- Diary 2007/05

2007/05/31/Thu.

現在の研究費・研究計画の申請システムは遠からず破綻するのでは、と思った T です。こんばんは。

研究日記

病院 → 大学。

午後からは大学で、文部科学省の指針改正に関する説明会。

あまり知られていないと思われるが、科学研究における様々な実験に対して、多数の法令やら指針やらガイドラインが制定されている。強制力があるものもあるし、提言という位置付けのものもある。動物実験、遺伝子の導入・改変、ある種の生物種や細胞の飼育・培養、指定された薬品の購入・使用——、法令等に引っかかる物事については、研究計画書を中心とした申請書一式を提出し、しかるべき承認を受けねばならない。その研究機関内の承認で済むものもあれば、最終的に大臣のハンコが必要なものもある。申請に必要な労力は、必ずしも科学的な重要さと比例するわけではない。また、このような仕組みに精通することは、サイエンスと何の関係もない。

これは徒労なのだろうか。全くそうである、とまでは思わない。だが、研究者が申請に割いている膨大な時間は、いささか無駄に過ぎる。経済や法律における税理士や弁護士のような役職が、サイエンスにおいても必要なんじゃないか。普通の秘書さんがタッチするには、あまりに専門的な書類も多い。しっかりとした資格と制度を整備し、スペシャリストを養成する時期ではなかろうか。

大事なことだから何度でも書くが、研究費のかなりの部分は税金である。ある種の実験に対して世論が規制を求めるなら、充分に議論をする必要がある。同時に、多くの人が正しい科学的知識を有する努力も求められる。決められたルールは守らねばならない。一方で、柔軟に変更できるようにもしておくべきである。科学の進歩は速い。

科学格差とでもいうべき現象が、実際に存在する。例えばアメリカの一部では、ダーウィンの進化論が否定されている。日本人はそれを見て笑っているけれど、これは、国民の科学レベルが比較的高く、かつ科学格差が小さいからできる芸当である。日本人は宗教に熱心でないから、という理由だけでは説明できない。

宗教が悪いとはいわない。科学が全能だとも思わない。両者は全く別物である。「反対」という関係ですらない。科学は宗教を排斥しない。そんなことはサイエンティストなら誰でも知っている。科学の系は宗教を扱えないいから、つまり——、否定もできないのだ (逆に、宗教はロジックではないから、あっさりと科学を否定することができる)。偉大な科学者にして敬虔な宗教徒は、多数存在する。科学教育が不充分だと、このことが理解できない。

科学は宗教をどうにもしないが、科学教育は宗教問題を改善する可能性がある。

2007/05/30/Wed.

都合の悪いことに対しては耳が遠くなる T です。こんばんは。

研究日記

大学 → 病院。

午前中に学会の抄録を登録する。昼食を食べに行った先でボスと鉢合わせ。今後の研究について色々と話す。

などなど。

2007/05/29/Tue.

寝不足気味の T です。こんばんは。

研究日記

大学 → 病院。

学会の抄録についてボスとディスカッション。ボス御訂の文章も上がってきたので、明日登録する。これはアメリカの学会。開催地はフロリダ。この学会はレベルが高くて、演題の採択率も厳しいのだが、今年も是非参加したい。

中国とトルコの学会についても相談する。結局、中国へ行くことに。開催地は北京。英語は通じるのだろうか。むしろ日本語が通じそうな気もする。ソウルでも日本語には困らなかったからなあ。そんなことを考えながら、学会のパンフレットを眺める。「2007年」とあるべき箇所が「2005年」になっていた。パンフレット記載の URL にアクセスしたら 404 Not Found……。何という中国クオリティ。オラ、なんだかワクワクしてきたぞ!

2007/05/28/Mon.

「キャンディー・アンド・ウィップ」という響きは、何となくニセモダン的で良い感じじゃないかと思う T です。こんばんは。

今日のタイトルは「飴と鞭」を直接英訳したものだが、こういう言い回しが英語にあるわけではない (あるかもしれないけど)。普通は「carrot and stick」というらしい。日本語には「鼻先に人参をぶら下げる」という表現はあるが、鞭や棒は出てこない。こういう、どうでも良いことが面白い。

さらにどうでも良いが、騎乗した日本の武士が鞭を使っているのを見たことがない。「ハイヤーッ」などと叫んで手綱を操る映像が時代劇では一般的だが、実際はどうだったんだろう。

研究日記

大学 → 病院。

大学で機器の講習を受ける。これで高感度 autoradiography の実験ができる (RI 実験の講習は随分と前に受けたが)。

病院では実験。最近はやけに実験時の集中力が高い。脳汁がビュルビュルと出る。気が付いたら結構な時間が経っていた。

隣の栄養士嬢が、そのラボの先生から指導を受けていた。実験室は共同の大部屋なので、他のラボが何をしているのかよくわかるのだが、この先生はお構いなしにガンガンと叱り飛ばすことで名を馳せている。

その光景を見るたびに、何だかなあ、と思うのは私だけではないようだ。他のラボの方針に口を挟むつもりはないし、指導は厳しくあってしかるべき、とも思う。しかし叱り方にも適度というものがあって、廊下の向こうにまで届く大声で怒鳴るのが指導かと問われれば、首をかしげてしまう。叱られる側にも自尊心がある。彼らは基本的に逆らわない (逆らえない) ので、叱る側はその心情を汲み取らねばならない。極めて日本的といえば日本的だが、それが嫌なら外国人でも雇って喧嘩をすれば良い。雇用者が被雇用者を叱り飛ばすのは勝手だが——、結果としてこのラボは、イチロー 2人分の打率に匹敵する離職率を誇るようになった。こんなことを書くのもアレだが、ちょっと異常な数字である。

私も就職した当初は、留学された先生やボスに随分とやっつけられたものだ。私の未熟が原因なのだし、給料を貰っている以上、何を言われても当然である。しかしこれは、私にある種の覚悟があったから成立したわけである。そんなことは叱る側もわかっている。彼らがテクニシャン諸氏に厳しく当たることはない。そんなことをすれば、辞められるのは目に見えている。テクニシャン諸氏にとって、PI レベルの研究者が直接求める仕事は、理不尽以外の何物でもない。内容によっては、やってやれないことはないかもしれないが、それならもっと給料を寄越せ、となるだろう。PI からすれば、給料を上げるなら新たに研究員を雇う、となる。市場原理が成立しているのだ。あえてドライに書いたが、各人の本音は大方こんなところだろう。

我がラボでは、現場レベルのプレッシャーを全て研究員が背負うことで、円満な関係が成立している。なんて書くと、いかにも研究員が悲惨なようだが、そうでもない。研究員は研究員で大事にされている。私が大学院に行かせてもらっている事実を指摘すれば充分だろう。市場原理とは、飴と鞭でもある。皆が 100% ハッピーになることはあり得ないが、妥協点を探る努力はできる。面倒だが、結果的にそれが最も低コストなのである。

件のラボは、そういう手続きを取っ払って、ひたすらに爆走するから脱落者が後を絶たない。「隣の T は土日も働いているぞ」とハッパをかけたところで、奮発できるわけがないだろう。私とボスの間に存在する give and take を知らない人にとって、私は単なるワーカホリックでしかない。こちらこそいい迷惑だ。……半分は真実だけどな。

「あれじゃあ辞めますね」という、我らがテクニシャン嬢の言葉が印象的だった。だよなあ。鞭だけで動くわけがないよ。馬じゃないんだから。

2007/05/27/Sun.

