランティアに来ている老人達は、経済的にはまずまず裕福なのであろう。また、毎日元気に動き回れるほどには健康である。病院を訪れる人間のかなりの部分が、彼らと同年代の老年である。患者だから、アチラの具合が悪かったり、コチラの調子が良くなかったりする。この状況は、ボランティア老人の優越感をくすぐるだろう。この病院が名の知れた施設であるという事実が、その優越感を助長する。老人はこの種の権威に弱い。病院側もそのことを知っているからこそ、ボランティア制度を始めたのだろう。悪いことだとは思わない。誰も損をしていないのだから。

本当だろうか? ボランティア制度がなかったら、あるいは誰もボランティアに来なかったら、病院はロビーの案内役を、給料を払って雇わなければならないはずだ。一人の老人のボランティアが、一人分の雇用を消滅させたわけである。極端な話、余裕ある老人が無償の (あるいは低価格の) 労働力を提供することは、技術も経験もない若者の雇用に対するダンピング行為であると言えはしないか。この仮説については、もう少し考えられても良いと思うのだが、あまり話題にならない。

老人は働くな、と主張しているわけではない。彼らは私達とは比べ物にならないほどの経験と見識を持っている。だからこそ高給で雇うべきであるし、老人達もまた、自分を安売りせずに報酬を主張するべきだ。そして、人材を望み、それに見合う対価を支払える組織が彼らを雇用すれば良い。これならば (成長可能性と低賃金をアピールできる) 若者との競争が成立する。

ボランティアは美徳であるが、隠居もまた美徳である。どうも最近、前者ばかりが持ち上げられているような気がするんだよね。昔の大人は、優秀な若者が現れると、若くても隠棲して跡を譲ったものだ。ボランティアをする余裕があるのなら、隠居もまたできるはずだ。あるいは、競争原理が働かない分野でのボランティアというのもあり得る。難しい問題だとは思うけどね。