大事の前の小事が気になる神経の細い人間、T です。こんばんは。
病院 → 東京。
有意差がないグラフでも、「p > 0.05」って書き込んだら素晴らしいデータのように思えた、そんな暑い午後。
夕方までテクニシャン K嬢と一緒に Western。何とか 1人で実験できるようになったかなあ、という感じ。バンドの大きさを揃えるとかは、まァ次の課題。結果はまずまず。
その後、東京へ。新幹線の中でビールをあおって爆睡。起きたら新横浜。ホテルでスライドの作成。職場にいると、何やかやと仕事が入ってきて、落ち着いて作れないのはよくわかっている。ほとんどスライド作成のためだけに、前日から宿泊しているようなものだ。だったら家で作れよ、とか言われそうだが、それもねえ。勉強は家でもできるんだけど、仕事はできないんだよなあ。
発汗しやすい T です。こんばんは。
小説・桃太郎について、昨日の続き。
いったい、鬼ヶ島はどこにあるのか。鬼ヶ島を文字通り「島」と考えるのは、ちょっと疑問も残る。そもそも日本において、鬼が棲むのは山の中、と相場が決まっている。原作「桃太郎」でも、彼が舟を操って海原を渡るという印象はあまりない。何となく、いつの間にか鬼ヶ島に辿り着いたと思ったら、次の場面では鬼どもを殄戮している。
- 島
- (2) ある限られた地域。また、遊郭ややくざの縄張り。(『新辞林』)
鬼ヶ島は「鬼のシマ」とも解釈できる。「ボスは隔離される」という定石に則って、鬼ヶ島を文字通りの「島」にしても良いし、逆に、街中で鬼を惨殺しまくる桃太郎でも良いわけだ。
大学 → 病院。
土曜日に東京で行うプレゼンテーションの準備を今夜から。間に合うのか。そこで、西原理恵子画伯のこの言葉。
思いついた事を原稿にそのままかき
ページがおわったらまんがもおわる(西原理恵子『鳥頭紀行ぜんぶ』)
素晴らしい。俺もそんなプレゼンテーションをしてみたいが、間違いなく許されない。
ところで、今回の発表は学会のそれではなく、製薬会社主催のフォーラムである。名目上は招待講演となっており、いつもとは勝手が違う。このフォーラムの話は、帰ってきてからラジオでしようと思う。
明日の夜に京都を出るので、次回の更新は日曜になる。それでは皆様、良い週末を。
来週から 7月という事実に愕然としている T です。こんばんは。
小説・桃太郎がなかなか進まないので、ときおり進捗状況を書いて埋め草にしようと思う。ただ、よく見かける「今日は何文字書いた」という日記には何の意味もないので、少しは頭を使うつもりでいる。というか、読まれる前に読者を教育しておこうという深謀遠慮なのだ。ははは。
よほどの小説でない限り、あらかじめある程度の情報を仕入れていた方が面白く読める。これは俺の個人的な意見であるが、そうでないと、本の裏や帯に付された「あらすじ」の説明がつかない。
小説を書く方法は色々あるだろうが、その極めて初期の段階に、テーマとなるキーワードを抜き出すという作業は重要なんじゃないか。昨日の日記で、「桃太郎」のあらすじを、「桃から産まれた男は、それが鬼であるという理由だけで鬼を虐殺する」とまとめた。そこで、まずは下の唱歌を紹介する。
文部省唱歌「桃太郎」、作詞・不明、作曲・岡野貞一
- 桃太郎さん 桃太郎さん お腰に付けた黍団子 一つ私に下さいな
- やりませう やりませう これから鬼の征伐に ついて行くならやりませう
- 行きませう 行きませう あなたについてどこまでも 家来になって行きませう
- そりゃ進め そりゃ進め 一度に攻めて攻め破り 潰してしまえ鬼ヶ島
- おもしろい おもしろい 残らず鬼を攻め伏せて 分捕り物をえんやらや
- 万万歳 万万歳 お供の犬や猿・雉は 勇んで車をえんやらや
4番以降が圧巻で、特に 5番の「おもしろい おもしろい」「分捕り (ぶんどり) 物をえんやらや」、6番の「万万歳 万万歳」などは腹がよじれるほどに爆笑した。やっぱイイわ、昔話。えんやらや。
さて、ここからキーワードを抜き出すとすれば、やはり「快楽殺人」となるだろうか。他にも「買収から心酔へ」「強盗と共犯」「差別的帝国主義」などなど、物騒な発想が浮かぶ。必ずしも採用するわけではないが、「桃太郎」という話の重要な要素として、リストアップはしておきたい。取捨選択はまた別の作業である。
