- 合理性、客観性、中立性

2008/02/13/Wed.合理性、客観性、中立性

そこに幾ばくかの主観が内包されるからこそ、合理的・客観的・中立的な業績に対して個人が顕彰され、名誉が称えられると思う T です。こんばんは。

論文が accept されたお祝いということで、ボスが祇園で鶏鍋を振る舞ってくれた。M先生、秘書女史、研究員嬢が同席。御馳走様でした。

鍋の世話をしてくれた中居さんは、文学部の博士課程に在籍している女性だった。文系理系の違いはあれど、今の私と同じ大学で年齢も近く、色々と興味深い話を聞かせてくれた。文学博士を目指している女性を眼にしたのは、これが初めてだ。祇園はアルバイトのクオリティも異常だと思う。

研究日記

ボスが出張から帰ってきたので、再投稿した論文に対する editor からの返事をようやく確認できた。Editor の指定通りに publisher へと論文のデータを送信する。Proof が返ってくるのが 4週間後、順調に行けば 5月の issue に掲載されるらしい。思ったより時間がかかる。というか、online publication の早さが凄まじいだけか。Editor が OK を出した翌日には全世界に公開されるわけだから。この瞬間、過去には存在した 3ヶ月のラグ (= 先行研究者に与えられてきた時間的 advantage) が消滅する。競争が激化するわけだ。

遠からず、学術雑誌は紙に印刷されなくなるだろう。実際問題、本としての journal を手にすることはほとんどなくなった。レイアウトする必要もない、manuscript の PDF が読めたらそれで良い、というのなら、もはや publisher さえ不要だ。適当なプログラムがあれば、blog に投稿する程度の労力で online journal を構築できるだろう。

Creative ではない手間から、とにかく徹底的に人間を解放するという合理的な指向性。アメリカから強烈に感じること、そして日本に欠けがちなものがこれだ。日本からは PubMed や Google や Amazon は現れないだろう。そう考えると、トヨタ生産方式というのは極めて非日本的な存在である (そしてトヨタが最も成功した日本企業である点が面白い)。

ボスの研究費申請が第1次審査をパスしたらしい。今度は文部科学省でヒアリング (面接審査みたいなもの) があるから、プレゼンテーション資料を作成して、当日はオマエも東京に付いてこいという指令を拝命する。この種の仕事をしばしば頂戴する。「ヒアリング」で検索したら 2つの日記が出てきた (「求む、ノーベル生物学賞」「知らないと恥をかく」)。特に前者の日記では、「わざわざ俺を引っ張ってくるのは、どうも戦力養成の一環であるらしい」と書いている。当時のこの予想は、今ではほとんど確信になっている。

これはボスが特に俺の行く末を案じてくれるのは何故か、という問題にも関係してくる。これに対しては一つの回答を得た。さる人曰く、「俺がボスにとって最初の『弟子』だからではないか」。確かにそうかもしれない。ボスにとって「後輩」の医者は大勢いるが、まだ「弟子」はいないように思われる。医者同士が師弟関係を結ぶには、かなりの年齢差が必要だろう、というのはよくわかる。加えて、研究を目指す (目指している) 医者はごく一部だけという事情もある。

「最初の子供は可愛いんだよ」。子供はみんな可愛いだろうと思うが、独り身の俺には反論できない。

報道の客観性とジャーナリズムの中立性

昨日の日記で「日本の新聞に Nature ほどの価値があるかどうか。極めて疑問」と書いた。これについては、記事を書くのに要した時間と金銭を考慮する必要があるな、と反省した。Nature (別に Cell でも Science でも良いが) に掲載される論文の 1つ 1つには、数ヶ月から数年に渡る時間、数百万から数千万円に上る研究費が投じられている。これで新聞記事より下らなかったら、それこそ犯罪だろう。

新聞の根源的価値は「客観的事実」の「報道」にある。もし新聞がただそれだけに徹していれば、そこには Nature とは異なった、しかし同程度の価値が生じるだろう。しかし実際には、事実の歪曲、主観の挿入、床屋政談以下の評言、鼻糞をホジりながらでも書けるようなオナニー・コラムが混じってくる。そんなものは blog でいくらでも読める。無料で読める分だけ、blog の方が良心的であるとすらいえる。

さて、「ジャーナリズムの中立性」というのは、実によく考えられた言葉である。ジャーナリズムの機能の 1つに、「こういう大本営があったけど本当にそうなの?」という問い掛けがある。これはちょっとしたパラドックスなのだが、「本当にそうなの?」は客観だろうか主観だろうか。なかなかの難問である。だから、ジャーナリズムは「客観・主観」ではなく「中立性」を標榜する。まことに慎重だ。ジャーナリズムに信頼を置くとしたら、この慎重さにこそであろう。

「報道の客観性」と「ジャーナリズムの中立性」を分離できなかったのが、新聞最大の過誤ではないか。