学ぶべきことが多過ぎる T です。こんばんは。
リニューアル継続中。結局 GW の前半は、ほとんど外出しなかった。パソコンの前に座っているか、さもなくば寝ているかで、無駄に時間を遣った。「退屈だなあ」と思ったのは随分と久し振りのことである。たまには悪くない。
以下は個人的なイメージである。
プログラミングというのは独習のイメージが強い。大学のしかるべき学科に行けば体系的に学べるのだろうが、「何か違う」と感じてしまう。私がプログラマーという職業にある種の憧憬を抱いているからかもしれない。幼少期にファミコンの洗礼を浴びた世代の男子にとって、プログラマーとは畏敬すべき存在であった。少なくともこの時代、学校でプログラムを学んだプログラマーなんていなかったと思う。
ギターも独習のイメージが強い。エレキは特にそうだ。ギター教室というのもないではないが、あれもやはり「ちょっと違う」。これがヴァイオリンとなると、独習は無茶だろ、となる。あくまでイメージだが。
漫画、これも完全に独習である。教室とかあるんだろうか。人に教えるくらいの画力があれば、自分で漫画を描いた方が儲かるから、そういうことはしないのか。ヴァイオリン同様、これが油絵となると、しかるべき先生にレッスンしてほしくなる (私がなかなか油絵に踏み出せないでいるのは、この欲求による)。
一昔前まで、小説の修業もほとんど独習のイメージであった。しかし最近では、小説学校出身の作家も多い。松下政経塾がもてはやされるようになったのは、いつ頃からだったか。政治家も塾の出身を誇るようになった。そういう輩が、「学校教育を建て直し、塾を撤廃する」などとホザいている。ギャグであるのなら、なかなかのセンスだ。
独習には限界がある。私が再び大学院へと入った理由の一つも、多くの人間と情報に接したかったからに他ならない。しかし、優れた師に教え導かれさえすれば問題ない、と信じられるほど純粋ではない。先生にも当たりハズレがある。そんなことは誰でも知っている。そのとき、自分は何を師として独習するのか。
独習の方法は誰も教えてくれない。そこが一番難しいところだな。
堪え性のない T です。こんばんは。
リニューアル継続中。見た目はあまり変わっていないが、ファイル構成やプログラムなど、内部をかなり変更している。一群のページをごっそり移動したり削除したりもした。これはサイトをスッキリさせるためであって、別にコンテンツそのものが減っているわけではない。
文章でも仕事でも何でもそうだが、見た目のボリュームや作業工程を増やすのは簡単なことである。だが重要なのは、作り上げたものを洗練した状態で展開することだろう。これは難しい。洗練させるためには、まずカオスな地点を通過しなければならない、という逆説的な宿命もある。そうして物事は、肥大化とスリム化を繰り返して進化する。
肥大化は悪いことではない。あれもこれもとしている内に、経験や資産 (例えばプログラムならライブラリとか) が溜まっていく。それをスリム化するわけで、これは一種の圧縮ともいえる。肥大化の途中で蓄積された諸々の資産を取捨選択し、より良いものを目指す。単なる減量ではない。単に削除するだけなら、肥大化してまでやろうとしたのは何だったのかという話になる。それではあまりにも空しい。
お金があれば使いたくなるのと一緒で、自分ができるものは何でも盛り込みたくなる。そこを辛抱するのが大人というものです。
以前から論理学や数学のページを作りたいと考えている T です。こんばんは。
デフォルメされた電車の路線図を眺めながら、ああ、要するにこれはトポロジーなんだな、ということに気付く。それだけである。オチはない。こういう発見が 1日を幸せなものにするが、その喜びを誰かと共有するのは非常に困難だ。せいぜい日記で垂れ流すくらいである。
構造と機能ということをよく考える。英語では structure と function であるが、function はまた「関数」の意味も持つ。Ligand に対して、タンパク質が立体構造依存的に function する。これは機能しているわけでもあり、ligand という変数に対する関数として振る舞っているわけでもある。構造と機能が不可分的に美を発揮するとき、それは機能美と呼ばれる。
構造というものは何段階にも積み上げることができる。例えばタンパク質は、位相幾何学的には 1本のポリペプチドでしかない。これを 1次構造という。しかし 1次構造には機能が宿らない。構造が複雑に発達するいずれかの段階で、機能というものが幻のように現れてくる。したがって、機能を有するものはある程度複雑である。
冷静に考えてみると、その現象が何らかの機能であるかどうかの判定は、極めて主観的な問題である。要素還元的な学問である物理学において、果たして「機能」というタームは存在するのだろうか。
その現象が何らかの機能である、というのは、その現象が何らかの意味を持つ、ということに等しい。この認定はとても恣意的なものだ。ある現象を機能として認めるということはつまり、我々はその現象の「文脈」を読んでいることに他ならない。文脈、背景、行間、空気、前提、暗黙の諒解……、我々はこれらをどのようにして察知するのか。以前に「設定考」として書いたこともあるが、これは非常な難問である。
機能として機能することが意味を意味する。私は私の死を死ぬ、ってのに似てるなあ。
上段と全く関係ないが、「我思う、ゆえに我在り」という演繹は論理学的に正しいのだろうか。この命題 P の逆、裏、対偶を取ってみよう。
P 「我思う ⇒ 我在り」 (この命題を真と仮定する)
逆 「我在り ⇒ 我思う」 (必ずしも真ではない)
裏 「我思わず ⇒ 我在らず」(必ずしも真ではない)
対偶「我在らず ⇒ 我思わず」(真)