以下は考え方の例である。「桃太郎」における唯一のオリジナル要素が「桃からの出生」である以上、この断片を省くともはや「桃太郎」ですらなくなってしまう。これは必ず入れる。したがって、仮に「快楽殺人」をキーワードに「桃太郎」を展開するならば、それはほとんど必然的に、「桃から産まれたという出生がもたらすトラウマが原因で〜」というプロットが思い浮かぶ。つまらないけれど、まァ、あくまで例題として。
終日病院。ボスとディスカッション。「最近、勉強の方は?」と突然訊かれたので、何のことかと思ったら「院試の勉強」のことだった。ははは。と、薄ら笑いしながら帰宅し、『Molecular Biology of the Cell』をついつい開いてしまう俺は、多分、いい人。
桃太郎を勉強している T です。こんばんは。
「桃太郎の小説を書いている」と日記に書いてから約 1ヶ月、作業は遅々として進んでいない。本文を書くよりも、むしろ方法論だとかの方に頭が行ってしまうのは俺の悪癖だが、今日は、そんな中から思い付いたことをメモとして書いておく。
(文字で書く、ということ以外の) 全ての制約から免れた「小説」という表現形式において、では何をもって「小説」を定義するのか、という問題がある (「小説に関する断章」)。逆にいえば、小説にあらざる文芸は何らかの制約を受けており、それによって「小説でないもの」と定義されている、という推論が成り立つ。だが、本当にそうなのか。
この命題に対する反例として思い付いたのが「昔話」である。昔話は自由である。しかし、これを小説だと思う人は少ないだろう。作られたのが「昔」であるという点を除き、昔話という物語群は小説と何が違うのか。列挙してみる。
これらの特性は、むしろ昔話が小説より自由なんじゃないか、とすら思わせる。例えば 2.、マルチエンディング・ゲームのノベライゼーションにおいて、ではその小説もマルチエンディングであるかといえば、決してそうではない。マルチエンディングが可能なゲーム・ブックという形式もあるが、これは一般的に小説とは認知されていない。
では、異なる筋書きが幾つもある昔話は小説を超越しているのか。それは間違いだろう。昔話における各異説は微妙に違った小説でしかなく、「昔話」はそれらの集合を表す概念に過ぎない。つまり「昔話」と「小説」は属するレイヤーが異なるのだから、同列に論じる方がおかしい。
じゃあ、と俺は思い付いたのだ。昔話のヴァリアントを 1つの小説として書くことはできないか。
昔話のヴァリアントは 2次創作かどうか。はっきりいって、俺にはよくわからない (そもそも 2次創作というものを正しく把握していない)。ただ、昔話の多くが、現代の水準からすれば物語としての技術レベルが低く、それゆえに面白い題材を内包しているということの方が、俺にとっては重要だ。
昔話がどれだけムチャクチャで、ナマな欲望を反映しているか。そのアイデンティティとなるアイデアと、物語としての最低限の骨格だけを剥き出しにしてみればよくわかる。以下はその例。
わざと面白おかしく書いてはいるが、それにしてもムチャクチャである。現代小説としてみたとき、その骨格はあまりに未熟で、というより破天荒で、とても職業作家が企画として提出できるものではない。「桃から産まれた男」という発想は、どう考えても普通じゃない気がする。
しかし一方で、魅力的なフラグメントも存在する。「鶴の恩返し」など、書きようによっては究極の官能小説にもなりそうだ。その趣味がある人なら、獣姦小説に仕立て上げても良い。「雀の舌を切るババア」なども、なかなかにサイコなキャラである。彼女に何があったんだろう。想像は膨らむ。
だが、これらの断片を現代的な小説にするには、とても換骨奪胎という生ぬるい手法では追い付かない。むしろ、現代人では思い付けないようなアイデアだけを頂戴し、それを元に 1から再構築するのが良いのではないか。できあがった小説は、もはや昔話の元型を留めていないかもしれないが、それで不都合があるとも思えない。やってみる価値はある。と俺は思う。
風呂に湯を張ろうとして頭から水をかぶってしまった T です。
蛇口とシャワーを切り替えるのを忘れていた。いつもシャワーだからなあ。
従来の RPG において、ボスは常に特定の場所に隔離されていた。ボスに辿り着くには、長くて険しいダンジョンを踏破せねばならなかった。しかし、であるからこそ我々は、ボスを撃破することもできるのである。ボスが一般市民と共に街にまぎれていたらどうするのか。ボスが強力であればあるほど、彼を倒すための攻撃もまた激烈になる。主人公は、守るべき無辜の市民を巻き込んでまでアルテマを唱えるのか?
