- 言葉が消えても対象は消えない

2007/05/06/Sun.言葉が消えても対象は消えない

明日からの実験計画を考えている T です。こんばんは。

月末に学会の締め切りがあるのだが、それまでに少しは結果が出るようにしたい。

母なる言葉に包まれて

「潔しとしない」という日本語が死語になって久しい、と先日の日記に書いた。死語になった日本語は色々とあるが、私の中で使用頻度が高いにも関わらず、世間では聞かれなくなった単語というものがある。つまり自分にとっては「生きている」が、巷間では「死んでいる」。そのギャップは、自分と世間のズレでもある。私にとって、その二大巨頭は「洒落臭い」と「小賢しい」である。

これらの言葉がほとんど使われないということはつまり、私が「洒落臭い」「小賢しい」と感じている事物に対して、世間の人はそう思っていない、ということである。私にとっての「洒落臭い」「小賢しい」が、一般的には「ステキ」「カワイイ」「スゴい」なのであって、何だか脱力することが多い。

それはまァ、感覚の違いであるから否定はしない。ただ、ある感情を表す言葉を死語とすることには違和感がある。

言葉と、それが指し示す対象の関係を考えよう。対象が先にあって、それに対して名前 (= 言葉) をラベルする、という考え方は直感的に理解できる。でも、言葉の効用って、それだけじゃないんだよね。何を意味しているのかわからないんだけど、あるいは実感したことはないんだけど、とにかくある言葉が既に存在する。そして、いつか自分が名状し難い感情に襲われたとき、「ああ、これが XX ということなのか」と悟る。人はそうやって言語を経験していく。幼児が言葉を習得する過程を想像すれば良い。

自分がいずれ経験するであろう事柄が、既に言葉として用意されている。私は明日、また素晴らしい言葉に出会うかもしれない。我々の人生は母語、まさに母なる語に包まれている。使わないからいらない、なんてことは絶対にない。自然消滅することはあっても、積極的に「死語」にしようという運動は理解できない。