血を見た T です。こんばんは。

研究日記

大学 → 病院 → 大学。

病院での実験が一段落し、やれやれと、床に落ちたゴミを拾う。立ち上がろうとしたら、腰の辺りでザクリと嫌な音がした。壁から飛び出た配管のようなものが左尻の上に突き刺さっている。トイレで傷口を確認。かなり深い。出血で下着が真っ赤になっていた。やれやれ。すごく痛い。ウロウロと歩いたが、人も薬も発見できず。ここが病院であるという事実が、私の哀しみを一層のものとする。キムワイプに消毒用エタノールをブッかけ、オートクレーブのテープで傷口に貼る。痛みが和らぐまで、椅子を並べて横たわる。そのまま 1時間ほど昼寝をしてしまった。何をしているのだ、私は。

帰り際にボスとすれ違う。高額の研究費の最終選考に残ったと言っていた。もしも審査に通れば、私が大学院を了えるまでは安泰となる。そのためなら怪我の 1つや 2つ……などと、ヘンな理屈で自分を慰める。当たり前の話だが、両者には何の関係もない。人間、苦痛を抱えているときは思考が妙な方向に飛ぶ。腹が痛いときは便器の上で神様に祈ったり。小さい頃、よくやらなかった? 私だけか。

2007/05/26/Sat.

またもや書評が溜まりつつある T です。こんばんは。

溜めておいてこんなことを書くのもアレだが、書評の対象をさらに拡張しようかと目論んでいる。現在は、そのときどきに初読した本しか記録していないが、このルールに拘る必然性は全くないわけで。

私は頻繁に再読をするし、そうでなくとも印象に残った本はたくさんある。その本について書きたいことがあれば、書けば良いじゃないか。なぜか狭い方へ、狭い方へと考えてしまう。これでは駄目だ。

以前に「衝撃を受けた 21冊」という企画めいた短評を書いたことがあるが、こういうのも良いなあ。

研究日記

大学 → 病院。

研究員嬢が来ていた。頑張ってるなあ。私も集中して実験する。多種大量のサンプルを回収した。解析は来週。良い結果が出ると嬉しいのだが。

2007/05/25/Fri.

眼が疲れている T です。こんばんは。

蚊取り線香の季節がやってきた。蚊柱が立つようになると、私が暮らすアパートの入口には蚊取り線香 (渦巻き型) が置かれる。仕事から帰ってきて郵便箱をチェックしていると、ほのかに懐かしい香りが漂ってきて、何ともいえぬ気分になる。蚊取り線香は毎夕、大家さんが設置しているようだ。帰宅時間が遅い日には、蚊取り線香は燃え尽きて白灰になっているが、それもまた風情があって良い。蚊が飛び回ってはいるけれど。

研究日記

終日病院。

主にデータ整理。Figure まで作り出すと、アッという間に時間が過ぎる。無論、大事な仕事である。理屈だけをいうと、グラフは数値を視覚化したものでしかなく、それによって結果が変わるわけではない。ではなぜグラフ化するのか。

やはり、ビジュアル化によって「見えてくる」ものがあるからである。いくら「定量的」と叫んだところで、数字の羅列を眺めただけでは、なかなかアイデアは湧いてこない (湧いてくる人は数学を究めたりするのだろう)。我々はグラフを見て、「バーが高い」「カーブがキツい」などと、非常に定性的な認識をする。

定量性はもちろん重要である。これがデータの信頼性を決定する。しかし、我々の (少なくとも初期段階の) 認識は、定性的でファジーなものである。そもそも、科学的な発見自体がそうだ。「表現型」という、よく考えてみれば曖昧な概念がその典型である。顕微鏡を除いて、「あれ、何か違うな」。これが最初である。何がどう違うのかを説明するために、測定やら実験を行って定量化する。そしてそれをまたグラフ化、つまり定性化して説明する。

定性から定量への変換、これが実験や観測であり、定量から定性への変換、これがデータの整理や論文の執筆である。例えば有意差は、「違うのか違わないのか」を議論しているに過ぎない。その証拠に、値が数十から数百倍も違う 2群の間では、誰も p の値を求めない。「違う」のは「明らか」だからだ。

グラフや有意差のような例は他にもある。百分率がそうだし、もっとグレー・ゾーンに踏み込めば、概念的なイラストの大部分は嘘であるといって良い。これらは全て方便である。そのことを忘れなければ、我々の理解力はまた一段と深まるだろう。

どうでも良いが、「これは方便である」というセンテンスもまた方便だな。

2007/05/24/Thu.

散髪に行ってきた T です。こんばんは。

読書日記

先日の日記でも少し触れた「探偵小説の五大奇書」であるが、元来は、次の 3作を指して「三大奇書」と称されていた。

「三大奇書」という言葉がいつから使われたのかは知らないが、『中井英夫作品集』(1969年) の時点で、以下のような評価がなされている。

怖ろしい文学はないか、魂を震わせ世界を凍りつかせる文学はないか——あらゆる既成の価値が崩壊の危機にある情況の奈落にあって、なお私たちが自らの<生>の拡充を志向するとき、一冊の毒にみちた書物、『虚無への供物』が開かれています。

夢野久作の『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』に比肩する巨大な癲狂院を、あえて戦後の現実のなかに構築したこの長編は、ポーに始まる推理小説の最後の墓碑銘とまで賞讃・畏怖されてきました。

(「刊行のことば」齋藤愼爾)

ここからわかるのは、『虚無』以前、既に『黒死館』と『ドグラ・マグラ』が「二大奇書」として認識されているということである。しかし中井英夫が、「二大奇書」を意識して『虚無』を書いたかどうか、私は知らない。中井の日記は活字になっているので、いずれ読んでみよう。

さて、こうして成立した「三大奇書」に、以下の 1冊を足したものが「四大奇書」である。

「四大奇書」は「三大奇書」ほど認知されていないようだが、4冊目を選ぶのなら『匣』、というコンセンサスは確固としてあるように思われる。少なくとも、『匣』以外の候補を目にしたことはない。