さて、P の対偶命題において「我」がいないことを誰が判定するのか? 他者か? しかしデカルトの懐疑論において、「思う我」以外の対象は全て懐疑の対象である。外界の認知は全て信じることができないから、「思う我」の「存在」をデカルトは第一原理 (コギト命題) とした。したがって「我在らず」という命題自体がナンセンスであるともいえる。デカルトの命題空間が「我」というものから出発している以上、「我」がないのであれば他のいかなる命題も発生しない。どちらかといえば、命題 P はトートロジーの類である。
まァ、「我」のような自己言及の語を命題の中で使うこと自体が (現在の記号論理学の水準では) 禁じられているわけだが。もちろん、ここに書いたことは遊びである。
仕事を始めてから感謝することが多くなった T です。こんばんは。
GW 前ということもあり、早めに実験を終える。研究員嬢、テクニシャン嬢 2人、隣のテクニシャン嬢、隣の栄養士嬢とともに、連休前の恒例行事となっている晩餐会。隣の栄養士嬢は、この 4月から新しく採用された人である。気さくな印象の、好感が持てる人だった。
ちなみに研究員嬢が 1歳下 (人妻)、隣のテクニシャン嬢も 1つ下、隣の栄養士嬢が 2つ下、テクニシャン K嬢が 3つ下、テクニシャン S嬢が 4つ下である。女子大というのはこういう雰囲気なのであろうか、なんてことをいつも思う。私は長老扱いなので、「うー」とか「あー」とか言うだけで注文が通るから非常に楽である。そんな扱いで私が喜ぶと思ったら大正解だ。いつも彼女達には感謝している。
大学に行けば、一転して周囲は医者ばかりである。勝手のわからぬ研究室で私はマゴマゴすることも多いのだが、皆さん本当によくして下さる。大変ありがたい。
たくさんの人達に囲まれて仕事をしているが、それでもフト孤独を感じることもある。「研究で身を立てて行くのだ」という、私と同じ目標を持つ人がいない。やっぱり特殊なんだなあ、と思う。理解してくれる人が身近にいることの方が珍しいのかもしれない。
GW は色んなことをゆっくり考えてみようと思う。
早寝早起きが続いている T です。こんばんは。
大学 → 病院。
大学で教授と面談。今後の簡単な方針などを少しだけ。基本的に現在の状況は変わらず、大半は病院で仕事をして、ちょくちょく大学で実験をさせて頂く予定。この関係がそれぞれに利益を生まなければ何の意味もない。さらなる努力が私には要求されるだろう。一番利益を得ているのが私なのだから。
「焼肉の王子様」「テニスの王子様」が毎週楽しみな T です。こんばんは。
先週から早寝早起きの健康的な生活が続いている。寒いのはダメだが、暑いのは全く苦にならないので、これからは私にとって良い季節だ。
電車の中吊り広告を眺めながら、GW はどうしようかなあ、などと考える。見に行きたい美術展が 1つあるのだが、どうせ混んでいるのだろうなあ。
蜷川親当 (にながわちかまさ)、号は智蘊 (ちうん) という連歌師が室町時代にいて、この人がアニメ「一休さん」にも登場する新右衛門さんなのだが、彼の墓が近くにあると知ったのは随分以前のことである。行ってみようかなあ。
未来を前提に行動できるかどうかが、人間と他の動物の分かれ目ではないかと思う T です。こんばんは。
溜まっていた書評を書き終え、ようやく机上がスッキリとした。読破した本は、書評を書くまで机に置いておくことにしているのだ。溜まると邪魔になるので、最終的には書評を書くことによって片付ける。今のところ、このサイクルは順調に回っている。その内、書評することが完全に習慣化されるだろう (と期待している)。
それに何の意味があるのか? わからない。しかしそれは、何らかの意味がある可能性が 0 ではない、ということでもある。意味がないのならやってない。
今回のリニューアルの一環で、Paper Review というのを始めようかと思っている。要するに、仕事や勉強のために読んだ論文を紹介するわけだ。今だって当然、読んだ論文の重要な部分には線を引っ張るし、ノートに抜き書きもする。それをネット上で実行して公開しようかという試みである。書評にしても、Book Review を始める前から読書記録を付けていたのだから、条件は全く同じだ。やれないことはなかろう。
それに何の意味があるのか? そういうことはやってから考えれば良い。
新しいピペットマンの見積を取った。
何だかんだといってピペットマンといえば Gilson社製にトドメを刺す (そもそも「ピペットマン」という名称は登録商標である)。実験や解析の系がキット化され、測定は機械が自動的にしてくれるようになっても、否、そうなったからこそ、実験の精度はピペットマンの扱いに大きく左右される。吸い取る試薬の量や粘度によって、臨機応変かつ繊細なピペッティングが要求される。実験者は皆、道具とその扱いにこだわりがある。とても人間臭いことである。もちろん褒め言葉だ。
「研究をやっている」というと、静かな部屋に閉じこもり、終日難しい顔で考え事ばかりしているんじゃないか、と想像する人がいる。決してそうではない。研究とは、非常に人間臭い行為だ。そういう風景を、この日記でもしばしば紹介している。こんなマイナーな話を誰が……、と自分で思うこともあるが、案外そういう話が大切なんだよなあ、とも思う。
「重要でないことは書き残されない」。これは歴史の鉄則である。平安遷都はどんな歴史書にも書かれてあるが、では当時の人がどのように排便していたのかは判然としない。そんなことは誰も書き残してはくれない。
時の流れは様々なものを研磨する。貴方の日常の記録も、遠い未来にきっと輝くことだろう。
昼寝を楽しんだ T です。こんばんは。
休日は家事の日である。
掃除と洗濯をしてから、シャツとズボンをクリーニングに出す。暑くなってきたらクリーニング代が嵩む。営業などの仕事をしている人はもっと大変なんだろうなあ。私の職業なんて、こと服装に限ればヤクザも良い所だ。