だからボスの方々は、一刻も早く主人公の家の隣を借りるべきだ。
STAR WARS でジェダイ達が操るライトセーバー、俺はずっと right saver だと思っていた。「正義の守護者」という意味だな。ダーク・サイドの人間もライトセーバーを使うが、彼らには彼らなりの正義があるのだろう。そこまで勝手に解釈していた。でも本当は light saver (光の守護者) なんだよ、と教えられた。イタい。
それにしても、ダーク・サイドの人間が light saver とはこれいかに。ひょっとしたら別の名前なのか。そう思って調べたら、ライトセーバーは right saver でもなく light saver でもなく、lightsaber だった。つまり「光のサーベル」。つまんねえ名前だな、おい。
眠い T です。こんばんは。
JavaScript で作られたゲームは数多あれど、いくら何でもこれはヤリ過ぎだと思った。
技術とかいう以前に、これだけのものを作り上げてしまう情熱が羨ましい。
終日病院。細胞の世話。来週の準備。早めに帰宅する。
新しいプログラムのライブラリを作っている T です。こんばんは。
こういうチマチマとした部品を作るのは大好きである。
プログラムで何度も利用する処理は、サブルーチンや関数としてまとめられる。これらは数学の定理に似ている。幾何の証明で、一々ピタゴラスの定理を長々と書く人間はいない。「ピタゴラスの定理から〜」で済む。そういうところが、関数に似ているという話。
定理は全て、自明の公理から導かれる。公理には、互いに矛盾でない、互いが互いを証明できない、という性質がある。それでは、プログラムにおける公理というものも存在するのではないか。例えば乗算は、加算の繰り返し関数で実装できる。
a × b
の値 answer
を求める関数 multiplication
を考えてみる。
answer = multiplication (a, b);
multiplication (a, b) {
for (i = 1; i < b; i ++) { a += a; }
return a;
}
まことにつまらない例だが、公理に近いものさえ覚えてしまえば、簡単なプログラムは大抵できてしまう。膨大なコマンドに挫折してプログラミングを諦めるのは、歴史年表を語呂合わせで覚えようとして失敗するのに似ている。
あくまで素人レベルの話だが、バンバンと小さな関数を書くことが、プログラム上達の早道かもしれない。自前で関数を書いていると、そのうち面倒になってくる。そこで初めて、探すなり調べるなりすれば良い。利用頻度が高いくせに難易度の高い関数などは、必ず先人が用意してくれている。
だからといって、最初から関数をコピー・ペーストで使おうと思っても、絶対に上手くいかないんだよなあ。ピタゴラスの定理でも、最初は自分できちんと証明するのと一緒で、やっぱりある程度は自分で書かないとね。
終日病院。細胞から核タンパク質を抽出。今日は大漁。いつも同じようにしているつもりなのだが、どうも収量が不安定である。細胞質なら、そんなことはないんだけどな。
MacBook を買ってきた T です。こんばんは。
公約通り (?)、壊れた Mac の買い替え。やっぱりノートだろということで (土日は職場に持ち運ぼうという魂胆)、MacBook を購入。帰宅し、壊れた Mac の内蔵ハードディスクからデータを吸い出す。接続用のコネクターは、現金購入の見返りにタダでふんだくってきた。では作業開始。
なんかオタクっぽくて良いぞ。MacBook と外付けのハードディスクにデータをコピーしている間に、昼飯と散髪。帰ってきてから、設定をチョロチョロとイジって無事に環境を復帰する。大して時間もかからなかった。
コピーされるデータを眺めながら考えたのだが、パソコンは、一般的にいうところのマスプロダクツではない。使い始めた瞬間から、それはユニークなものとなる。交換がきかないのだ。いくら新品が山のように売られていても、俺にとって必要なのは、壊れたパソコンの中にあるハードディスクなのである (正確にいうと、そこに書き込まれているデータ)。これを耐久消費財といって良いのかどうか。消費されるよりは、むしろ蓄積されていくわけだが。
酒を呑むことを考えれば、パソコンなんて安いと思うけどな。別に飲酒の価値を貶めるつもりはないが。呑む人だし、俺も。
猛烈に新しい Mac が欲しくなっている T です。こんばんは。
明日は休みなので、パソコン屋で壊れた Mac の行く末を検討しようと思うのだが、既に俺の頭の中では「買い替え」の文字が躍り狂っている。何とも間の悪いことに、そのパソコン屋からセールの DM が届いており、「Mac 新品が 2万円引きか」「下取り価格 15% アップか」などと詳細に検討し始める始末。誰か俺を止めろ。購入を防ぐには、もうキャッシュ・カード、クレジット・カードを破り捨てるしかない。