で、さらにもう 1冊足して「五大奇書」にしようという動きが一部にあるらしい。これはまだ候補作を選定する段階に過ぎず、幾つかの本が取り沙汰されている。

いずれも傑作であることには違いない。ではどれが「5冊目の奇書」となるのか。それにはまず、「奇書」の定義をせねばならぬ。しかし「奇書」には、そのような定義を超越したパワーがあってほしい、という願望もまたある。私が個人的に求めるのは、「1冊 1ジャンル」とでも言うべき、強烈な個性だ。

以下は独断と偏見である。

『暗黒館』は完全に失格である。これは「館」シリーズの 7作目ではないか。このシリーズでは、中村青司という建築家が重要な役割を果たしているのだが、『暗黒館』(本書では特に中村青司がクローズ・アップされる) だけを読んで、彼のボリュームを正確に把握できるのか。疑問である。『暗黒館』の面白さは、ただ『暗黒館』の上にのみ立脚しているわけではない。何で候補に上がってくるのか理解に苦しむ。

『姑獲鳥』は傑作であるが、「奇書」という評価はちょっと違うような気がする。どちらかというと「正統」ではないのか。私は以前、島田荘司『占星術殺人事件』、麻耶雄嵩『翼ある闇』、京極夏彦『姑獲鳥の夏』という流れは、日本探偵小説の完成、脱構築、再構築である、と論評したことがある。『姑獲鳥』の歴史的な意味はそれほど大きい。しかしだからこそ、「奇書」というラベルはどうかと思う。「奇書」は孤立しているべきだ。

個人的に選別するなら、『夏と冬の奏鳴曲』と『奇偶』が良い線ではないか。また、笠井潔『天啓の宴』『天啓の器』は非常に内容が「奇書」っぽい (この 2作はタイトルに共通項を持つが、独立した作品である) のに、あまり取り沙汰されないのが不思議である。

2007/05/23/Wed.

花粉症で鼻水が垂れている T です。こんばんは。

Web 日記

ネットが不調で、ここ数日はイライラとしていたが、ルータを設定し直したらあっさりと復調した。これが一般的な現象かどうかは知らぬが、そういうこともあるということで、ここに書いておく。ルータを購入してから半年ほど経つが、今回が初めてのトラブルだった。忘れないようにしておこう。

研究日記

大学 → 病院。

大学でシーケンサーの講習を受ける。何を今更、という感じなのだが、講習会を受けないと使用できない決まりになっているので仕方がない。心内でブツブツ言いながら、それでも真面目に聞いていると、新たな発見があったりするから奥が深い。まァ、実験に直接関係することではなく、マニアックな雑学の類ではあるけれど。

Western と Q-PCR で良い結果が出た。安心して、明日は休むことに決める。

「今日できることは明日に延ばすな」という、極めて日本的な標語がある。研究という仕事は「するべきこと」が無限にあるので、どこかで区切って明日に延ばさない限り、永遠に働き続けねばならないことになる。そこで私は思い出す。「明日できることは今日やるな」。誰の言葉であったかは失念したが、中々に味わい深い。額面通りに受け取ってしまえば、何も片付かなくなるのだが、もちろんそういう意味ではない。

貴方の身近に、忙しくて周りが見えなくなっている人がいたら、この言葉を贈ってあげよう。

2007/05/22/Tue.

身の引き締まる思いがした T です。こんばんは。

研究日記

終日病院。

昨年度後半から我がラボの担当になった M氏という業者の方が、転職されるという話を聞いた。彼の上司から M氏を紹介されたとき、彼は修士を出て 3年だったか 3年目だったかという話だった。であれば、私の 1つ上か、同学年である。そんな彼が今の仕事を辞めて、今度は外資系の会社で検査の仕事をするという。昨年のいつ頃だったか、急に髪を短くしたので、イメージ・チェンジかなと噂していたのだが、ひょっとしたら面接を受けるためだったのかもしれない。短い間だったが、よくして頂いた。

大学院を修了してからになるだろうが、私もいずれ転職するだろう。悠長に構えてはいられない。たった 4年間で、私は転職に値するような、つまり転職先が私に給料を払っても良いと思うような人間にならねばならない。難しいことだ。

2007/05/21/Mon.

海外はアメリカと韓国とタイしか訪れたことがない T です。こんばんは。

研究日記

終日病院。

学会の抄録について、ボスとディスカッション。この時間、私が立ちっ放しであることは以前に書いた。

中国とトルコで学会があるのだが、エントリーしないかと誘われた。中国とトルコ……。ボスの調子だと、どちらか 1つには参加させられそうな感じである。選ぶならトルコかなあ。金があれば両方に行ってみたいけどね。

全然関係ないが、トルコの通貨は「新トルコリラ」という。微妙過ぎる。すごくバッタモン臭い。

2007/05/20/Sun.

ネットが不調でイライラとしている T です。こんばんは。

読書日記

麻耶雄嵩『名探偵 木更津悠也』が文庫になっていたので、購入してパラパラと再読。ノベルスを読んだときに感想を書いたから、ここでは繰り返さない。麻耶の書評は難しい。例えば筒井康隆の書評も難しいが、「読めばわかる」と書けば済む、という一面もある。しかし麻耶の面白さは、「読めば (誰にでも) わかる」とは思えない。飽きるくらいに探偵小説を読んだ人でないと、この面白さの構造は理解できないだろう。

文庫版『名探偵 木更津悠也』の解説は波多野健。麻耶作品における名探偵についてスマートに論じている。思わず、「俺もそう思っていたんだよ」と膝を打った。優れた評論は、こうでなくてはならない。

名探偵の美学——これは本格推理小説の読書体験に特有の愉しみだから、とどのつまり読者と作者が作品の外側の世界で共有している美学である。ところが、例外的に作品内部でもワトソン役がどうやらこの美学を共有できるらしいのである。

ワトソン役のこの属性に焦点を——間違いなく世界で最初に——当てたのが、本書、麻耶雄嵩の『名探偵 木更津悠也』なのである。

(解説「名探偵という器」波多野健)

ところで最近、「探偵小説の五大奇書」という言葉を見かけた。私が知っているのは「四大奇書」だが、これを拡大しようとする動きが一部にあるらしい。このことについては、また後日。

研究日記

病院。

半日ほど集中して実験。来週の計画を立てる。

2007/05/19/Sat.

