- こだわりのコスト

2006/12/24/Sun.こだわりのコスト

明日はアイザック・ニュートンの誕生を祝うつもりの T です。こんばんは。

今日も街中をブラブラ。凄い人出である。百貨店の入り口で煙草を吸っている間にも、飛ぶように時計や宝石が売れて行く。何が不景気なんだろうか。結構なことではある。

私は腕時計が (というか時計全般が) あまり好きではないのだが、公的な場所に出かける機会が多くなったので、新しいものを求めることにした。車やコンピュータと違い、腕時計という古典的な機械の技術は既にプラトーに達している。つまり、腕時計の価格を決定する大半の要因は付加価値である。機能的には何ら変わりがないので、(私の) 選択基準はデザインの一択しかない。人によっては、ブランドも考慮するのだろう。

私が「これは良い」と思ったものは、全て値段が 1桁違っていたので苦笑する。健全な資本主義ではある。また、自分のセンスがそれほど世間のものとはかけ離れていない、という確認もできた。別にそれで安心するわけではないが。「私のセンスも世間並か」と思うだけである。

「他人と同じものが欲しい」と、自然に競争率が高くなる。PS3 や Wii は品薄になり、ブランド品は高騰する。卑近な例でいえば、美人をゲットするのは難しい。逆に、例えばブス専であれば、自分の望むものが容易に手に入るだろう。一方、工業製品は「世間並」のものを大量に生産するという一面もある。選択肢も多い。したがって、この手の分野では「他人と同じもの」を欲しがる方が簡単に手に入る。バイクより車の方が、どう考えても割安である。それと同じ。

自分の趣味、嗜好、こだわりが、高くつくこともあれば、安く済ませられることもある。なんて、そんなことを考えるよりも、クリスマスの激流に身を任せたら、もっと手軽に楽しめることもわかっているんだけど。なかなかできない性格なので往生している (というほど困ってはいないが)。この場合、私のこだわりが、「楽しむ」ために必要なコストを上げている、ともいえる。

牛を喰って梅酒を呑んで帰宅。