買うと思う、多分。良いじゃん。だって頑張ってるもん、俺。給料貰っても使う暇がないから、1回の買い物の金額を吊り上げるしかないじゃん。しょうがないじゃん。というムチャクチャなことを呑みながら考えている。
終日病院。テクニシャン K嬢と Western。テクニシャン S嬢には大学で実験をしてもらう。何度かヘルプ・コールあり。
明日は休み。2週連続で休日がある、と喜んでいたら、皆から哀れまれる。GW 以後、休むのはこれで 3回目、と言ったら憐憫の情を頂戴した。本当はもう少し休むことができるのかもしれないけれど、そのためには相当周到な用意をしておかないと、テクニシャン嬢達が途方に暮れることになりかねない。休みの前日は、そうならないための準備に時間と神経を取られる。結局、休まずに出張った方が楽だったりするので、ついつい休みをすっぽかして出勤してしまう。責任感、とは少し違うんだけど。
テクニシャンの方々との関わり合い方は、各先生、研究員ごとでスタンスが異なる。どんな職場でもよくある話だろうが、仕事の進め方によっては、深刻な不協和音が発生することもある。特に我らがグループでは、俺のような若造がプロジェクトを預かっているという特殊な事情もあり、そういう事態は極力避けたいと強く思っている。これでも気を使っているつもりなのだ。
しばらく日記はお休みとか言いながら、結局は更新している T です。こんばんは。
サイトにアップするかどうかはともかく、とりあえず簡単な日記だけは残しておこうとメモしていたのだが、どうせ俺のこと、必ずや手を加えていずれアップするに違いない。しかし、再編集してアップするのは二度手間である。ならば、ということで、普通に更新することにした。
Mac が壊れてから、いかに自分がパソコンに依存した生活を送っているかを再確認する。パソコンがない生活もたまには良いだろう、などと高をくくっていたが、2日目にしてネットレスの状況に耐えられなくなった。例えば、テレビでニュースを得るという行為の非効率性に眩暈がする。そういうことを、改めて感じた。
今は、仕事用のパソコンを持ち帰り、ネットにつないでいる。仕事を滞らすわけにはいかんので、いずれこういう羽目になるとは思っていたが。
終日病院。テクニシャン K嬢と SDS-PAGE、Western。一度教えたくらいで完璧にできるわけがない、というのは織り込み済み。早く成功できるようになるためには、何度も失敗してもらう必要がある。その余裕を作るのが我が仕事でもある。さっさと結果が欲しけりゃ、俺が土日に実験すれば良い。ということで、今週は多くの時間を実習めいたことに費やしている。実験に限らず、大抵のことは自分でやった方が速いわけだが、それだけでは色んなことが回っていかないんだよな。もちろん、俺にとっても貴重な勉強になっているわけで、これは愚痴でも何でもない。
浮き足立っている T です。こんばんは。
早めに仕事を終え、パソコン屋へ。昨夜壊れた Mac の修理を相談。症状を口頭で説明すると、どうも電源ユニットの故障が原因らしい。確かに、購入してからロクに電源を切ったことがない。24時間常に起動しっ放しだったし。思い当たるフシはある。
マザーボードの交換なら、最悪 10万円の修理費が必要だとか。そのくらいの金額になると、どうしても買い替えに心が動く。この前発売された、黒い MacBook なんて良さそうじゃないか。などと、展示品を見ていたら危うく購入しそうになる。いかんいかん。どちらにせよ、ハードディスクのデータだけは救出せねばならん。昨今の情報管理の厳格化にともない、訪れたショップではデータの吸出しサービスは行っていないという。修理をせずに買い換えるなら、まずはこの問題をクリアせねばならぬ。
大学 → 病院。ボスとディスカッション。
ワードパッドなどというものでこの日記を書いている T です。こんばんは。
日記を書いている途中で、プチンという音がしたと同時に Mac の電源が落ちる。以後、何をしても再び電源が入らない。これまでシステムは非常に安定していたが、しかしハードの故障では素人じゃ太刀打ちできん。ということで、仕事用の Win マシンでしばらく日記を書くことにする。この状態が続くなら、何かエディタをダウンロードせねばならんな。
大学 → 病院。核タンパク質を回収。サンプルの一部を液体窒素タンクの底に落とす。
ここ数日は寝酒を止めている T です。こんばんは。
呑むと寝入りは良くなるのだが、睡眠が浅くなる。無論、眠るために呑んでいるのではなく、旨いから呑んでいるのであるが、どうも体調が芳しくないので控えている。今日は、昼飯のお好み焼き定食が完食できなかった。
お好み焼き定食、なんていえば、「さすが関西人」という嘲笑とも称賛とも揶揄ともつかぬ反応が返ってくることがある。「全部炭水化物」というリアクションもよくある。ちなみに、焼きそば定食もそうである。というか、基本的に麺と飯のセット自体が一般的なのである、関西では。そば飯、なんてものもある。そういう意味で、究極のメニューはモダン焼き定食だろうか。
