- 昔話のヴァリアントとしての小説

2006/06/27/Tue.昔話のヴァリアントとしての小説

桃太郎を勉強している T です。こんばんは。

「桃太郎の小説を書いている」と日記に書いてから約 1ヶ月、作業は遅々として進んでいない。本文を書くよりも、むしろ方法論だとかの方に頭が行ってしまうのは俺の悪癖だが、今日は、そんな中から思い付いたことをメモとして書いておく。

昔話と小説

(文字で書く、ということ以外の) 全ての制約から免れた「小説」という表現形式において、では何をもって「小説」を定義するのか、という問題がある (「小説に関する断章」)。逆にいえば、小説にあらざる文芸は何らかの制約を受けており、それによって「小説でないもの」と定義されている、という推論が成り立つ。だが、本当にそうなのか。

この命題に対する反例として思い付いたのが「昔話」である。昔話は自由である。しかし、これを小説だと思う人は少ないだろう。作られたのが「昔」であるという点を除き、昔話という物語群は小説と何が違うのか。列挙してみる。

  1. 作者不明。作者も特定の個人ではなく、不特定多数である。
  2. 異本、異説の存在。

これらの特性は、むしろ昔話が小説より自由なんじゃないか、とすら思わせる。例えば 2.、マルチエンディング・ゲームのノベライゼーションにおいて、ではその小説もマルチエンディングであるかといえば、決してそうではない。マルチエンディングが可能なゲーム・ブックという形式もあるが、これは一般的に小説とは認知されていない。

では、異なる筋書きが幾つもある昔話は小説を超越しているのか。それは間違いだろう。昔話における各異説は微妙に違った小説でしかなく、「昔話」はそれらの集合を表す概念に過ぎない。つまり「昔話」と「小説」は属するレイヤーが異なるのだから、同列に論じる方がおかしい。

じゃあ、と俺は思い付いたのだ。昔話のヴァリアントを 1つの小説として書くことはできないか。

昔話の異常な骨格

昔話のヴァリアントは 2次創作かどうか。はっきりいって、俺にはよくわからない (そもそも 2次創作というものを正しく把握していない)。ただ、昔話の多くが、現代の水準からすれば物語としての技術レベルが低く、それゆえに面白い題材を内包しているということの方が、俺にとっては重要だ。

昔話がどれだけムチャクチャで、ナマな欲望を反映しているか。そのアイデンティティとなるアイデアと、物語としての最低限の骨格だけを剥き出しにしてみればよくわかる。以下はその例。

桃太郎
桃から産まれた男は、それが鬼であるという理由だけで鬼を虐殺する。
鶴の恩返し
助けられた鶴が美女となって現れ、主人公の欲望を叶えるが、約束した禁忌を犯されたために去る。
舌切り雀
雀の舌を切るというキチガイ婆が、己の心理を逆手にとられて雀に復讐される。

わざと面白おかしく書いてはいるが、それにしてもムチャクチャである。現代小説としてみたとき、その骨格はあまりに未熟で、というより破天荒で、とても職業作家が企画として提出できるものではない。「桃から産まれた男」という発想は、どう考えても普通じゃない気がする。

しかし一方で、魅力的なフラグメントも存在する。「鶴の恩返し」など、書きようによっては究極の官能小説にもなりそうだ。その趣味がある人なら、獣姦小説に仕立て上げても良い。「雀の舌を切るババア」なども、なかなかにサイコなキャラである。彼女に何があったんだろう。想像は膨らむ。

だが、これらの断片を現代的な小説にするには、とても換骨奪胎という生ぬるい手法では追い付かない。むしろ、現代人では思い付けないようなアイデアだけを頂戴し、それを元に 1から再構築するのが良いのではないか。できあがった小説は、もはや昔話の元型を留めていないかもしれないが、それで不都合があるとも思えない。やってみる価値はある。と俺は思う。