- 詩について

2007/09/30/Sun.詩について

引用ばかりしている T です。こんばんは。

引用先を探すのに時間がかかる。もっとも、それもまた楽しい時間ではあるのだが。

昨日の日記夏目漱石『吾輩は猫である』を引用したが、いくらでも面白い場面があるので、少し長いが今日も引用する。

主人はなんと思ったか、ふいと立って書斎の方へ行ったがやがて一枚の半紙を持って出て来る。「東風君のお作も拝見したから、今度はぼくが短文を読んで諸君の御批評を願おう」といささか本気の沙汰である。「天然居士の墓碑銘ならもう二、三べん拝聴したよ」「まあ、黙っていなさい。東風さん、これはけっして得意のものではありませんが、ほんの座興ですから聞いてください」「ぜひ伺いましょう」「寒月君もついでに聞きたまえ」「ついででなくても聞きますよ。長い物じゃないでしょう」「僅々六十余字さ」と苦沙弥先生いよいよ手製の名文を読み始める。

「大和魂! と叫んで日本人が肺病やみのような咳をした」

「起こし得て突兀 (とっこつ) ですね」と寒月君がほめる。

「大和魂! と新聞屋が言う。大和魂! と掏摸 (すり) が言う。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。ドイツで大和魂の芝居をする」

「なるほどこりゃ天然居士以上の作だ」と今度は迷亭先生がそり返ってみせる。

「東郷大将が大和魂をもっている。詐欺師、山師、人殺しも大和魂をもっている」

「先生そこへ寒月ももっているとつけてください」

「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五、六間行ってからエヘンという声が聞こえた」

「その一句は大出来だ、君はなかなか文才があるね。それから次の句は」

「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示すごとく魂である。魂であるから常にふらふらしている」

「先生だいぶおもしろうございますが、ちと大和魂が多すぎはしませんか」と東風君が注意する。「賛成」と言ったのはむろん迷亭である。

「だれも口にせぬ者はないが、だれも見た者はない。だれも聞いたことはあるが、だれも会った者がない。大和魂はそれ天狗の類か」

主人は一結杳然(ようぜん)というつもりで読み終ったが、さすがの名文もあまり短か過ぎるのと、主意がどこにあるのかわかりかねるので、三人はまだあとがあることと思って待っている。いくら待っていても、うんとも、すんとも、言わないので、最後に寒月が「それぎりですか」と聞くと主人は軽く「うん」と答えた。うんは少し気楽過ぎる。

(夏目漱石『吾輩は猫である』)

苦沙弥先生の手による作中詩は、漱石による「パロディとしての詩」である。『猫』には他にも、寒月君によるパロディとしての論文、迷亭先生のパロディとしての演説など、様々なものがある。機会があればまた御紹介する。

私は詩を理解せぬ、というかほとんどバカにしている人間なので、なおさらパロディ詩が好きである。詩を読まないといえば、筒井康隆が有名である。その筒井が書いた詩が一つだけある。

二十年以上前に思いついて書きとめておいた詩が出てきたのである。おれは詩という文学形式にいささか疑問を持っているのでこれ以外には一度も書いたことはない。これだって本ものの詩ではなく、いわばパロディ詩である。つまらぬ詩だが、紹介する。

彼がいる 愛がある 味がある
酒が要る
いかにも
恋かしら? キスもよ
あら 不具なのね
甲斐がない
魚屋の店さき

おれの唯一の詩であろうか。

(筒井康隆『玄笑地帯』「われらが不満の初夏」)

私は、芸術はテクニックで作り得るという考えの持ち主であるが、詩なんかは特に技術が要求される文芸であろう。しかし「詩のテクニック」などというと、それだけで鋭い感性をお持ちのポエマーは拒否反応を覚えるらしい。まァ、詩とポエムは別物だけどね。

文章というものは、ある言語体系に存在する有限個の単語の組み合わせである。組み合わせの方法は、文法・慣習その他暗黙のルールによってある程度の制約を受ける。したがって、文章を機械的に解析することは可能である (ルールの破り具合も含めて)。コンピュータが小説なり詩なりを書くのは、全く不可能ではない。私はそう思う。

幻想小説を書く資質と文章力がある人の小説には、明らかにそれなりの証しがある。たとえばスティーヴン・キングだとかブラッドベリだとか、そういった人の文章の中に、明らかに常人と違う筆力による、文学的霧が発生しているような感じとでもいいますか、言葉の選び方や躍動感やうねりや、そういったえもいわれぬもの。これは、印象でしかない。たぶん納得してもらえないでしょう。本当にむずかしいのですけれど、ぼくにはそういうものが見えるわけです。この霧があると、同じ謎を書いたとしても、これが幻想小説になっていくと、ぼくの内でというべきかもわかりませんが。ただこの霧の成分も、分析可能とは考えています。つきつめていくと、単語や形容詞の選び方に、パターン依存が少ないということが、おそらく条件になっているだろうと予想します。

(島田荘司の発言・島田荘司/綾辻行人『本格ミステリー館』)

対談の中での粗削りな議論であるが、島田荘司御大がこのような考え方であることを知ったときには「ヘエ」と思ったものだ。この人こそ「感性」や「経験」に重きを置く人だとう印象があったからである。とはいえ、島田御大は「分析可能」といっているだけで、「再現・展開可能」とはいっていない。つまり、分析したからといって「書ける」かどうか。この問題について島田御大がどう考えているのかはわからない。

どちらにせよ、言語そのものに興味がなければ詩なんぞ書けないだろう。ふいんきっていうんですか最近は、それだけでは無理だと思うよ。