ヒドい場合だと、お好み焼きや焼きそばに、たこ焼きが添えられている場合もある。お好み焼きや焼きそばにはビールが合うけれど、これとて麦であり糖である。だから何だ、という気もするが。旨いから良いじゃないか。むしろ、なぜ関西以外ではこのような食べ方をしないのか、そちらの方が不思議である。合理的な理由でもあるんだろうか。謎だ。
大学 → 病院 → 大学。細胞の世話。来週の準備と計画。購入予定の機器について少し調べる。
もちろん、最低限のやるべきことはやる、という前提での話。
やるべきことが多いときは、鷹揚に構える(実際には難しいのだが)。優先順位の低い事柄は、スッパリ「やらない」と決めてしまう。この判断は早ければ早いほど良い。そして、その判断を翻してはいけない。やっぱりやれそうだ、と欲を出すとドツボにハマる。ハマらなかったとしても、大層疲れる。その影響は次のターンに現れるので、やはり、いずれどこかで線を引かねばならないのだ。ならば早い内に線引きしよう、というわけである。先送りではない。リカバリーに使える時間を長く確保するためである。そんなことに、最近は気を付けている。
今年度から急に忙しくなって、いささかムキになっていたようだ。先送りがいけないからといって、前倒しがエラいことにはなるまい。ボスから、「何でも一人でやらないように」というメールが来ていた。このオッサンの文言は、いつでも深読みできるようになっている。労っているのか、諌めているのか、煽っているのか、よくわからない。鷹揚に受け流しておく。
ヘタウマという言い訳が大嫌いな T です。こんばんは。
半年から 1年毎にリニューアルを施している「修羅場、どっと混む」だが、またぞろリニューアルしたくなってきた。前回のリニューアルで「raw data の隔離」を実現して以降、表示用の HTML に原理主義的なこだわりを持つ必要もなくなった。いっそのこと、バキバキに粉飾してやろうかと思っている。
一方で、棚上げしていた細かいシステム面での変更も進めている。この数日で、だいぶコードを削った。コードを減らして改善というのもけったいな話だが、このあたりの事情は「学習と着想」で書いている。この日記、よく読めば、最近書いた「思い付く」という日記とほとんど同じことを述べている。進歩がないなあ。
それを自覚できるだけでも、日記を書く価値があるというものだ。
病院 → 大学。細胞培養その他。
先日のディスカッションでボスから指令された実験を行うべく計画を練った。無理をすれば実行は無理ではない、というヒドい結論に達する。
石原慎太郎の公式サイト名が「宣戦布告.net」であることを知って爆笑した T です。こんばんは。
昨日は休日だったので何度も寝た。夢も幾つか見たが、その中から 1つ。
俺は本を読んでいた。タイトルはわからない。そのとき俺が読んでいた箇所では、方言丸出しの田舎者と都会の教育者が、天皇陛下について論じていた。詳細は忘れたが、なかなか面白い。確か、「お前のような賎民にも等しく陛下の御威光が届いているのだよ」とかいう結論だったと思う。結構アブないなあ。
次の章は「組織遺伝学」だった(断っておくが、前述と同一の書物である)。従来の遺伝学では、個体から個体への遺伝、あるいは特定の集団内での遺伝というものを主に扱っていた。一方で、胚発生、細胞分化では細胞レベルの詳細な遺伝子発現が精力的に解明されてきた。しかしそれでは不充分である、と著者は説く。分化し、組織化された細胞群が器官としての機能を維持してこそ、個体の生命は保たれる。組織が組織として成立機能するための遺伝子群、これらの解析が必要なのだ。逆にいえば、このシステムが破綻するからこそ「個体の死」が訪れる。
以降、著者の業績が紹介される。対象は、成熟した、もしくは老化に向かいつつある組織の遺伝子発現であり、「個体」という概念が頻出する。生物学の研究において「個体差」は忌むべきものだ。それは大抵の場合、「どうしようもないもの」として諦められる。意地悪く捉えれば、「実験精度の低さ」を表しているともいえる。だが著者は、精度の高い実験によって、個体差を発現遺伝子群の差異であることを示す。彼はなんと、遺伝操作によって、ある実験群における個体差を是正さえした。
これはスゴい。と思ったところで目が覚めた。もっと読みたかったのだが……。
元部長氏からバトン託されたので回答してみる。
よろしくお願い致します。スルーでも良いけど。ああ、こんな質問に答えたら行きたくなってきたじゃないか、カラオケ。
終日病院。テクニシャン K嬢に、引き続き Western を伝授。結果は上々。
それでもやっぱり、この世には不思議なものがあると思う T です。こんばんは。
このところ何度か書いている「問題化」について。まずは次のような質問はどうだろう。
「不思議」と「謎」の違いは何か?
