- 退屈と衝撃と中毒と

2007/11/27/Tue.退屈と衝撃と中毒と

自分の名前は気に入っている T です。こんばんは。

「DQN ネーム (子供の名前@あー勘違い・子供がカワイソ)」というサイトを見て脱糞しそうになった。昨今の子供の名前はヒドいという話はよく聞くが、まさかここまでだとは思っていなかった。いわゆる暴走万葉仮名 (「夜露死苦」みたいなやつ) はまだ可愛い方で、さらにトンデモないものがゴマンとある。

全部実在の名前なんだぜ、コレ……。

どこのアホ親がこんな名前を付けているんだ。でも、最近の子供を命名をしているのって俺と同世代の人間なんだよな。やっぱり女の子は「〜子」っていう名前がイイよね、などと思っている俺は異端児なのか。頭が痛い。

どうでも良いが、「dqname.jp」っていうドメイン名は DNase みたいだな。かなり興味深いので、これから色々と読んでみよう。気分が悪くなって挫折するかもしれないが——。

退屈と中毒

面白い「コト」を継続的に書くのは退屈な日常を送っている多くの人間には無理なことであり必ず限界が来る。それを克服するためにテキストサイトの黎明期から大して面白くないことでも「面白く」書いて読ませるという技術が無数に編み出されてきたが、いずれも浮沈が激しく一過性のブームに終わってきた。流行の到来と終焉というのはすなわち新奇性と飽き、インパクトの探究とそれへの順応に他ならない。このパターンの後にはいつも退屈が訪れるし、しかもその周期は短くなっていくばかりだ。これが Web 上の文章に限った話でないことは例えば探偵小説の愛好者は痛いほどよく知っている。

退屈とどう闘うかという問い掛けは娯楽の消費者にもコンテンツの提供者にも非常に切実である。一つの解決として実利に走ることが考えられる。書籍なら絵空事 (フィクション) ではなく事実 (ノンフィクション) を読むとか、そういう方向。今のブロゴスフィア (笑) のかなりの部分がこのベクトルと少しズレたところを指向していて右を向いても左を向いても「〜を……する X の方法」(笑) だとかライフハック (笑) といった「役に立つ」エントリーで溢れ返っているばかりか、あまつさえ炎上までする始末。お前らどれだけヒマなんだよと思ってしまうが本気でキレているのは一部の白痴だけであって加担している人間の大部分は単に退屈なだけだったんだろうなあ。

実利とは正反対の方向性で退屈と対決するには中毒に罹るという方法が考えられる。何度も何度も同じ時間を繰り返しているにも関わらず退屈を感じないという過ごし方。得るものは恍惚以外に何もないがとりあえず退屈は回避される。この夏からニコニコ動画を意識的に集中的に観てきたけど最後に落ち着くのはやっぱり中毒系のコンテンツである。最初は一つの作品として完成度の高い動画インパクトのある動画に心が動くのだが結局は恐るべき飽きが来る。

音楽や動画やあるいはそれらと指先の運動を組み合わせたゲームなんかは中毒性と相性が良い。しかし文章はどうだろう。中毒性のある文章ってどういうものだろう。「何が書いてあるのかよくわからないがとにかく最初から最後まで読んでしまった。面白かった」「内容はないがまた読みたい」ということはあり得るのだろうか。あり得るならばそのような中毒文章 (というか文字列) を日記なり blog として定期的に生産することは可能なのだろうか。量産には中毒性の生成を技術として確立する必要があるが果たしてセンスや幸運に頼らない毒といったものがあるのだろうか。

読むことそれ自体に悦楽が伴う文章というのは現実に少なからず存在する。まずはそのへんを勉強してみるのが早道かな。

今日のニコニコ動画

忙しく働いている方が楽しいのかもしれんな。