- 潜血

2007/04/20/Fri.潜血

日本について楽観したり悲観したりするのは、日本を愛しているからだと思っている T です。こんばんは。

研究日記

大学 → 病院。

大学で健康診断を受けたら尿検査で引っかかった。「センケツが出ていますね」。何かと思って診断票を見たら「潜血」とあるが、私にはよくわからない。「血」という字があるから、要するに血尿なのだろう。ついでにタンパク質も出ていた。半年前に職場の尿検査でも引っかかったが、あれは確か糖だった。チンポからは色んなものが出るのだなあ。何となく、東洋の古い解剖図が頭に浮かんだ。五臓六腑。尿は後日再検査。面倒臭い。

健康診断があるからと、昨夜の飲み会ではビール 1杯とジュースのようなチューハイを 2杯しか飲まなかったというのに。こんな結果になるのだったら、もっと飲んでおけばよかった。

とはいっても、私はそれほど酒に強くない。今では平均以下なんじゃないか。最近はすぐに疲れるし、眠たくなる。飲み会に行っても、野菜、特に生野菜を食べる貴重な機会という意識が強く、一心不乱にサラダを貪っている (それもどうなんだ)。問診で腎機能における飲酒が何たらという説教を喰らったが、恐らくそれはない。というか、腎臓が悪いと決まったわけではないし。とにかく大袈裟である。

論理と倫理

そうやってビビらせるから、病院が老人で溢れることになる。ビビらせて金を巻き上げる点では、高齢者医療と霊感商法に大差はない。我々の世代が思っているほど、彼ら老人にとってサイエンスとオカルトは分明ではない。これは世代の問題、社会の問題であるから、私は否定しない。インフォームド・コンセントという洒落臭いカタカナの意味は、何も症状や治療法を科学的正確さをもって説明することではあるまい。どうせ理解できないだろう、という傲慢な思い込みで、これまで患者は充分な説明を受けてこなかったかもしれない。だからといって、検査値を事細かに開示しても、患者が理解できなければ事態は同じである。時間がかかるだけ無駄だ。形式を取り繕えばそれで良し、という意識からそろそろ卒業しないか? 最近、痛切にこのことを思う。

しかしジジイやババアも、数十年も生きたら身体が悪いのは当たり前なんだから一々ビビるなよ。緩和できても完治せず。それが貴方達の身体だ。これは自然の摂理でもある。私は何も、若者の立場から老人を罵倒しているわけではない。むしろこれは逆説的なのだが、老いたときには保険や年金が破綻していることが確実な我々の世代の方が、生老病死についてよく考えているのではないか (目を背ける、逃避するなど、行動の結果は違うけれど、少なくとも「見えている」)。最近の刹那的な風潮は、全て短慮の結果だろうか。それとも思慮の結果?

将来の我々は恐らく、現在の老人がしているように、病院に寄り集まっては検査値の悪さを自慢し合うような生活は送れない。それを嘆じているわけではない。幼少期を戦争の業火で包まれた世代は、日本が一番幸せなときに死んでいった。日本の絶頂期に生まれた我々の世代は、日本の「終わりの始まり」の時期に社会へと放り出された。歴史とはそんなものである。などと他人事のように思ったりもする。

人口が増えると人間を間引くために戦争が勃発する (あるいは自然発生する)。そういう、冗談のような説がある。若者が路上の老人を殺す事件、これは局所的な戦争だ。昔の老人は捨てられるために息子の背中に自ら負われた。今の老人は背負われることを拒否する。ならば叩き殺すしかない。もちろんこれも冗談である。しかし、ロジカルには危うい。実際、幾つかの文学的な試みはある (例えば筒井康隆『銀齢の果て』)。

言うまでもないことだが、「論理」で語れないから「倫理」なのである。言偏と人偏の違い。言葉で語れるのなら、それは論理である。したがって、倫理を語る試みは全て失敗する。道徳が声高に叫ばれている現状には、いささか疑問を覚える。