- 言語と存在

2007/06/16/Sat.言語と存在

紫陽花が好きな T です。こんばんは。

紫陽花

定義は、既に定義された言葉で記述される。当たり前のことだ。しかし、よくよく考えてみると、最後には不可知な領域に行き着く。「最初の定義」が存在しないからだ。仮にあったとして、その定義はどのような言葉で書かれるのか。

辞書を使った遊びが有名だろう。例えば「人間」を引くと「ヒト」と書いてある。今度は「ヒト」を引くと「人間」と説明がある。定義 (というか言語) の問題は、最終的にこのような相互言及の罠に陥る。我々は何も定義できないし、したがって、どのような言葉も 1つの「意味」に収斂させることができない。だから、どんな場面にも解釈が発生する。

議論だとか、執筆だとか、会話だとか——、これらは全て、相互の解釈を統一させようという試みである。その過程をコミュニケーションと呼んでも良いだろう。コミュニケーションを通じ、お互いが同じ解釈 (に至ったという幻想) に達すれば、それは「理解」と呼ばれる。素晴らしい奇跡だが、あまりにも危うい。この理解 = 誤解を回避するのが、他の解釈に対する想像力である。「ひょっとしたら違うんじゃないか」。この懐疑だけが世界を拡大する。

もっとも、何でも疑えば良いわけではない。誤解の夢に微睡 (まどろ) む幸せも存在する。これを否定すれば、人間は生きていけないだろう。そして、覚めない夢は現実に等しい。例えば、最も強い人間関係の 1つである親子間における理解。これもしょせん誤解に過ぎないのだが、同時に、やっぱり理解なのである。

我々は現実に対応させる目的で言葉を作った。したがって、「初めに言葉ありき」というのは嘘である。定義されていないからといって存在しないわけではない。だから自然科学を究める人は「発見」し、定義する。

その点、やはり数学は面白いなあと思う。定義がなければ存在もしない。平行線公理を設定しなければ、その条件で 1つの世界 (この例では非ユークリッド幾何学) が成立する。

言葉のことを考えていると、ついつい、言語とはアプリオリなものと錯覚してしまいがちである。それは、我々が生まれる以前から膨大な量の言語が存在しているからに他ならない。人間の文明が継続、発展しているのはこのためである。そしてこれが、「定義は、既に定義された言葉で記述される」の意味でもある。

新しく紡ぎ出される言葉は、過去の言葉と無縁ではあり得なく、全てつながっている。生命がそうであるように。その意味では、遺伝子は言語と似ているよなあ。