研究自体は T シャツとジーンズでも一向に構わない。だが、急に会議などの雑用を命じられたりすることもあるので、ラフな服装で出勤すると少々不安でもある。なので、職場にはネクタイを一本置いており、とりあえずこれを締めれば何とか格好が付くような出で立ちを保つことにしている。何を着て行くかで悩むことはないから、その意味では楽だが。
数日前にシャツを買いに行ったとき、店頭にパステルカラーのシャツが何色も並べてあって、つまらぬことを考えた。月曜は白、火曜は赤、水曜は青、木曜は緑、金曜は黄、土曜は茶……というふうに、毎週同じ曜日に同じ色のシャツを着て行ったら、果たして何週目でツッコミが入るだろうか。テクニシャン嬢達からはよく服装チェックが入るが、あくまで個別的なものであり、シャツの色の周期性にまで気付かれるだろうか。
気付かれてしまったときの何とも微妙な空気を想像したら笑えてくる。試してみようかな。
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旧 RSS はこれ以後更新されません。御利用の方はお手数ですが登録の変更等よろしくお願い致します。
例えば生物機械論、要するに生物は精巧な化学的機械であるという考え方、これをどう思うか。
「機械が人間と同じようになるわけではないか」。これは非常に想像力が貧困な感想である。現在の技術レベルでしか物事が考えられていない。進歩や夢がない、つまらない、頭の堅い、発想ともいえないボウフラのごとき考えである。
「機械も人間と同じようになれる可能性があるわけか」。これはエンジニア的発想である。技術は進歩すること。原理的に可能なことは、技術の進展によって現実にも可能になり得ること。それが夢を実現するということでもある。そして自分もそれに参加できるということ。これが「技術を手にする」ということだ。「資格」はその証というだけに過ぎない。
「資格を取らなきゃ」と口癖のように言っている輩は、一度最初から考え直した方が良い。
久し振りに Deep Purple を聴いている T です。こんばんは。
ようやく BBS でスレッドを立てられるようになった。もちろんコメントの追加もできる。気軽に御利用を。
RSS の配信はまだできていないが、近い内に実装する予定。その他の機能としては、
などなどを考えている。いつになるかわからんが。
大学のフォーラムに参加。学問的な色合いよりも、交流的な意味合いが強い内容だった。「〜科を目指す若手医師のキャリアパス」とか言われても、私には何の関係もない。しかしまァ、無関係なだけに他人事としての興味はある。
演者 2人の講演は大変面白く、これは聴講した甲斐があった。講演後、大学院生によるポスター発表。1年生で発表しているのはもちろん私だけ。新入生はまだ研究グループの配属すら決まっていない時期なのに、てんこ盛りのデータを発表している私はどう考えてもおかしい。事情を説明するのがまた面倒である。
GW 前なのでもう細胞培養はしていない。なので明日は休み。来週はサンプルを解析し、連休はゆっくりする予定。
日本について楽観したり悲観したりするのは、日本を愛しているからだと思っている T です。こんばんは。
大学 → 病院。
大学で健康診断を受けたら尿検査で引っかかった。「センケツが出ていますね」。何かと思って診断票を見たら「潜血」とあるが、私にはよくわからない。「血」という字があるから、要するに血尿なのだろう。ついでにタンパク質も出ていた。半年前に職場の尿検査でも引っかかったが、あれは確か糖だった。チンポからは色んなものが出るのだなあ。何となく、東洋の古い解剖図が頭に浮かんだ。五臓六腑。尿は後日再検査。面倒臭い。
健康診断があるからと、昨夜の飲み会ではビール 1杯とジュースのようなチューハイを 2杯しか飲まなかったというのに。こんな結果になるのだったら、もっと飲んでおけばよかった。
とはいっても、私はそれほど酒に強くない。今では平均以下なんじゃないか。最近はすぐに疲れるし、眠たくなる。飲み会に行っても、野菜、特に生野菜を食べる貴重な機会という意識が強く、一心不乱にサラダを貪っている (それもどうなんだ)。問診で腎機能における飲酒が何たらという説教を喰らったが、恐らくそれはない。というか、腎臓が悪いと決まったわけではないし。とにかく大袈裟である。
そうやってビビらせるから、病院が老人で溢れることになる。ビビらせて金を巻き上げる点では、高齢者医療と霊感商法に大差はない。我々の世代が思っているほど、彼ら老人にとってサイエンスとオカルトは分明ではない。これは世代の問題、社会の問題であるから、私は否定しない。インフォームド・コンセントという洒落臭いカタカナの意味は、何も症状や治療法を科学的正確さをもって説明することではあるまい。どうせ理解できないだろう、という傲慢な思い込みで、これまで患者は充分な説明を受けてこなかったかもしれない。だからといって、検査値を事細かに開示しても、患者が理解できなければ事態は同じである。時間がかかるだけ無駄だ。形式を取り繕えばそれで良し、という意識からそろそろ卒業しないか? 最近、痛切にこのことを思う。
しかしジジイやババアも、数十年も生きたら身体が悪いのは当たり前なんだから一々ビビるなよ。緩和できても完治せず。それが貴方達の身体だ。これは自然の摂理でもある。私は何も、若者の立場から老人を罵倒しているわけではない。むしろこれは逆説的なのだが、老いたときには保険や年金が破綻していることが確実な我々の世代の方が、生老病死についてよく考えているのではないか (目を背ける、逃避するなど、行動の結果は違うけれど、少なくとも「見えている」)。最近の刹那的な風潮は、全て短慮の結果だろうか。それとも思慮の結果?