神道は宗教ではないと思うこともある T です。こんばんは。

日本の創造神はもっと評価されるべき

以下は半ば冗談である。

一神教における神の名前は、ヤーハエだとかアッラーだとか、唯一絶対神にしてはエラく情けない音である。もう少し腹に力の入る名前にできなかったのか。

試みに手元の『日本書紀』をめくってみれば、一番最初に登場する我らが神の御名は、國常立尊 (くにのとこたちのみこと) とある。次に重要な神の御名を、天御中主尊 (あまのみなかぬしのみこと) という。以下、伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)、伊弉冉尊 (いざなみのみこと)、天照大神 (あまてらすおおみかみ)、月夜見尊 (つくよみのみこと)、素戔嗚尊 (すさのをのみこと) と続いていく。何と格調高い御名ではないか。

それに比べて、「アッラー」。豚は食うなとか、言うことも一々小さい。一神教の神は、全宇宙を創造する一方で、地べたに這いつくばっている我々が少しでも悪いことをすると、それ相応に罰を与えたりもする。そういう、非常に卑しい、コセコセとしたことに、常に気を配っている。昔はともかく、現在の宇宙観からすれば、大したスケールではない。

高天原 (たかまがはら) (= 宇宙) に生まれた天御中主尊は、何をするというわけでもなく、その後の記述もない。この抑制がスゴい。天御中主尊は宇宙神であり、その存在が宇宙そのものでもある。我々の理解から隔絶した存在。だからこそ神なのだ。万歳!

研究日記

病院。

細胞の培養と、雑用を少し。

2007/05/18/Fri.

鼻水が止まらない T です。こんばんは。

花粉症だろうか。体調は悪くない。

Web 日記

昨日の日記について、paru氏が「本当に大事なもの」というエントリーを書いておられる。興味がある方はどうぞ。こういうことは、もっと知られても良い。

こういう機会は貴重なので、色々と書きたいことはあるのだが、また後日に。

研究日記

大学 → 病院。

テクニシャン嬢から服装チェックが入る。曰く、「そのズボンはダメでしょう」。

私「何で? クリーニングに出したばかりなんやけど」
嬢「そういう問題ではありません。ポケットに穴が開いています」
私「ホンマや……」
嬢「それから、膝横の縫い目が破れています」
私「う……」

いつもながら、スゴい観察力である。気付かねえよ、そんなの。

余談だが、ボスは以前、クリーニングのタグ (あの緑のやつ!) が付いたままのズボンを履いて職場を練り歩き、皆の哀れみを誘ったことがある。そこまで華々しい失態を犯すと、失笑ではなく同情が得られるようだ。ちなみに、ボスは一人で暮らしを営んでいる。むべなるかな。さすがにその日は皆、ボスに優しく接したらしい。

2007/05/17/Thu.

布団のシーツが破れてしまった T です。こんばんは。

研究日記

大学 → 病院。

学会の抄録を書く。Not including space で 2000文字という量は、抄録にしては長い方だろう。明日中にボスへ発送する予定。

その学会にエントリーしないかも、と研究員嬢がこぼしていた。これまでのプロジェクトで芳しい結果が得られていないようで、このテーマを深追いするのはやめようか、という話になっているらしい。まことに残念なことだが、よくあることでもある。私も経験した。彼女は至って真面目だから、プロジェクトの中止によって生じた「遅れ」を「取り戻そう」と一所懸命になっている。少なくとも、私にはそのように見える。そういう考え方は辛いだろうと思うのだが、性格だから変えようもないのだろう。私にも似たような面があるから、何となく理解はできる。

本人から聞いたわけではないが、恐らく彼女は、私が週末にも実験していることを気にしている。であるから (かどうかは知らないけれど)、平日はいつも私より遅くまで残っている。酷い言い方だが、しかし、そのようなやり方で得られる効率は高が知れている。短時間でも土日に実験する方が絶対に効率が良い。このことは「グループ・ワークの効率化」でも書いた。だからといって、研究員嬢に私のような生活を勧めているわけではない。むしろ逆である。そもそも——、私と比較することには何の意味もない。

私は私のやり方を推奨するつもりは全くないし、他人のやり方を批判するつもりもない (明らかに怠惰である場合は別だけど)。人はそれぞれ、求めるもの、そのために支払える代償が異なる。「土日の実験は効率が良い」といっても、それはただそれだけの話である。研究以外の事柄が大事な人にとっては、クソのような考え方だろう。

研究員嬢の働きぶりは、私ばかりではなく、ボスや助教の先生も心配しておられる。彼女が新婚だから、という理由も大きい。人の価値観は様々だが、自分が所持しているものの価値は、他人の方が正確に査定できることもある。一方で、隣の芝生は青く見える、という経験則もある。悩んでいるときに、他人の意見を聴くか、それとも自分の信念を貫き通すか。これは微妙な判断である。判別できるくらいなら、そもそも悩みはしない。

悩みというのは、可能性の幅でもある。その最中に気付くことは難しいが、悩めるだけの選択肢が目の前にある、ということなのだ。だから大抵の悩みは、後から「何であんなに悩んでいたのか」という形で思い出される。とまァ、ポジティブ過ぎるくらいで、ちょうど良いのではないか。

2007/05/16/Wed.

早寝早起きが続いている T です。こんばんは。

研究日記

大学 → 病院。

5月も半ばになってからで恐縮だが、今年度から助教授が「准教授」に、助手が「助教」へと、呼称が変わった。記録として書いておく。

Western で良い結果が出た。検出が難しくて、大学から 3種類の抗体を借りてきたのだが、その内の 1つが綺麗に反応した。ちなみにこの抗体は、大学ではうまく work しなかったらしい。今回のような事例は珍しくない。抗原の種によって最適な抗体のクローンは異なる。しかし、色々なクローンを試すには抗体の値段は高過ぎる。

今年度の抗体カタログを業者から頂いた。表紙には、掲載抗体 11万種類、とある。ヒトの遺伝子が約3万個だから、全てのタンパク質に対して抗体があるのか、といえばそうでもない。メジャーな抗原には複数のメーカーから複数の抗体が販売される一方、マイナーな抗原 (あるいは未知の抗原) に対する抗体は生産されない。だが、いずれ全ての遺伝子が解析されるはずであり、未知の遺伝子の中にも重要なものがまだまだ埋もれているはずである。抗体の種類は、さらに増えていくだろう。

抗原抗体反応に頼らず、特定のタンパク質を検出することはできるだろうか (もちろん、現在使われている系と同じくらいの簡便さと経済性で、という条件付き)。ちょっと無理だろうな。我々が抗体を手放すことになるとは考えにくい。免疫というシステムが凄いのは、いつ現れるかわからない未知の抗原にも対応できるようになっているからである。この系が、ゲノムという物理的に有限な空間上に構成されている。

また、個体が歩んできた免疫の歴史は、個体の中に記憶・記録される。既知の現象にも未知の現象にもある程度の対応ができるわけだ。その意味で、免疫系は中枢神経系と似ている。多様性 (diversity) という言葉は普通、生物種のそれに対して使われるが、個体レベルの多様性を実現するのが免疫系と神経系である。これらは後天的に変化する。遺伝情報が同一である一卵性双生児のそれぞれが「別人」であるのは、それ故といえよう。

2007/05/15/Tue.

