未来を前提に行動できるかどうかが、人間と他の動物の分かれ目ではないかと思う T です。こんばんは。
溜まっていた書評を書き終え、ようやく机上がスッキリとした。読破した本は、書評を書くまで机に置いておくことにしているのだ。溜まると邪魔になるので、最終的には書評を書くことによって片付ける。今のところ、このサイクルは順調に回っている。その内、書評することが完全に習慣化されるだろう (と期待している)。
それに何の意味があるのか? わからない。しかしそれは、何らかの意味がある可能性が 0 ではない、ということでもある。意味がないのならやってない。
今回のリニューアルの一環で、Paper Review というのを始めようかと思っている。要するに、仕事や勉強のために読んだ論文を紹介するわけだ。今だって当然、読んだ論文の重要な部分には線を引っ張るし、ノートに抜き書きもする。それをネット上で実行して公開しようかという試みである。書評にしても、Book Review を始める前から読書記録を付けていたのだから、条件は全く同じだ。やれないことはなかろう。
それに何の意味があるのか? そういうことはやってから考えれば良い。
新しいピペットマンの見積を取った。
何だかんだといってピペットマンといえば Gilson社製にトドメを刺す (そもそも「ピペットマン」という名称は登録商標である)。実験や解析の系がキット化され、測定は機械が自動的にしてくれるようになっても、否、そうなったからこそ、実験の精度はピペットマンの扱いに大きく左右される。吸い取る試薬の量や粘度によって、臨機応変かつ繊細なピペッティングが要求される。実験者は皆、道具とその扱いにこだわりがある。とても人間臭いことである。もちろん褒め言葉だ。
「研究をやっている」というと、静かな部屋に閉じこもり、終日難しい顔で考え事ばかりしているんじゃないか、と想像する人がいる。決してそうではない。研究とは、非常に人間臭い行為だ。そういう風景を、この日記でもしばしば紹介している。こんなマイナーな話を誰が……、と自分で思うこともあるが、案外そういう話が大切なんだよなあ、とも思う。
「重要でないことは書き残されない」。これは歴史の鉄則である。平安遷都はどんな歴史書にも書かれてあるが、では当時の人がどのように排便していたのかは判然としない。そんなことは誰も書き残してはくれない。
時の流れは様々なものを研磨する。貴方の日常の記録も、遠い未来にきっと輝くことだろう。