将来の我々は恐らく、現在の老人がしているように、病院に寄り集まっては検査値の悪さを自慢し合うような生活は送れない。それを嘆じているわけではない。幼少期を戦争の業火で包まれた世代は、日本が一番幸せなときに死んでいった。日本の絶頂期に生まれた我々の世代は、日本の「終わりの始まり」の時期に社会へと放り出された。歴史とはそんなものである。などと他人事のように思ったりもする。
人口が増えると人間を間引くために戦争が勃発する (あるいは自然発生する)。そういう、冗談のような説がある。若者が路上の老人を殺す事件、これは局所的な戦争だ。昔の老人は捨てられるために息子の背中に自ら負われた。今の老人は背負われることを拒否する。ならば叩き殺すしかない。もちろんこれも冗談である。しかし、ロジカルには危うい。実際、幾つかの文学的な試みはある (例えば筒井康隆『銀齢の果て』)。
言うまでもないことだが、「論理」で語れないから「倫理」なのである。言偏と人偏の違い。言葉で語れるのなら、それは論理である。したがって、倫理を語る試みは全て失敗する。道徳が声高に叫ばれている現状には、いささか疑問を覚える。
背理法の胡散臭さが好きな T です。こんばんは。
自然数の個数が有限であると仮定する。最大の自然数を M としよう。M に 1 を加えた数は M よりも大きい。
M < M + 1
ところで、M + 1 は自然数である。M は最大の自然数であるから、
M + 1 ≤ M
したがって、
M < M + 1 ≤ M
となり、M は M よりも大きい。これは矛盾である。つまり、最初の仮定は誤りであるから、自然数は無限に存在する。
……こういう短い証明が好きだ。下らないショート・ショートよりよほど気が利いている。いずれ、色々と証明を集めたページを作りたい。
終日病院。
実験では 1つ良い結果が出た。まだ予備的な段階だけれど、次はスケールを大きくしてみよう。
ボスとディスカッション。実験した者である私はデータのポジティブな面を強調しようとするし、客観的に評価する者であるボスはネガティブな面を問題にしようとする。系が不安定だと、このような事態が起こりやすい。白黒が付く、というのは、結果がある傾向に収束するということでもある。あるいは、思い描いていたストーリーに誤謬がある可能性もある。ネガティブな点ばかりを突いても建設的ではないし、かといって、思い込みに執着して目を曇らせるのは愚かである。何をどうすれば良いのか。こういうときは本当に悩む。
夜は、今月いっぱいで退職する大学のテクニシャン嬢の送別会。安くて美味しい、いかにも「居酒屋」という店であった。テクニシャン諸氏と若い大学院生が主なメンバーだったので、甘いチューハイなんかを啜りながら、何となく懐かしい気分になる。
コンビニ弁当、カレー、ハンバーガー、ラーメンと、栄養が偏らないようにローテーションを組んでいる T です。こんばんは。
今日でこのサイトも 5周年を迎える。当初から、まずは 10年間続けることを目標にしてきたが、ようやく折り返し地点である。毎日の積み重ねとは馬鹿にできないもので、蓄積された日記や書評も、それなりのボリュームになった。
この 5年間で変わったこと、変わらないこと、得たもの、失ったもの、学んだこと、考えたこと——、色々なことがここに書かれてある。書かれていない事柄もある。いずれも大切な私の記録であり記憶である。この世の事象を文字に置き換える試みは空しい。でも、誰かに何かが伝わるのではないかという、祈りにも似た小さな願いくらいは託すことができる。
皆様のこれからの 5年間が、素敵なものになりますよう。これからもよろしくお願いします。
水面下でリニューアル続行中。しかし本腰を入れる前に、溜まっている書評を済ませたいのだが……。
大学 → 病院 → 大学。夕方から大学のセミナー。
ボスにそこそこの額の科研費が当たったらしい。一安心である。どうでも良いが、科研費が「当たった」という表現はいかがなものか。建て前とはいえ (嗚呼!)、科研費とは、申請者の研究計画と実績を厳正に審査してを分配されるのではないのか。「選ばれた」ではなく「当たった」が慣用されている現状は、まだまだ改善の余地があろう。
久々のリニューアルをボチボチと進めている T です。こんばんは。
BBS を改装中。以前から考えていたスレッド式に移行する予定。まだスレッドも立てられないし、コメントも書き込めず、RSS も機能していない。まァ、今は雰囲気だけ。どんなクソスレが立つか楽しみである。
大学 → 病院。
今日は意識的に雑用を放り出して実験に励んだ。良い結果が出たので疲れが心地良い。毎日がこうであれば幸せなのだが。今月前半に仕込んだ細胞が、今週から次々に上がってくる。細胞培養はそろそろ打ち止めにして、これから GW までは解析を中心に実験を進める予定。
Dr. H から心暖まるメールとともに素晴らしい論文を頂戴する。私も頑張らねば。
動物の行動を定量化するのは非常に難しいと思う T です。こんばんは。
大学 → 病院。午後は研究所の会議。夜はセミナー。
セミナー後の雑談で、「マウスを腹八分目に保つと長生きする」という話を耳にする。マウスの満腹度って、どのように定量するんだろう。マウスのような齧歯類 (に限らず、小型の恒温動物) はのべつ幕無しに餌を頬張っている。体の容積に対する体表の面積の比が大きい、つまり細胞数に対して放熱量が大きいので体温を保つには大量のエネルギーが必要になる、というのが理由の一つである。この種の動物は、常に食べていないと死んでしまう。そのような摂食行動を取る動物を「腹八分目に保つ」には、かなりマメな飼育が必要であろう。どうも眉唾な話である。与太話としては面白いんだけど。
HTML の数式表現に限界を感じる T です。こんばんは。
大学 → 病院 → 大学。
昼に三重県で震度5 の地震があったようだ。ちょうど培養室で作業していたのだが、京都でも大きな揺れを感じた。夕方にはやはり三重で震度4 の余震。これもまた感じた。研究施設というのは概して頑丈にできているが、それでも結構な揺れだったように思う。震源地はいかばかりか。三重の被害が大きくなりませぬよう。
生物学をやっている人は (私を含め) どうも数学に若干の抵抗と憧憬がある。数学が苦手で生物に進んだ、という人は存外に多い。一方で、数学が苦手でも理系に踏み止まるくらいだから、ある程度の理解と志向はあるわけである。それで「若干の抵抗と憧憬」と書いた。
サイエンスは現実の現象を数学的に一般化・抽象化・モデル化することで世界を把握する。一方で、生物というものは根本的に複雑な系である。そしてその複雑性・多様性・個別性こそが「生命」の本質であるという一面もあり、「例外」のオンパレードといっても良い。In vitro の実験系はそれなりに単純化・理想化されてはいるけれども、我々はまだ 1個の大腸菌すら合成することができない。
