- 確率論と「私の場合」

2006/12/13/Wed.確率論と「私の場合」

予定とは単なる期待値であると思う T です。こんばんは。

研究日記

大学。

テクニシャン氏に gel shift assay を教えて頂く。今日は RI (radioisotope; 放射性同位体) 施設で DNA の labeling までを行った。作業自体は簡単 (kinase で 32P リン酸化するだけ) で、むしろ大事なのは施設の使い方である。こればかりは、実際にやっている人に教えてもらわないと往生する。

「RI ってあんまり触りたくないんですよね」とテクニシャン氏が言う。気持ちはわかるが、正直な話、私はあまりそう感じない人間である。放射線って見えないから、どうしても怖くなれない。何だかバカみたいであるが。もちろん、実験で使う程度の RI では、確率的には人体に何の影響もないという前提があっての上だが。

面白い話を思い出したので書いておく。アイザック・アシモフ『体内でおこる爆発』という、人間の身体を構成する原子の核崩壊を題材にしたエッセイがある。同位元素は天然にも存在する。その幾つかは、我々の身体の中に多量に存在し、かつ不安定 (半減期が短い) である。

遺伝子は、通常の細胞の約一パーセントを占めている(ここでは、細胞だけを問題にする。細胞外物質には遺伝子はないのである)。したがって、遺伝子には約二四兆 × 一兆個の原子があり、そのうちの半分、つまり一二兆 × 一兆(一二、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇)個が炭素原子である。このうち約一四兆(一四、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇)個が炭素一四原子となる。

そこで、こういうことになる。平均して、二個の細胞につき一個の炭素一四原子があるのである。

これらの崩壊する数は計算できる。結果は、体の全体を通じて、遺伝子に入っている炭素一四原子は、一秒ごとに五〇個が爆発して、β 粒子を送りだすことになる。これはカリウム四〇原子が爆発して送りだす β 粒子よりは弱くて数が少ないかもしれないが、この五〇個は一つ残らず命中するのだ!

(アイザック・アシモフ『体内でおこる爆発』)

放射能は変異原の 1つである。自然に発生する突然変異のうち、体内原子の核崩壊、つまり被爆に起因するものも多数存在すると考えられる。典型的なのは癌である。私や貴方の中で今日、癌細胞が生まれた確率は 0 ではない。

確率論と「私の場合」

原子核の崩壊や、生物集団における変異の発生は、マスを対象にした確率論として論じられる。確率論というのは、学問における壮大なまやかしの 1つだと私は思っている (このテーマについてはいずれ書いてみたい)。なぜなら、確率論は「私の場合」について答えてくれないからだ。

「貴方が癌に犯される確率を下げることができる」。この文章の意味をよく考えて頂きたい。これはどういうことだろう。パラレル・ワールドを想起すればよくわかる。貴方が過ごし得る「一生」の全てのパターンを仮想する。癌になる貴方もいれば、そうでない貴方もいる。この全体集合の癌罹患率を p としよう。また、「癌にかかりにくい生活」を送った全ての貴方の部分集合を作ろう。この部分集合の罹患率を q とする。「癌にかかりにくくなる」というのは、単に p > q というだけに過ぎない。これが「確率的」ということである。

一方で我々は、ただ一度の人生を生きるしかないということを知っている。今の自分が気に入らないからといって、別のパラレル・ワールドに逃げ込むわけにはいかない。「私」というマスは存在しないのだ。したがって本来、こういうケースで確率論は成立しない。貴方は貴方の人生で、「癌になる」か「癌にならない」のどちらかの状態しか取らない。「癌になりにくい」というシュレディンガーの猫のような状態は、「貴方」という唯一の個体の前には存在しない。

だから私は、確率的なリスク (飲酒・喫煙・バイクの運転など) を恐れることは無意味だと思っている。別の理由で止めるのならばともかく、確率論の幻想に人生を振り回されてはたまらない。生は一度きり。n = 1 のときに確率は存在しない。

これは西洋的な「神」のイメージに近い。神はサイコロを振らない、とされている。例えば何万人に 1人という難病にかかった人が、「これも神様の思し召しだ」と言ったりする。「彼の場合」、確率論は絶望的に無価値である。確率にはそういう罠がある。そもそも、確率論が想定するマスの各要素は、「交換可能」なことを前提にしている。これだけでも、人生において確率論が大した意味をもたないことが理解できるだろう。私は確率論を否定しているわけではもちろんない。適用範囲が限られている (だからこそ科学のツールとして使える)、と主張しているのである。可能性を確率で縛ってはいけない。