学生の T です。こんばんは。

研究日記

大学 → 病院。

医者は医者同士、お互いのことを「先生」と呼び合う。学校の教師と同じである。

私が就職した当初、色んな人から「先生」と呼びかけられて面食らった記憶がある。その度に「いや、私は医者じゃなくて……」と説明していたが、どうも違うな、と思うようになった。

というのも、他ならぬボスからして、私のことを「先生」と呼ぶからである。こんなおかしな話はない。要するに、医者の世界において、「先生」という呼称は敬称でも何でもなく、単なる人称代名詞に過ぎないのである。相手が何者であろうと (肩書きや年齢、極端な話、名前を知らなくとも)、とりあえず「先生」と呼びかければ失礼はない。それが身体に染みついている。だから私のことも一括して「先生」、いや「センセイ」と呼ぶ。言い換えるのが面倒なのだろう。それが利便性に基づく習慣であることを理解してからは、私も一々訂正するのを止めた。

(それにしても、いかに癖とはいえ、ボスはメールでも私のことを「先生」と書く。会話ならともかく、文章にまで及ぶこの習慣は、ほとんど病気ではなかろうか。などと一般人の私は思ったりする)

慣れとは恐ろしいもので、今や「センセイ」と呼ばれることに全く違和感はなくなった。あまつさえ、私自身がついうっかり、研究員嬢に「先生」と呼びかけたりする始末である。医者でない私にとって、これは悪癖以外の何でもない。染まらぬようにせねば、と警戒している。

2007/05/14/Mon.

1年半も前の日記の続編というのはいかがなものかと反省している T です。こんばんは。

研究日記

大学 → 病院。

職場では午後から全体会議、動物実験の講習会、ラボのセミナー。

動物実験・実験動物に関しては、一昨年と昨年に「実験動物の倫理問題 (1)」および同「(2)」「動物実験講習会」と題して書いている。今読めば筆足らずな部分もあるが、私の考えは基本的に当時と変わっていない。実験動物に関する倫理は奇妙な問題である。この認識に変化はない。と同時に、私は 1人の実験者として、実験動物に感謝している (そしてこれは私のエゴイズムでもある)。また、社会人として規則は遵守する。

1つ付け加えるとすれば、実験動物に与えるストレスや苦痛が少ない系は、科学的にもリーズナブルであるだろうという、考えてみれば妥当な確信だ。優れた系を確立できれば、それは自ずと動物実験の指針で謳われている精神と合致する。したがって、研究者は余計なことを考える必要はない。

実験動物が犠牲であることに変わりはない。この事実はどんな欺瞞 (= ガイドラインや指針) でも覆せない。彼らの犠牲が「尊い」ものになるかどうかは、ひとえに研究者の力量にかかっている。だからこそ、科学的なこと以外は「余計」なのである。言い換えるなら、動物実験における倫理は、結果としての倫理なのだ。倫理そのものが目的なら、動物実験を全廃する以外にない。

まあ、倫理を語る試みは全て失敗するわけだが。

2007/05/13/Sun.

今日が母の日であったことをうっかりと忘れていた T です。こんばんは。

研究日記

大学 → 病院 → 大学。

大学では隔週で心筋細胞の培養をしており、培養の週は毎日、2つの施設を行ったり来たりすることになる。週末にはいい加減に疲れてくるが、病院は病院で細胞を培養しているので、土日もメンテナンスをしなければならぬ。隙を見て平日に休みを頂いているが、それも月に 2、3日。バリバリのビジネスマンよりは、まだマシか。不満はない。ただ、様々な事柄を犠牲にしているのは確かである。自分のことが犠牲になるのは構わないが、私の多忙に他人を巻き込んでしまうのは心が痛む。お前は身勝手だ、と断罪されても反論できない。その通りである。私は好き放題にやっている。誰にも理解されないだろう。

私が飯屋のババアの「毎週ご苦労様」という言葉に癒されるのは、彼女が私のことを何一つ理解していないからである。その上での好意だからだ。そのような形の好意を、果たして私は発揮できるだろうか。多分、無理である。私は理解しようとしてしまうだろう。また、相手に理解を求めてしまうだろう。それが悪いこととは思わぬが、そうではない形で成立するものもある、ということである。

何を今更、という気がしないでもない。ちょっとした五月病か。

2007/05/12/Sat.

培養室の冷房を ON にした T です。こんばんは。

機器が多い部屋は排熱で高温になりやすい。高温になると排熱がさらに増す。PC と同じであるが、規模が違う。特にインキュベーターやフリーザーなど、庫内の温度を一定に保つ機器が置かれている部屋では、この時期から常に冷房が ON の状態になる。もったいないなあ、という気もするが仕方がない。逆に、冬場は暖房要らずである。

研究日記

病院 → 大学。

大学〜自宅の道程は歩くことにしている。約20分。最近は朝晩が涼しくて気持ちが良い。休日の大学周辺は人気も少なく、構内をブラブラして考え事をすることも多い。こういう雰囲気は、やはり大学ならではのものである。職場でこのような時間を取るのは難しい。

土日も基本的には職場近くの飯屋で昼食を摂る。週末は閉まっている店が多いから、自ずと選択肢は限られるし、顔も覚えられる。その内の 1店では、「毎週ご苦労様ですねえ」と、頼んでもいないコーヒーを出してくれることがある。こそばゆい話だが、素直に嬉しい。私は別に天下国家のために働いているわけではない (税金で研究していることには常に感謝しているけれど)。私の仕事がこの店に役立つなんてことは恐らくないだろう。人情だなあ、と思う。

もっとも、テクニシャン嬢達に言わせれば、「店のババアに狙われているのではないのか」「単なる常連へのサービス」「餌付け」となるわけだが。まァ、例えそうであっても、私は喜んで餌付けされてやるけれど。餌を投げてくれる人なんて、そうそういないからね。ホイホイと付いていく。

2007/05/11/Fri.

