- 探偵小説の五大奇書

2007/05/24/Thu.探偵小説の五大奇書

散髪に行ってきた T です。こんばんは。

読書日記

先日の日記でも少し触れた「探偵小説の五大奇書」であるが、元来は、次の 3作を指して「三大奇書」と称されていた。

「三大奇書」という言葉がいつから使われたのかは知らないが、『中井英夫作品集』(1969年) の時点で、以下のような評価がなされている。

怖ろしい文学はないか、魂を震わせ世界を凍りつかせる文学はないか——あらゆる既成の価値が崩壊の危機にある情況の奈落にあって、なお私たちが自らの<生>の拡充を志向するとき、一冊の毒にみちた書物、『虚無への供物』が開かれています。

夢野久作の『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』に比肩する巨大な癲狂院を、あえて戦後の現実のなかに構築したこの長編は、ポーに始まる推理小説の最後の墓碑銘とまで賞讃・畏怖されてきました。

(「刊行のことば」齋藤愼爾)

ここからわかるのは、『虚無』以前、既に『黒死館』と『ドグラ・マグラ』が「二大奇書」として認識されているということである。しかし中井英夫が、「二大奇書」を意識して『虚無』を書いたかどうか、私は知らない。中井の日記は活字になっているので、いずれ読んでみよう。

さて、こうして成立した「三大奇書」に、以下の 1冊を足したものが「四大奇書」である。

「四大奇書」は「三大奇書」ほど認知されていないようだが、4冊目を選ぶのなら『匣』、というコンセンサスは確固としてあるように思われる。少なくとも、『匣』以外の候補を目にしたことはない。

で、さらにもう 1冊足して「五大奇書」にしようという動きが一部にあるらしい。これはまだ候補作を選定する段階に過ぎず、幾つかの本が取り沙汰されている。

いずれも傑作であることには違いない。ではどれが「5冊目の奇書」となるのか。それにはまず、「奇書」の定義をせねばならぬ。しかし「奇書」には、そのような定義を超越したパワーがあってほしい、という願望もまたある。私が個人的に求めるのは、「1冊 1ジャンル」とでも言うべき、強烈な個性だ。

以下は独断と偏見である。

『暗黒館』は完全に失格である。これは「館」シリーズの 7作目ではないか。このシリーズでは、中村青司という建築家が重要な役割を果たしているのだが、『暗黒館』(本書では特に中村青司がクローズ・アップされる) だけを読んで、彼のボリュームを正確に把握できるのか。疑問である。『暗黒館』の面白さは、ただ『暗黒館』の上にのみ立脚しているわけではない。何で候補に上がってくるのか理解に苦しむ。

『姑獲鳥』は傑作であるが、「奇書」という評価はちょっと違うような気がする。どちらかというと「正統」ではないのか。私は以前、島田荘司『占星術殺人事件』、麻耶雄嵩『翼ある闇』、京極夏彦『姑獲鳥の夏』という流れは、日本探偵小説の完成、脱構築、再構築である、と論評したことがある。『姑獲鳥』の歴史的な意味はそれほど大きい。しかしだからこそ、「奇書」というラベルはどうかと思う。「奇書」は孤立しているべきだ。

個人的に選別するなら、『夏と冬の奏鳴曲』と『奇偶』が良い線ではないか。また、笠井潔『天啓の宴』『天啓の器』は非常に内容が「奇書」っぽい (この 2作はタイトルに共通項を持つが、独立した作品である) のに、あまり取り沙汰されないのが不思議である。