あくまで言葉のフィーリングだが、俺の解答。
「不思議」は主観的、「謎」は客観的なものである。
不思議と思うから不思議なのであって、考えようによっては、それこそ京極夏彦ではないが「不思議なものなど何もない」という境地にも至れる。乱暴な話、「不思議」を考えるのが人文科学ではないか。「私とは何か」と不思議がれば哲学が生まれる。しかし、不思議と思わない人にとって、それは問題ですらない。人があるゆえに問題が発生する。「人」文科学とはよくぞ名付けたものだ。
一方、謎は、謎を認識せずともそこに存在する。「究極の粒子とは何か」「生命の起源とは何か」という謎は、誰一人そんなことを考えずとも、その謎自体が消滅するわけではない。またまた大袈裟にいえば、謎を解明するのが自然科学である。この分野における問題化とは、「謎の発見」を意味する。
「どうやら答えがありそうだ」というのが、謎の大きな特徴である。また、解答を与えられた謎は謎でなくなる、という性質もある。したがって、謎を謎として成立させるためには、それがいまだ謎のままであるかどうかを検証しなければならない。具体的には、過去の論文の検索などがそれにあたる。勉強しないと問題が現れないわけだ。逆にいえば、しっかりと問題を立てることができさえすれば、その謎の半分は解けたに等しい。問題化を重視する所以である。
不眠気味の T です。こんばんは。
なに、ナポレオンは 1日に 3時間しか眠らなかったそうじゃないか。世界の偉人の労苦を思い、自らを鼓舞する。まこと、歴史を学ぶ意義はそこにあるのだが、しかし、もう少し考えてみよう。
ナポレオンは「3時間しか眠らないことにしていた」のか、それとも「忙しくて 3時間しか眠ることができなかった」のかでは、大きく問題が異なる。仮に後者であるならば、まったく悲惨な話である。彼は胃病を患っていたという説もあるが、まさか睡眠不足が原因じゃないだろうな。
気になったので調べてみた。
一日三時間しか寝なかった話が有名だが、彼は昼寝をしっかりと取っていた。(Wikipedia - ナポレオン・ボナパルト)
何だよ、それ。
終日病院。テクニシャン K嬢に SDS-PAGE を指南。
水曜恒例の、ボスとのディスカッションを約2時間。毎週、なぜかこの時間帯は研究員室から人がいなくなる。皆どこに行ったんだ? おいでよ、怖くないから。
明日は今月初の休日。
もっぱら苗字で呼ばれる T です。こんばんは。
俺の名前は非常に特異性が高く、今日現在の Google で検索してみたところ、漢字だろうがローマ字だろうが、ヒットするのはとにかく俺自身のみである。同姓同名の人はいない。少なくともネット空間には。怖いことだなあ、と思う。
自らのアイデンティティを確認できる最も身近なものは、何といっても名前である。日本人の氏名は、姓にも名にも多様性がある。しかし、これは案外と特殊なケースかもしれない。中国語はあれほど膨大な漢字を有するのに、中国人の大多数の姓は、たった数種類の漢字に集約される。由来の異なる多数の氏からなるアメリカ合衆国では、ファースト・ネームのバリエーションが極めて乏しい。
日本人は名前に執着する。その上なお、本名はできるだけ口にしないという文化がある。昔は諱(いみな)という習慣があった。本名があるというのに、幼名を付け、俗称を名乗り、渾名を付けられ、役職で呼び合い、俳号雅号を称し、死んでからは戒名が贈られる。思えば、実名が必要になるのって、何らかの公的な場合がほとんどだよなあ。
午後から大学で講習会。
のはずだったが、朝から電話で叩き起こされる。しかも隣の研究室から。Q-PCR をかけたいのだが、プライマーを注文し忘れたので貸してくれ、と。アホか。そんな実験やめちまえ、と普通なら怒鳴りつけるところだが、相手は他のグループの年下テクニシャン嬢。大きな声を出すわけにもいかぬ(別に相手が誰であろうと、職場で大声は出さないが)。
ところがその後、隣の研究室には以前にも同じプライマーを貸しており、その残りが見付かったので新たに貸す必要はなかったということが判明。あのなあ、俺はサポート・センターの中の人じゃないんだよ。