だからといって、生物学的現象を数学的に把握する、つまり定量化・定式化することを諦めるわけにはいかない。むしろ逆である。しかしまァ、私は高度の数学を操ることもできないので、せいぜい、よく定量化された信頼できるデータを提出することしかできないが。
枕が長くなった。この欄では、勘と経験に頼りがちになる基本的な実験について、改めて数量的に考えてみる。レベルは低い (私が書くから)。しかし重要なのは、定量的な思考の習慣づけであり、目的はそこにある。なので、物凄くゆっくりと進める。
さっそく始めよう。第1回は PCR である。
PCR (polymerase chain reaction) では、1回のサイクルにつき、鋳型となる DNA の量が理論的には 2倍になる。したがって、n サイクル目が終わったときの鋳型の量 (2本鎖が重合した状態) Mn は以下の式で表現できる。
Mn = 2n
単位を付けよう。最初の鋳型の量が a (mol) であれば、
Mn = a2n
である。これは等比数列の一般項と同じ式である。a を初項という。懐かしいなあ。少し調子が出てきただろうか。当たり前だが、a ≥ 0 かつ n ≥ 0 かつ n は整数、である。こういう断りを一々入れると数学らしくなる。
さて、ここまでは理想条件下の話である。この条件下では、酵素はヘタらないし、プライマーは無限にあり、何サイクル目でも全ての鋳型がプライマーとアニーリングする。実験をやっていてときどき辛くなるのは、そんな理想条件はどこにもない、という厳然たる事実である。数学的に正しいかどうかよりも、PCR でバンドが出るかどうかの方が幾万倍も重要なのだ。そして我々は理論的な基礎を忘れがちになる。
閑話休題。投入したプライマーの量を、センス、アンチセンスともに p (mol) (p ≥ 0) としよう。したがって、どれだけサイクル数 n を増やそうとも、Mn ≤ a + p である。
さて、p はサイクル数とともに減っていく。n サイクル目が終わったときのプライマーの量 pn を考えよう。n サイクル目が始まるときの鋳型の量は Mn-1、プライマーの量は pn-1 である。このサイクルの間に、鋳型と同量のプライマーが消費される。したがって、
pn = pn-1 - Mn-1 (ただし、p0 = p)
この式は帰納的なので展開しよう。
pn = pn-1 - Mn-1 = (pn-2 - Mn-2) - Mn-1 = ((pn-3 - Mn-3) - Mn-2) - Mn-1 = ……
まとめると、
pn = p0 - (M0 + M1 + …… + Mn-1)
だから、
pn = p - ∑Mi (i = 0, 1, ……, n-1)
ここで等比数列の総和を求めなければならぬ。公式の力を借りよう。大人になって良かったことは、公式を暗記する必要がないことである。
∑Mi = ∑a2i = a∑2i = a(2n - 1) / (2 -1) = a(2n - 1)
結局、n サイクル目が終わったときのプライマーの量 pn は以下のようになる (この式は p0 でも成立する)。
pn = p - a(2n - 1)
この式は、全ての鋳型とプライマーがアニーリングすることを前提にしている。したがって、上記の pn が成立するのは、Mn-1 ≤ pn-1 のときである (これは Mn = a2n が成立する条件でもある)。
鋳型の量がプライマーの量を超えるサイクル数、すなわち、初めて Mn > pn となる n を求めよう。この値は、最初に投入する鋳型の量 a とプライマーの量 p で決まるはずである。
Mn > pn
a2n > p - a(2n - 1)
a2n+1 > p + a
2n+1 > p/a + 1
両辺の値は正だから、それぞれの log2 を取っても大小関係は変わらない。
n + 1 > log2(p/a + 1)
n > log2(p/a + 1) - 1
投入したプライマー量 p が、鋳型の量 a の 100万倍あったとしよう。この値は充分に大きいから、少々丸めたところで問題はない。この場合、
n > log2(106 - 1) - 1 ≅ 2 × log2103 - 1 ≅ 2 × log21024 - 1 = 2 × 10 - 1 = 19
したがって、20サイクル目が終わった時点で、鋳型の量 M20 に対してプライマーの量 p20 が足りなくなる。21サイクル目で全てのプライマーが鋳型とアニーリングしてしまえば、p21 = 0 となる。すなわち、プライマーがないので 22サイクル目以降は PCR がかからない。実際は全てのプライマーが消費されることはなく、Mn のカーブは n = 20 以前のサイクルから次第に漸近的になるんだけどね。
さて、我々はまだ理想世界の恩恵を被っている。PCR には鋳型とプライマーの他にも、酵素 (DNA polymerase) と dNTP が必要だ。理想的に PCR がかかるには、酵素の量が Mn に対して大きければ良い、ということはすぐにわかる。活性の低下を無視すれば、酵素は減らない (それが酵素の定義でもある) から計算は簡単だ。DNA の伸長は鋳型が解離した状態で行われるので、2Mn の酵素があれば (理論的には) 充分である。
dNTP の方はそうはいかない。これはプライマーと同じくサイクル数依存的に減っていく。同時に、鋳型の塩基数にも依存する。鋳型の長さを x (bp) (x > 0) としよう。dNTP が必要になる長さは、厳密にいうと「x - プライマーの長さ」なのだが、普通、プライマーの長さは x に比べて充分に小さいので無視する。そして、投入した dNTP の量を d (mol) (d ≥ 0) としよう。
n サイクル目が終わったときの dNTP の量 dn を考えよう。n サイクル目が始まるときの鋳型の量は Mn-1 である。x bp の鋳型は解離し、それぞれに dNTP が対合する。したがって、n サイクルの間に消費される dNTP の量は、
2xMn-1
である。なので、
dn = dn-1 - 2xMn-1 (ただし、d0 = d)
となる。これはプライマーと同じ式だ。1回の消費量がプライマーの 2x倍になっただけである。したがって、
dn = d - 2ax(2n - 1)
が簡単に得られる。1 kb の DNA 断片を増やすのであれば、プライマーの 2 × 1000 = 2000倍の濃度があれば充分であり、実際のプロトコールもこのあたりのオーダーになっているはずだ。