以前から、新聞などで発表される統計には誤差や偏差の情報がないことに不満を持っている T です。こんばんは。

研究日記

内因性もしくは外因性の幹細胞を動員することによって、構造的に失われた、あるいは機能的に損なわれた細胞を補償し、疾患を治療しようというのが「再生療法」(regenerative therapy) である。動物実験では多数の報告があるが、再現性や効果に疑問符の付くものも多い。ヒトに対する臨床応用の例はほとんど絶無である。「再生療法」の定義にもよるが (これらの語については曖昧な点が多い)。

再生療法 - 内因性幹細胞の動員

戦略は大別して 2つある。1つは、何らかの薬剤ないし遺伝子 (あるいはその産物) を投与することによって、内因性の幹細胞を活性化し、自らが持つ再生能力によって回復を試みる方法である。戦略としては非常に素直だが、現在のところ、失われた器官がトカゲの尻尾のようにモリモリと生えてくるまでには至っていない。また、常識的に考えて、高等動物でそのようなことは起こらないと思われる (そのような「常識」が引っ繰り返されることで科学は進歩してきたので、「絶対にない」とまでは言わないが)。

しかし臓器レベルでは無理でも、例えば造血幹細胞を刺激して血球の生産を増やす、あるいは膵臓の細胞を増やしてインスリンの産生を高める、この程度なら充分に可能である。この場合、「再生」されるのは自らの細胞なので、危険な要素は少ない。しかしこれらの療法が「再生」かといわれれば微妙な気もする。単に細胞の分化・増殖を促しているだけではないのか。毛生え薬で毛が生えた、というのと本質的には変わりない。もちろん、再生がエラいわけでも何でもなく、治療として有効であるかどうかが重要なんだけど。私が議論しているのは「再生」という言葉の使い方であって、治療の有用性はまた別問題であることを、一応断っておく。

再生療法 - 移植

もう 1つの戦略は、生体外で幹細胞から組織ないし機能細胞を復元し、生体内に導入する方法である。つまりこれは「移植」だ。移植する組織の元となる幹細胞に ES 細胞を使うか成体幹細胞を使うかで議論が分かれるが、移植であることに変わりはない。これらの移植が再生医療であるのなら、骨髄移植もまたそうである。骨髄移植は、髄液中の造血幹細胞を導入することが目的であり、これは幹細胞移植に他ならない。その意味で、かなり以前から再生療法は現実に行われている、という言い方もできる。

骨髄移植のドナー問題でもわかる通り、移植と免疫は不可分の関係にある。したがって、ES 細胞を用いた再生医療では、必ずこの問題をクリアせねばならない (ES 細胞は自分の細胞ではないから)。それにしても、拒絶反応が惹起される「再生」って何だろう、という気がする。つまりそれは、「私の再生」ではないのだ。そんなヘンな「再生」があるだろうか。いや、あくまで言葉の問題だけど。

では最終的に、自らの幹細胞を使った再生医療が「真の再生医療」となるのだろうか。確かにこの場合は、「私の再生」である。新聞などでよく見かける「オーダーメイド医療」でもある。技術的な困難はあっても、それが正しい道ならば、選択肢は 1つしかないのか。

再生医療 - 経済的な観点から

医療に限らず、オーダーメイドというものを考えたとき、すぐに思い浮かぶデメリットは次の 2つである。

「遅い」は、ある種の医療において破滅的なデメリットだ。心臓が停止したというのに、「では患者から幹細胞を取り出して培養し、心臓を形成しましょう」では間に合わない。出来合いの心臓 (ES 細胞由来) をさっさと移植するべきだ、という話になる。

「出来合いの心臓」というのもスゴい言葉だが、ES 細胞による再生医療が究極的に目指しているのは、ここだろう。つまり臓器の作り置きであり、商品化だ。大量に作ればコストも下がる (オーダーメイドの「高い」という問題もクリアできる)。移植ができる病院であれば、再生工学的に作られた心臓が 1つや 2つストックされているのは当たり前、ということになる。まァ、妄想なんだが (しかし皮膚程度の組織であればほとんど商業化されている)。

もっと妄想を膨らまそう。ここまでを振り返ると、どうも ES 細胞の方が金になりそうだと思えてくる。ES 細胞の研究に莫大な投資がなされているのは、恐らくこの理由による。ペースメーカーが工場で作られ、病院に納品されては移植されるように、今度は ES 細胞から心臓が工業的に生産され、次々に移植されていく。皮肉なことに、「再生」医学が進んだ世界では、ちょっとでも具合の悪い臓器はズバズバと切除されて交換される。外科は大活躍だ。どこが「再生」なんだと笑えてくる (何度も繰り返すが、このような形の医療を否定しているわけではない)。

ちょっと我慢して自然の治癒力に期待しようとか、病気や怪我とともに生きていく、などという悠長なメンタリティはなくなるだろう。「クララが立った〜」という形の「再生」は、もうこの世界にはない。

肉体と精神の「再生」

文学的な話になるが、「再生」という言葉は元来、精神的な事柄に対して使われることが多かったと思われる。あるいは肉体的な再生であっても、それは必ず精神的な再生を伴っていた (クララ!)。主題が精神の再生であることは自明である。では、純粋な肉体のみの再生についてはどう考えられていたか。それは『フランケンシュタイン』を読めばよくわかる。ES 細胞の研究者が迫害されるというニュースが、一昔前には海外でチラホラとあった。フランケンシュタイン博士に対する偏見はまだ解けていない。

組織工学 (tissue engineering) などの分野で使われる「再生」という言葉に、我々が何となく違和感を覚えるのも、そこに精神というテーマが欠けているからだろう。科学的なタームであるから当然ではある。

余談だが、「おばあさん細胞仮説」というものがある。簡単に書けば、我々が「おばあさん」を認識できるのは、「おばあさん」に反応する神経細胞 (おばあさん細胞) があるからだ、という古い説である。現在ではほとんど否定されている。もしもこの仮説が真実だったらどうだろう。神経細胞の移植は、動物実験で効果を挙げている治療法であるが、ES 細胞から分化した神経細胞は彼らにどんな夢をもたらすのだろう。胎児の夢。『ドグラ・マグラ』みたいだな。

もちろんそんなことはない。ES 細胞だとか、遺伝子改変作物だとかには諸々の偏見がつきまとう。その偏見を私は否定はしない (正確な知識を持った上で、という条件付きだが)。素直な感情であると思う。「ES 細胞から作った心臓? イイねえ!」という方がよほどおかしい。医療が発達し、治療を受ける側が正しい知識を持ち、それでもなおかつ「私は自分の心臓で死にます」という人がいても良い。重要なのは選択肢を用意できるかどうかだろう。

2007/05/08/Tue.