さて、大学の話に移ろう。講習会のテーマは「生命倫理」。退屈かと思ったが、なかなか面白い話もあった。印象に残ったのは、「倫理とルール」。また機会があれば書いてみたい。
何度か「修羅場、どっと混む」のロゴを自作した T です。こんばんは。
昨夜も 1つロゴを作ってアップしてみた。今日はロゴの話を少し。
「修羅場、どっと混む」のロゴは結構難しい。「修羅場」も「混む」も、意味的にとても強い単語である。なので、これらの文字は太いゴチック体にしたいのだが、「修羅場」「混」は比較的画数の多い漢字であり、サイズを小さくするとすぐに潰れてしまう。かといって、なよなよとした書体ではイメージにそぐわない。最近では「shuraba.com」という表記を使うことが多い。
「shuraba」という文字列は、絵としても気にいっている。「h」と「b」が、ちょうど線対称の位置で頭を出しており、何となくスマートな綴りである。これが「syuraba」だと泥臭い。
我がハンドルネームである「T」は、アルファベットの中でも特に面白みのない文字である。1文字だけで使うのは、かなり以前に諦めた。
古くからの読者は覚えておられるかもしれないが、このサイトの主なカラーには、ずっと白、黒、灰色、そしてアクセントに赤 (#993333) を用いていた。個性が強いために扱いが難しく、ここしばらくは使っていない。好きな色なので、効果的な場所を思い付いたら、また登場させたいと思っている。
病院 → 大学。
今日はなかなかハードなスケジュールで、実験していたらアッという間に時間が過ぎていた。テクニシャン嬢 2人にも 20時半まで働いてもらい、申し訳なく思う。彼女達の終業時間は 19時である。できるだけその時刻に仕事が終わるよう、頭を絞って予定を立てているつもりだが、なかなか難しい。彼女達の給料を払っているのは俺じゃない。定時に帰れるように計画するのが我が仕事である。
明日は遅出早退の予定。少しはゆっくりできると良いのだが。
ドイツ W杯の日本初戦 (vs オーストラリア) の中継をラーメン屋で聞きながら晩飯。日本が 1点を先制し、前半を折り返したところで帰宅。興味がないので、後半生は視聴していない。
25歳の健康な独身男性という、風俗産業のターゲットとしてはストライクもストライクなプロファイルの T です。こんばんは。
我が豪邸に、デリバリー・ヘルスのチラシが舞い込んでいた。以前の豪邸ではよく見かけたが、京都はその手の条例が厳しいのか、今回が初めてである。それはともかく、デカい乳を誇示しながら微笑んでいる女性の写真の横には、次のような 3つのコースが記載されている。
さて、各コースにおける第2項の数字には単位がない。常識的に考えて恐らく料金、そして単位は円であろう。まさかドルではあるまい。この仮定を踏まえて、幾つかの計算を行う。まず、単位時間当たりの料金を求めよう。
この結果から、100 min/3万円のコースが最もコスト・パフォーマンスが良い、という結論が得られる (3万円が払えるならば、だが)。解せないのがコース 3. である。普通、絶対的な金額が高いほど、単位当たりの価格は安くなる。しかしこのコースを希望する人は、コース 2. を所望した人間と単純に比較して、20分に対して 1万円を支払っている。いくらなんでもこれは高過ぎだ。と同時に、「これは何か理由があるに違いない」という極めて邪(よこしま)な欲望を煽りもする。
経営者側のことを考えてみよう。客が享受するのは純粋に 60分ないし 120分なりの時間のみであるが、労働者は 1回のコース毎に準備を要する。この時間を x min (x > 0) と置けば、冒頭の料金体系は、経営者にとって次のようになる。
単位時間当たりの売り上げ y (円/min) を求めよう。
それぞれの方程式をグラフにしてみる。