PCR の話をしたので、次はプライマーの Tm 値でも考えてみるかな。いつになるかわからんが。
初投稿の論文に対するコメントを受け取った T です。こんばんは。
終日大学。午前中は情報処理関係の講習を受けた。受講しないと、図書館の機能を十全に使わせてもらえない。電子ジャーナルへのアクセス権は、研究をする上で何よりも必要なものだ。世界中の文献が読み放題。これだけで、学費は充分にペイできるといっても良い。
午後から大学の付属研究所をボスと訪ねる。いずれ、この研究所から細胞を提供してもらうことになる。少し前に書いていた申請書はこのために必要なのだが、これが実に 70ページにも達する (でもまだ不充分らしい!)。誰が読むのだろう? Acrobat でファイルを開くだけでも 1分くらいかかるのだが。狂ってる。この件については後段でも触れる。
先月投稿した論文の返事が来た。Reviewer からのコメントをボスが持って来ていたので、喫茶店にて作戦会議を開く。コメントの内容は限りなく reject に近く、なかなか厳しいものだったが、これは想定の範囲内。投稿した日の日記にも書いたが、この journal はあくまで高望みなのである。そもそも臨床系の雑誌だし……。仮に良い返事だったとしても、個人的にはあまり嬉しくなかったりするのはボスには秘密だ。
色々と検討した結果、今回のコメントを参考に追加実験をして別の journal に投稿し直そうという結論に至った。これは私も愛読する基礎系の雑誌なので気合いが入る。良い返事が欲しい。ので、やはり GW までは休みなしだな。
デジタル・テキストの利点は、記号としての文字そのものを扱うという純粋性にある。例えば私が明朝体で文章を書いたとしよう。読む人が気に入らなければコマンド一発でゴシックにも変えられるし、それでも読みにくければ文字を大きくすることもできる。大事なのはそこに書かれている記号としての文字であって、見た目その他は利用する人が好きにすれば良い。記号としての文字だけを抽出できるところがデジタルの利点であり、アナログとの最大の相違点である。印刷されたものだとそうはいかない。いかにレイアウトが気に食わなくとも、印刷された本はそのレイアウトでしか読めない。
書類をパソコン上で記入してメールで送信すれば、それだけで「デジタル化」、というのは大きな間違いだ。本当にシステムがデジタル化されているのなら、書類ファイルを Word や PDF で作る必然性はない。どうしてこれら特定のアプリケーションが必要になってくるのかというと、最終的に「印刷されること」を前提にしているからに他ならない。そのために Word や PDF で綺麗に枠が作ってあって、記入者は、そのレイアウトで見栄えがするように文字の大きさだとかを調整して埋めていく。これ、果てしなく無駄じゃないか。そろそろテキストと装飾を分離しようよ。Web サイトでは何年も前から実現されている。
そんなに印刷したけりゃ、レイアウトは役所の方で整えれば良い。申請者は、必要な情報をプレーンなテキストとして書くだけで良い。記述形式さえ決めておけば、後はそれを特定のレイアウトに流し込むなんて簡単だろ? なぜそうしない。日本の研究者の頭脳が、このような愚かな作業のために、年間どれだけ無駄に使われているかわかっているのか。それを思うと情けなくなってくる。何で私が。と思うと、今度は腹が立ってくる。役人ってどんだけアホなの?
申請書を書くための講習会を受ける手続きをした T です。こんばんは。
どんだけ面倒なんだよ!
外で昼飯を食べていたら、同じ店にボスが入ってきた。ときどきこういうことがある。ボスも私も外食派。ちなみに、テクニシャン嬢達や研究員嬢は院内派である。そちらの方が安く上がるし、面倒ではないのだけれど、やはり私は外に出てしまう。研究所内にいる限り、電話や雑用が絶え間なく訪れる。せめて昼食くらいはゆっくりと摂りたい。ボスも同じ気持ちなのだろう。もっとも、外で食べたからといって雑用が減るわけではなく、研究室に帰ってくると大抵は何らかの仕事が増えているのだが。
「お金がない」とボスが愚痴っていた。私にとっても死活問題だが、「頑張って申請して下さい」としか言いようがない。研究費が少ないから、今年度はあまり実験もせず、論文をまとめることに力を使おう、などとボスは言う。それで来年度はドカンと一発。論文にするだけのデータがあるならば、そういう 1年があっても良いかもしれない。どうでも良いが、中年男は「ドカン」だとか「一発」が好きだなあ。私も嫌いじゃないが。
体調が芳しからず、18時頃に帰宅。実験するとお金がかかるから。というわけではない。
学生証を手にした T です。こんばんは。
病院 → 大学 → 病院。この書き方も久し振りだな。
大学院のガイダンスを受けてきた。入学式は先週の金曜日にあったのだが、時間の都合もあって、結局は出席しなかった。今更、という想いもあった。しかしガイダンスを受け、学生証や便覧といったアイテムを手に取る内に、嗚呼また学生になったんだなあ、という感慨が湧いてくる。今は仕事もしているし、これまで経験してきた学生生活とは全く別の覚悟で臨まなければいけないのは当然だが、この気持ちは大切にしたいと思う。素晴らしきかな学生!
これから、各種の機器やサービスを利用するための申請をしたり、健康診断だとか講義の登録をせねばならぬ。大学院、特に博士課程の講義など、あってないようなものだが、想像していたよりも充実していたし、何より自分から受けてみたいと思うものが幾つかあった。仕事をしていなくてもそう思えたかな、などと考えてみる。
医学部の大学院生はほとんど医師であり、学生とはいえ医師の仕事も続けているので、まァ大半が社会人院生のようなものである。私だけが大学院以外の仕事をしているわけではなく、その点でも見習うことが多い。この世界に飛び込んだときは、誰も彼もが超人的な多忙の中を生きているように思われたものだが、最近ではすっかり慣れてしまい、これが普通だと思えるようになった。慣習の偉大なところであり、恐ろしいところでもある。
いまだに寒かったりするため、桜の咲き方も個体によって様々である。ようやく満開になったものもあるし、すっかり散ってしまったものもある。葉桜の中を花弁が舞っている。仰ぎ見ながら、色々なことを考える。
本棚の飾りになっていたウイスキーを開封して飲んでいる T です。こんばんは。
サントリーの Grand Old Par 12年。今日も仕事。忙しくしていたら、否、忙しいのを隠れ蓑にしていたら、とんでもないことになってしまった。不可逆的?