台所の水道から土色の水が出てきて往生した T です。こんばんは。

GW は帰省していたという研究員嬢から、お土産に讃岐うどんを頂戴した。彼女の故郷は香川県ではなかったはずだが、どういうことだろう。昨夜、早速頂いた。料理をするのは 2006年 1月 24日以来である。うどんを茹でるのが料理かといわれれば微妙だが、とにかく自炊は 1年以上やっていない。

仮説とストーリー

仮説とは全て独自的先行である、と言ったのは誰だったか。

仮説にも色々とレベルがある。「こういう実験をすればこういう結果が出るだろう」という目先の予測も仮説であれば、「〜という現象の機序は……であろうから、——すれば XX になるだろう」というグランド・デザインも仮説である。

論文を書くときのことを考えてみよう。仮説としてのグランド・デザインが最初にあり、それを証明するべく証拠を集めるという演繹的なやり方がある。あるいは、様々な事実が集まった挙げ句、ある仮説が浮かび上がってくるという帰納的なやり方もある。現実には両者が混交することが多いと思うが、最終的には何らかのストーリーに帰結する。

この「ストーリー」というのが曲者である。事実が集積すればストーリーになるということを、いったい何が担保しているのか。人間がその思考様式において「理解」するための方便とも思える。その意味で、全ての理解は誤解である。でも、もしそうなら、客観的な事実というものを (それがあったとして) 誤解としてしか理解できないのだから、誤解が誤解であるということもまた理解できないわけなのだが。

認識や意識というものは非常に茫洋としている。このことについては、また書いてみたい。

研究日記

月末に締め切りが迫った学会の抄録について、ボスとディスカッション。ディスカッションは大抵ボスの部屋で行われる。8畳ほどの広さだが、非常に散らかっているので、文字通り座る場所もない。ディスカッションのとき、私はいつも立ちっぱなしである。いささか疲れる。

しかし驚くべきことに、プレジデントの部屋は更に乱雑である。入口からデスクまで、獣道のように床が露出している以外は、ありとあらゆる空間に書類が山積みされ、さながら古紙再生工場のようである。この事実はあまり知られていない。プレジデントがまた穏和な紳士であるため、彼の部屋を覗いた者は、その人柄とのギャップにも驚愕を覚える。

私のデスクもかなり乱雑である。明日、覚えていたら携帯電話のカメラで写真を撮ってみようか。

2007/05/06/Sun.

明日からの実験計画を考えている T です。こんばんは。

月末に学会の締め切りがあるのだが、それまでに少しは結果が出るようにしたい。

母なる言葉に包まれて

「潔しとしない」という日本語が死語になって久しい、と先日の日記に書いた。死語になった日本語は色々とあるが、私の中で使用頻度が高いにも関わらず、世間では聞かれなくなった単語というものがある。つまり自分にとっては「生きている」が、巷間では「死んでいる」。そのギャップは、自分と世間のズレでもある。私にとって、その二大巨頭は「洒落臭い」と「小賢しい」である。

これらの言葉がほとんど使われないということはつまり、私が「洒落臭い」「小賢しい」と感じている事物に対して、世間の人はそう思っていない、ということである。私にとっての「洒落臭い」「小賢しい」が、一般的には「ステキ」「カワイイ」「スゴい」なのであって、何だか脱力することが多い。

それはまァ、感覚の違いであるから否定はしない。ただ、ある感情を表す言葉を死語とすることには違和感がある。

言葉と、それが指し示す対象の関係を考えよう。対象が先にあって、それに対して名前 (= 言葉) をラベルする、という考え方は直感的に理解できる。でも、言葉の効用って、それだけじゃないんだよね。何を意味しているのかわからないんだけど、あるいは実感したことはないんだけど、とにかくある言葉が既に存在する。そして、いつか自分が名状し難い感情に襲われたとき、「ああ、これが XX ということなのか」と悟る。人はそうやって言語を経験していく。幼児が言葉を習得する過程を想像すれば良い。

自分がいずれ経験するであろう事柄が、既に言葉として用意されている。私は明日、また素晴らしい言葉に出会うかもしれない。我々の人生は母語、まさに母なる語に包まれている。使わないからいらない、なんてことは絶対にない。自然消滅することはあっても、積極的に「死語」にしようという運動は理解できない。

2007/05/05/Sat.

何もしない内に GW 後半を終えてしまいそうな T です。こんばんは。

Web 日記

CSS の編集は一段落 (飽きた)。タイトルとか日記のカレンダーとか、質感がイマイチな部分がまだ幾つか残っている。タイトルの文字は text-shadow が効くブラウザで見ると良い感じなんだけど、対応しているのは Safari だけ。画像を使えば簡単なんだが、 CSS の指定だけでどこまでできるか、という縛りでやっている。画像を使えばロードが遅くなるという単純かつ重要な理由もある。ブロードバンドが一般的になって、最近ではページの軽重はそれほど問われなくなった。しかし、たまにプレーンな HTML だけで記述されたページに遭遇すると、その軽さに驚いたりする。何だかんだいって、オシャレなページはある程度重い。

重くならない範囲で、もうちょっと (機能面で) アプリケーションっぽくしてみたい。言い訳のように何度も何度も書いているが、この場所でやってみたいことは、まだまだ残っている。

2年前に「Web サイトをデスクトップとして使えないか」と書いてから、ほとんど何も進展していない。アプリケーションっぽい機能は幾つか組み込んだが、まだまだ不充分である。というか、2年前にこんなことを考えていたんだな。などと遠い目。もちろんこの間に試行錯誤もあり、洗練もあったと思う。しかしまだ道半ば。

無人称

笠井潔の作品に、飛鳥井という私立探偵が活躍するシリーズがある。矢吹シリーズや天啓シリーズに比べると大したことはない (それでも普通以上に面白い) が、「無人称」という文体の実験が行われていて面白い。描写の視点は飛鳥井なのだが、「私が」などの一人称は出てこないし、かといって彼のことを「飛鳥井が」と説明する文章もない。それでも読むのに違和感がない。この小説が無人称であることに気付かないまま読み終える人も多いのではないか。そのくらい文章が練ってある。無人称小説なんて、日本語でしか書けないだろうな。

とはいっても、無人称の記述というのは結構ある。例えば日記。自分だけが読むような日記は、意識せずとも無人称になりやすい。しかしこれも英語では無理だろうな。論文は英語でも無人称だ。主語は省けないので、it を主語にするか、受動態にすることで無人称を実現する。We とか our が出てくることもあるが、書き換え可能である。

大丈夫。ファミ痛の攻略本だよ。

「数学の文章はテンションが高い」と先日書いたが、もう 1つ大事なものを忘れていた。ゲームの攻略本である。特にファミ通の攻略本は、クオリティは最低だがテンションは最高だ。攻略本は手元にないので、サイトの記事から引用する。

プレイステーション・ポータブル用ソフト『モンスターハンターポータブル 2nd』に登場する新モンスター、ティガレックスに関する最新情報を入手。ハンターたちを絶望の淵に追いやる圧倒的な戦闘力に迫るぞ!

どれだけ難しくても、たかがゲームで「絶望の淵」に追いやられることはない。そもそもゲーム雑誌の情報って、「最新」でも何でもないんだよね。人気タイトルなら 1週間もすれば充実したまとめサイトが出てくるわけで、エンターブレインの完全攻略本ならまだしも、ファミ通の最速攻略本はほとんど存在価値がない。しかも中身は間違いだらけ。それでいてコピーが、

大丈夫。ファミ通の攻略本だよ。

というから笑える。全然大丈夫じゃねえよ。一部で「ファミ痛」という蔑称が定着するわけだ。

おまけ

というわけで、今日の日記は最初の 1行を除き、無人称で書いてみた。

2007/05/04/Fri.

