- 再生

2007/05/11/Fri.再生

以前から、新聞などで発表される統計には誤差や偏差の情報がないことに不満を持っている T です。こんばんは。

研究日記

内因性もしくは外因性の幹細胞を動員することによって、構造的に失われた、あるいは機能的に損なわれた細胞を補償し、疾患を治療しようというのが「再生療法」(regenerative therapy) である。動物実験では多数の報告があるが、再現性や効果に疑問符の付くものも多い。ヒトに対する臨床応用の例はほとんど絶無である。「再生療法」の定義にもよるが (これらの語については曖昧な点が多い)。

再生療法 - 内因性幹細胞の動員

戦略は大別して 2つある。1つは、何らかの薬剤ないし遺伝子 (あるいはその産物) を投与することによって、内因性の幹細胞を活性化し、自らが持つ再生能力によって回復を試みる方法である。戦略としては非常に素直だが、現在のところ、失われた器官がトカゲの尻尾のようにモリモリと生えてくるまでには至っていない。また、常識的に考えて、高等動物でそのようなことは起こらないと思われる (そのような「常識」が引っ繰り返されることで科学は進歩してきたので、「絶対にない」とまでは言わないが)。

しかし臓器レベルでは無理でも、例えば造血幹細胞を刺激して血球の生産を増やす、あるいは膵臓の細胞を増やしてインスリンの産生を高める、この程度なら充分に可能である。この場合、「再生」されるのは自らの細胞なので、危険な要素は少ない。しかしこれらの療法が「再生」かといわれれば微妙な気もする。単に細胞の分化・増殖を促しているだけではないのか。毛生え薬で毛が生えた、というのと本質的には変わりない。もちろん、再生がエラいわけでも何でもなく、治療として有効であるかどうかが重要なんだけど。私が議論しているのは「再生」という言葉の使い方であって、治療の有用性はまた別問題であることを、一応断っておく。

再生療法 - 移植

もう 1つの戦略は、生体外で幹細胞から組織ないし機能細胞を復元し、生体内に導入する方法である。つまりこれは「移植」だ。移植する組織の元となる幹細胞に ES 細胞を使うか成体幹細胞を使うかで議論が分かれるが、移植であることに変わりはない。これらの移植が再生医療であるのなら、骨髄移植もまたそうである。骨髄移植は、髄液中の造血幹細胞を導入することが目的であり、これは幹細胞移植に他ならない。その意味で、かなり以前から再生療法は現実に行われている、という言い方もできる。

骨髄移植のドナー問題でもわかる通り、移植と免疫は不可分の関係にある。したがって、ES 細胞を用いた再生医療では、必ずこの問題をクリアせねばならない (ES 細胞は自分の細胞ではないから)。それにしても、拒絶反応が惹起される「再生」って何だろう、という気がする。つまりそれは、「私の再生」ではないのだ。そんなヘンな「再生」があるだろうか。いや、あくまで言葉の問題だけど。

では最終的に、自らの幹細胞を使った再生医療が「真の再生医療」となるのだろうか。確かにこの場合は、「私の再生」である。新聞などでよく見かける「オーダーメイド医療」でもある。技術的な困難はあっても、それが正しい道ならば、選択肢は 1つしかないのか。

再生医療 - 経済的な観点から

医療に限らず、オーダーメイドというものを考えたとき、すぐに思い浮かぶデメリットは次の 2つである。

「遅い」は、ある種の医療において破滅的なデメリットだ。心臓が停止したというのに、「では患者から幹細胞を取り出して培養し、心臓を形成しましょう」では間に合わない。出来合いの心臓 (ES 細胞由来) をさっさと移植するべきだ、という話になる。

「出来合いの心臓」というのもスゴい言葉だが、ES 細胞による再生医療が究極的に目指しているのは、ここだろう。つまり臓器の作り置きであり、商品化だ。大量に作ればコストも下がる (オーダーメイドの「高い」という問題もクリアできる)。移植ができる病院であれば、再生工学的に作られた心臓が 1つや 2つストックされているのは当たり前、ということになる。まァ、妄想なんだが (しかし皮膚程度の組織であればほとんど商業化されている)。

もっと妄想を膨らまそう。ここまでを振り返ると、どうも ES 細胞の方が金になりそうだと思えてくる。ES 細胞の研究に莫大な投資がなされているのは、恐らくこの理由による。ペースメーカーが工場で作られ、病院に納品されては移植されるように、今度は ES 細胞から心臓が工業的に生産され、次々に移植されていく。皮肉なことに、「再生」医学が進んだ世界では、ちょっとでも具合の悪い臓器はズバズバと切除されて交換される。外科は大活躍だ。どこが「再生」なんだと笑えてくる (何度も繰り返すが、このような形の医療を否定しているわけではない)。

ちょっと我慢して自然の治癒力に期待しようとか、病気や怪我とともに生きていく、などという悠長なメンタリティはなくなるだろう。「クララが立った〜」という形の「再生」は、もうこの世界にはない。

肉体と精神の「再生」

文学的な話になるが、「再生」という言葉は元来、精神的な事柄に対して使われることが多かったと思われる。あるいは肉体的な再生であっても、それは必ず精神的な再生を伴っていた (クララ!)。主題が精神の再生であることは自明である。では、純粋な肉体のみの再生についてはどう考えられていたか。それは『フランケンシュタイン』を読めばよくわかる。ES 細胞の研究者が迫害されるというニュースが、一昔前には海外でチラホラとあった。フランケンシュタイン博士に対する偏見はまだ解けていない。

組織工学 (tissue engineering) などの分野で使われる「再生」という言葉に、我々が何となく違和感を覚えるのも、そこに精神というテーマが欠けているからだろう。科学的なタームであるから当然ではある。

余談だが、「おばあさん細胞仮説」というものがある。簡単に書けば、我々が「おばあさん」を認識できるのは、「おばあさん」に反応する神経細胞 (おばあさん細胞) があるからだ、という古い説である。現在ではほとんど否定されている。もしもこの仮説が真実だったらどうだろう。神経細胞の移植は、動物実験で効果を挙げている治療法であるが、ES 細胞から分化した神経細胞は彼らにどんな夢をもたらすのだろう。胎児の夢。『ドグラ・マグラ』みたいだな。

もちろんそんなことはない。ES 細胞だとか、遺伝子改変作物だとかには諸々の偏見がつきまとう。その偏見を私は否定はしない (正確な知識を持った上で、という条件付きだが)。素直な感情であると思う。「ES 細胞から作った心臓? イイねえ!」という方がよほどおかしい。医療が発達し、治療を受ける側が正しい知識を持ち、それでもなおかつ「私は自分の心臓で死にます」という人がいても良い。重要なのは選択肢を用意できるかどうかだろう。