明日から大学院も始まる。頭を切り替えよう。前進のみが未来を切り開く。
困難な実験に立ち向かうとき、私はいつもテクニシャン達にこう言う。「やればできる」。一種の景気付けだ。シカゴに行ったとき、胸にデカデカと「We Can Do It!」という文字がプリントされた T シャツを買ってきて、実験室の一角に飾っている。
困難はきっと解決できるだろう。
日本人は最も理性的な人種ではないかと思っている T です。こんばんは。
日本の若い女性は、ときに非常に露出度の高い服を着て街を歩く。これが批判された一時期があった。キャミソールなどは下着ではないか、などと言われたものである。外国人が知ったような顔をして、次のように述べていたのが印象的であった。「あんな格好をして歩いている女性が目の前にいて、日本の男性が襲いかからないのが不思議だよ」。要するに、この発言をした外国人男性は、たかだかキャミソール程度で「辛抱ならん」状態になるのである。逆に、日本男児の心は下着もどき程度では揺れ動かない。まことに理性的だ。
沖縄でたびたび起こる、米兵による女児暴行も、日本男児にとっては理解しがたい。日本でも増えて来つつあるようだが、欧米、特にアメリカにおける幼児虐待というのも、日本的理性では理解に苦しむ。それほど抑制が効かなくなるという心理がわからない。こういう人種であるから、逆に『純粋理性批判』となる。日本の古い哲学は、あまり理性というものを論じない。理性があって当たり前、それが前提だからだろう。本能を抑制できるからこそ、「切腹」が成り立つ。本能が抑制できない人種は、ギロチンなどという不細工な道具を必要とする。カミカゼやハラキリはクレイジーではない。理性が勝つからこそ実行できる行為である。念のために断っておくが、だからといって特攻や切腹が高尚な行為だと主張しているわけではない。
一休や親鸞が女体を貪っていた、という事実は興味深い。厳しい戒律によって女犯を戒めなければ理性が保てない輩とは、レベルが違うのである。
少々脱線するが、京極夏彦の京極堂シリーズにおいて、中禅寺秋彦と関口巽がともに妻帯者であるという設定は、探偵小説史上画期的なことであると以前から考えている。これについてはまた詳しく述べたい。今は、デュパンと「私」も、ホームズとワトソンも、御手洗潔と石岡和己も、金田一耕助も神津恭介も矢吹駆もメルカトル鮎も犀川創平も、およそ名探偵らしき名探偵は誰も結婚していないし、女に興味があるフリすら見せなかった、ということを指摘しておくだけに留める。中禅寺秋彦の登場は、日本の探偵小説における「理性」が、ようやく欧米のそれから離陸したことを示すものだと考えるのは私だけか。ちなみに、明智小五郎は結婚している。この点でも、やはり乱歩はユニークであり、先進的である。
話を戻そう。スタンディング・オベーションや、ブーイングという行為もよくわからない。素晴らしかったら立ち上がって手を叩く、つまらなかったらブーブー文句を垂れる。単なる情動失禁ではないか。海外の映画を観るたびに違和感を感じるのもこの点だ。怒れば机を叩いて立ち上がる、嬉しかったり悲しかったりすればボロボロと泣く、恐ろしければ失禁する。これらの振る舞いは、日本的な感覚からすれば「大袈裟」であり、リアリティがない。
日本人の感情表現がわかりにくい、というのは有名な話である。しかし我々が、外国人の感情表現を理解するのはたやすい。つまり、日本的感情表現は他のそれらに対して上位互換性を持つ。そういう意味では高級であり、この能力を担保しているのは日常における理性の水準の高さではないかと考える。
なんてね、半分は冗談ですよ。
天候不順で桜がイマイチなのが残念な T です。こんばんは。
半年ほど前に職場の近くにできた居酒屋がずっと気になっていて、以前から行こう行こうと思っていたのだが、今夜ようやく、研究員嬢およびテクニシャン嬢 2人と一緒に訪れる機会を得た。メニューは魚がメインで、その日に仕入れたものを日替わりで出しているようだった。なかなか美味い。好きな魚が出ている日に、また来てみよう。梅酒が美味かったが、銘柄を尋ねるのを失念した。私の大学院入学祝いだとかで、奢ってもらう。御馳走様。
お笑い好きという人種がいて、マイナーな芸人の細かいネタなどをよく知っている。「これは面白い」「あれはサブい」などと、なかなか的確な批評を展開したりもする。しかしこの手の人間が、自身で何か面白いことを言ったりしたりするかといえば、あながちそうでもない。お笑い好きで、本人も芸を披露する人、というのは少ない。
人前で何かのネタを披露する performer と、それを鑑賞する audience は全く別のもので、前者は後者の気持ちを把握できるが、後者が前者を理解するのは困難である。どちらが偉いというわけではないが、しかし少なくとも関西では、あれこれ批評するお笑いマニアより、その場で何か面白いことを言える芸人タイプの方が尊重される。
笑いを取るためには、ある点で自分を貶めなければならず、これができるかできないかは、その人の人間性を忖度する上で実に貴重な示唆を与える。自分をネタにできる人は、自分に自信がある人である。面白いことを言える、頭の回転の早い人間が「俺アホやから」と自虐するから安心して笑えるのであって、本当にバカな奴が「俺アホやから」と言ったりすれば、誰もリアクションが取れずに場が凍りつく。
ユーモアというのは余裕や余力から生まれる。それは例えば、孔雀の雄が華々しい羽を見せびらかしながら生き延びているのと同じであって、芸人がモテるのもこのあたりに理由があると思われる。
笑いの批評は相当難しいよ。自分自身が面白い人間でなければ、何の説得力もない。よほどのことがない限り、笑いの批評をして得をするということはないから、止した方が良い。
本を読みながら別の本について考えることがよくある T です。こんばんは。
本日は休み。クリーニングと買い物に行き、あとは小説を読んでゆっくり過ごした。溜まっている書評もボチボチやってつけていかないとな……。
今日読んだ本の中に「暗赤色の髪……」という描写があったのだが、それを「暗示色の髪……」と読み間違えてしまい、そりゃあどんな色だ、いやいやこの主人公は抽象的な概念と色彩のイメージが直結した言語感覚を持っており、きっとその人物の髪の色が主人公にとって「暗示」を想起させたのやもしれぬ、それとももっと単純で少々拙劣な比喩というだけなのだろうか、そういえば筒井康隆『ヨッパ谷への降下』という小説があってだな——。というわけで、以下は『ヨッパ谷への降下』の話である。私はこの小説が大好きなのだ。
『ヨッパ谷への降下』は次の文章で始まる。