郵便局の ATM が今日から 3日間、全て停止になっていることに激怒した T です。こんばんは。

やっぱり小泉前総理は正しいよ。休日に金を引き出せない金融機関て。アホか。

掃除と洗濯。座るか寝るかしかしていなのに、1週間後には必ずホコリが溜まっている。彼らはどこから来るのか。行き先は掃除機の中だけど。

Web 日記

リニューアルはまだまだ継続中。実現したいプログラムはいっぱいあるんだけど、とりあえず外見の変更に逃避する。リンクの色を選ぶのに数時間も使ってしまった。どの色が良いのかわからん。最後には疲れて、半ば投げ捨てるような形で諦めた。見慣れたら何とも思わなくなるだろう。

Mac と Win では、数値的に全く同じ色でも、ディスプレイに現れてくると色味が微妙に違ってくる。これは知識として以前から知っていた。しかし実感したのは初めてだ。同じページ (画像でも何でも良いが) を表示させて並べてみるとよくわかる。微妙なんてものではなく、かなりはっきりと異なる。Web セーフカラーとかいう以前に、根本的な部分でアウトなんじゃないか?

最近は柔らかいデザインのサイトが多い。パステル調の色を使っては、まるで親の仇のようにボックスの角を丸める。このサイトは世間に迎合するのを潔しとしないので、ちょっと古臭い感じにしてみた。どうでも良いが、「潔しとしない」という日本語が死語になって久しい。こういう言葉がなくなっていく社会ってどうなんだろう。

このサイトは相変わらず文字が多く、1つのエントリーも長い。テーマを絞った短い文章を、余白たっぷりのレイアウトに流し込まないと誰も読まないよ。そんなことが至る所で言われている。確かにそういうページは取っ付きやすい。でもだから何? というのが私の本音である。目的としているところが違うから、別に否定も肯定もしないが、そこに流れがあれば逆らうのが我が生き方である。

2007/05/03/Thu.

今日は MHP2 を頑張った T です。こんばんは。

Web 日記

サイトの見た目を変えてみた。まだ何か野暮ったい。もうちょっとソリッドにしたいが、どうすれば良いのか。カラーリングのセンスがないんだよなあ。

最初はオンラインで編集していたが、長引きそうだからローカルで編集することにする。

2007/05/02/Wed.

新しいアニメ版「ドラえもん」のファッションはいかがなものかと思う T です。こんばんは。

静ちゃんがキャミソールとか、媚を売り過ぎだろ。アホか。

少しく文体を変えてみる

どうも最近の日記は説教臭いというか湿っぽいというか、とにかく爺臭くていけない。こういうときは文体を変えるのが良い。その時の気分が文章に反映されることは誰もが知っている。反対に、意識して文体を作ると、なぜか気分の方が文章に釣られて上下するから不思議なものだ。これは私だけだろうか。

素数からなる集合を考えよう。という数学の文体が好きだ。「考えよう」って言われても。誰だよ、オマエ。この集合を P としよう。なんてな。ノリノリである。何でこんなにテンションが高いのか。

ジャイアニズムの考察

ジャイアニズム (Gianizm; 剛田主義) を考えよう。ジャイアニズムは次の 2つの命題から構成される。

お前の物は俺の物

俺の物も俺の物

これらの命題から、ある結論が推測できる。

お前は俺である

あるいは、このような推測もできる。

お前は俺の物である

つまり、「お前の物」を「俺の物 (であるところのお前) の物」と読み替えることによってジャイアニズム系の整合性が保たれる。

「お前は俺である」「お前は俺の物である」。これらの言説によって表現されるジャイアニズムは、決して独占を意味しない。これは愛だ。

あなたは私であり、私はあなたである。

(「新約聖書」)

とても官能的だな。

研究日記

GW 前で実験は特になし。冷凍庫の霜取りなんかをしつつ、論文を読んだり。

ネットの情報を参考に、職場の Win マシンの高速化を試みた。といっても、フォントを削ったり、外見をクラシックにしたくらいだけど。これだけで体感速度が笑ってしまうくらいに速くなる。どんだけインターフェースにリソースを使ってるんだ > XP。Mac のアピアランスは Win 以上に凝っているが、少なくともそれが原因で遅くなるということはない。最近の Mac は Win と同じ Intel のチップを使っているから、これは純粋に OS 設計の差だといえる。ごく早い時期から美麗なインターフェイスに取り組んできた Mac の完勝である。

自宅の Win を Vista にしてやろうかと思ったりもするが、Aero なるテーマが果たして実用的な速度で動くのかという懸念がある。自宅の Win 機は私物であるがほとんど仕事用なので、遊びで OS を入れ替えるには敷居が高い。今秋には新しい Mac OS が出る予定なので、OS で遊ぶならそれまで待つ方が良さそうだ。

終業後、研究員嬢、テクニシャン嬢 2人とともに、先月も訪れた居酒屋へ。今日の魚介はメバル、ホタテ、タコ、サケなど。充分に堪能する。野菜が添えられた魚の煮付けなどが出てくると涙が出そうになる。荒廃した我が食生活よ、嗚呼!

2007/05/01/Tue.

今日は仕事関係のメールを書きまくった T です。こんばんは。

Web 日記

BBS でもお知らせしたが、リニューアル作業中のある期間 (その正確な範囲は不明)、新しいスレッドが正常に立てられないようになっていた。スレッドを立てようとしてくれた方々、大変申し訳ない。一応復旧したので、どうぞ懲りずに、スレ立てなりコメントなりをお願い致します。

新しいプログラムを作るときは、もちろん動作チェックをしてから公開するわけだが、自分一人では気付けないことがどうしても出てくる。特に BBS のような、他者からの入力を処理するプログラムでは、コードを書くときには想定しなかった事態に直面することも多い。スパムまであるし……。

これまでのプログラムも、何万回というアクセスの過程で最適化されてきた。私が最初から上手くプログラムを組めたら何の問題もないのだが……。プログラムを実際に金銭と交換しているプログラマーを尊敬してしまう。

研究日記

大学 → 病院。

大学で博士論文の審査を聴講。私も 4年後には審査をパスせねばならぬ。4年……、短いのか長いのか。そのときには 30歳になっている。それまで今の生活が続くのかと思うと、いささか複雑である。

病院では、懸案になっていた荷物の大移動。連休の合間で細胞も培養していないし、実験できることにも限りがある。こういう雑用を皆でこなす日があっても良いだろう。培養庫の掃除やサンプルの整理など、色々と片付いた。