共に生活をしはじめた朱女という娘は奇妙な女性で朝飯を食べている時きらめくような眼で椀の中をのぞきこみ「ご飯の中に社会が見えます」だの「お味噌汁の中に国家があります」だのと口走る。なかば冗談でなかばは本気なのだが当然そういう異様な感受性も含め朱女が好きになったから一緒になったのだ。
以下、ある時期以降の筒井が得意とする、ノスタルジックな日本家屋の描写とともに、この地に生息するヨッパグモについて説明がなされる。そしてまた朱女は言う。
その晩も八畳間で朱女と晩飯を食べていた。
「お豆腐の中に社会が見えます」いつものように朱女は冷奴に眼を凝らした。
「きっとまっ白けの社会だろうね」軽く笑って相槌をうつ。それからふと思いついて彼女に訪ねてみた。「あのヨッパグモの巣の中には何が見えるの」
彼女は巣に眼を向けて答える。「いつもと同じです。あの中には政治が見えます」
「ははあ。政治をやっているのか」
「いえ。政治をやっているのが見えるのではなく政治が見えるのです」
社会とか国家とか政治とかいった形のないものが見えるという朱女の感覚はどのようなものなのだろう。
ここで 2つの可能性が考えられる。
『ヨッパ谷への降下』を素直に読む限り、朱女は 1. であることに間違いはない。それはそれで良い。しかし、2. の人物もまた小説の登場人物として魅力的ではなかろうか。彼または彼女にとって、髪の毛の色が「暗示色」であっても、自動販売機の飲料が「仮説味」であっても一向に構わない。具象的な事物と抽象的な概念の関連に法則があっても良いし、全くなくても面白い。
常識的な言語感覚が破綻した人物を果たして小説という方法で描けるのか、という問題はある。このへんは「思考の次元」と合わせて、考えてみる価値はあると思うが……。
PDF の編集で発狂しそうになった T です。こんばんは。
Word って使いやすいよね……。
年度は明けたが、まだまだ書類仕事は残っている。今日は報告書 1つと、申請書 1つ。
このような、研究に essential ではない書類は、俗に「作文」と呼ばれて嫌われている。作文とはよくいったものだ。これは「相手が (暗に) 求めている文章を作る」作業である。「(暗に)」というのがポイントだな。これをいかに察するかが作文の神髄である、という点では、まさに国語の作文と同じである。
厳しい言い方をすると、国語の作文で求められているのは、出題者の意図を読み取る能力であって、言語能力そのものではない。例えば「核兵器万歳!」という趣旨の小論文を、論理的かつ美麗な文章で書いたとして、果たして何点が付くのだろうか。もしも「核兵器万歳!」という内容によって減点されるのなら、それは国語の試験ではなく、思想か道徳のテストになってしまう。
現在、道徳を教科として採用するかどうかが論議されている。反対派は「道徳に点数を付けるのは無理だ」と言っているが、既に国語の作文においてはそのような行為がまかり通っている。今更、という感じなんだが。
報告書に話を戻そう。報告書は、税金を財源とする研究費を用い、この 1年間でどのような研究を行ったかについて報告する書類である。税金で研究を行うことに私は感謝の念を抱く者である。したがって、報告書の作成は義務である。これは偽りなく思う。問題なのは、この報告書を役人が読んで (読んでいるのかどうかも怪しいが)、一般には開示されないところにある。この点でも、報告書は作文である。採点者しか読まない。採点されるためだけに書く。これでモチベーションを上げろという方が無茶だ。
捏造や研究費の不正流用が厳しく取り上げられる中、報告書を廃止するというのは、ちょっと考えられない。したがって、どうせ報告書を書くのなら、一般に開示すべきだと思うのだが。若者の「理系離れ」とやらが進んでいる現在、現場の研究者が何をしているのかを知る、良い機会になるだろう。理系の本当に面白い部分は、教科書の中にはないぞ。
早起きをした T です。こんばんは。
昨晩からシコシコと、リニューアルのためのスクリプトを書いている。プログラムを組むのは久し振りなので、基本的な構文もスッと出てこなくて難儀する。例えば条件分岐は、Perl では「elsif」だが、JavaScript は「else if」である。いくら違う言語だとはいえ、こういう超基本的な構文は各言語で共通化しても良いのではないか。どちらで書いても認識してくれれば更に良い。技術的には簡単だと思うが、なぜそうならないのか。こんな違いを覚えるのは、どう考えても無意味である。
朝は辞令交付式。夜はセミナー。
実験はボチボチ。ふと鏡を見てみたら、何だか腕が細くなっているような気がする。重いモノでも持つか。
今日から再び大学院生の T です。こんばんは。
頑張るのは当然だが、気負わずにいこうと思う。今年度前半の最重要課題は、投稿した論文を通すこと。これが publish されれば大学院の修了要件は満たされる。もちろん、博士号の取得は手段であって目的ではないから、それで何かが終わるわけでもない。むしろ始まり。コンスタントに研究を進展させ続けることが最も重要であろう。
身体さえ壊さなければ大丈夫だと思うが、これだけは自信がない。まず生活をどうにかしなければ...。
実験は細胞の培養のみ。明日からの計画を立てたり、書類を書いたり。
私と職場の契約は 1年度毎なので、明日は辞令交付式がある。今のポストの任期は一応 3年 (更新有り) であるが、大学院生がこのポストに付いた前例がないとのことで、いずれ辞めねばならんかもしれぬ。単なる書類上の問題で、ポストに付いていようが付いていまいが、給料はボスの研究費から出る。したがって、ボスに雇われている内は何も変わらないし、逆に任期が残っていてもボスの研究費がなくなればどうしようもない。私にできるのは、ボスの研究費申請が通りやすいように実績を上げること。要するに、日々の研究が遠回りに自分の雇用に跳ね返ってくるわけで、このへんの仕組みを認識している研究員は、やはりテクニシャン諸氏よりは幾分か真剣さの度合いが違う。
自分の働きが、自分の所属する団体、ひいては自分の雇用状況を左右する。営利団体である一般企業では当たり前の話である。しかし研究所という場所ではその理が見えにくい。したがって、キリギリスのような輩が湧いてくることもある。役所なんかはもっとヒドいだろうな。天から金が振ってくると思っているような奴もいっぱいいるんじゃないか。腹を切れ、腹を。あれは我らが血税なるぞ。
企業の献金などを除き、研究費の大部分もまた税金である。この事実を忘れてはならんと私はいつも思っている。月末、その月に購入した試薬や機器の価格を計算するたびに私はつらつらと考え、誰にとはなく感謝の念を捧げる。ささやかではあるが、私にとって大切な儀式である。