黒がコース 1.、青が 2.、赤が 3. である。3つのグラフは興味深い点で交差している。準備時間 x が 10分程度と短ければ、最も収入が多いのは 1. である。しかし 30分より長くなれば、1. は最も低収益となってしまう。この 30分という数字が極めてリアルで面白い。チェンジなどされようものなら、目算が崩れてしまうわけだ。
ま、知ったこっちゃないが。
「忙しい」とは「ある時間内にしなければならないことが多い状態」であり、拘束時間の長さは関係ない。「忙しい 5分間」がある一方で、ヒマな拘束が長時間に及ぶこともある(もちろん、忙しい状態が長く続くというケースもあるが)。
いや、ただそれだけなんだけど。何らかの優劣を論じているわけではない。念のため(「多忙論」参照)。
終日病院。細胞の世話、来週の実験の準備。
比較的のんびりとした 1日を過ごした T です。こんばんは。
午前中だけ病院。細胞の世話を少し。午後からフリー。
職場でも既婚説が流され始めて久しい T です。こんばんは。
大学のラボでもサークルでもそうだったが、俺は未婚である(過去に結婚した経験もない)。
とかいいながら、夢の中の俺はしばしば結婚している。昨夜の夢でもそうだった。
仕事で遅くなった俺は、最近ずっとこのような状態が続いていることに改めて気付く。せめて今夜は、妻と子供達 (2人) のためにケーキでも買って帰ろうと思った。ところが、当然そのような時刻にケーキ屋が開いているはずもない。ある程度以上に見栄えの良い菓子を求め、俺はコンビニを 3軒、はしごした。コンビニとはいえ、賞味期限の厳しい生菓子はそろそろ引き上げられる時刻であり、家族の数だけ手に入れるにはそれだけの手間が必要だった。
帰宅した俺は努めて愛想よく振る舞いながら、妻に「ケーキを買ってきたから食べよう」と提案した。一瞬の沈黙の後、妻は悲しみと不愉快の入り交じった微妙な表情を浮かべた。妻は、肩の辺りで切り揃えた髪にソバージュをかけていた。なぜかこの髪形が強く印象に残っている。と同時に、こんな髪形の女が俺の妻であるはずがないという、メチャクチャな感想が湧いてきた。今思えば、このときに覚醒するべきだったのだろう。だが、夢はもう少し続いた。
「こんなものを買ってくるヒマがあれば、」妻は足の爪先でローソンの袋に触れた。確かソバージュはフランス語のはずだ。緊張のあまり俺はそんなことを考えた。「もう少し早く帰ってくれば? ん?」
ここで目が覚めた。嫌な汗をかいていた。夢としては面白いが、他人に話すのは躊躇われたので日記に書いてみた。
終日病院。大過なく終了。
思い付きは大事だと以前から主張している T です。こんばんは。
論理的に「思い付ける」か?
「思い付き」とは論理的脈絡もなく湧いてくるようなイメージがあり、それは「天啓」という言葉にも表れているが、しかし「思い付き」は必ず意識あるいは無意識と結びついている。難題を攻略するための妙案を思い付くのは、必ずその問題に対して頭を絞り抜いた後であり、論理的な因果関係は必然的といっても良い。
「思い付く」とは自動詞であり他動詞でもある(『広辞苑第5版』)。重要なのは、思い付きを思い付きとして思い付けるか、すなわち自分の意識的な思考の結果として辿り着けるか否かにある。例えば「誰も思い付かなかったようなアイデア」は、「これまで思い付かれたもの」を列挙するという消去法によって(原理的には)思い付けるはずである。
このようなプロセスは、ある種の解答を探す上では有効かもしれない。だが、本当に重要なことは「問題化する」ことであって、こちらの方が難しい。例えば、今日の「論理的に思い付けるか?」という問題をどのようにして思い付いたのか。自分のことでありながら俺には説明できない。せいぜい「問題意識を持っていたから」と答えるしかないが、これは原因を述べているだけで経過の解説ではない。
自在に思い付くことができたらなあ。
終日大学。細胞の sorting。前回の移植時には思った数の細胞が集まらなくて悔しい思いをしたものだが、あれから培養・解析方法を様々に工夫し、今回は(少なくとも以前より)良好な結果を得られた。予備実験ではあったが、意を強くする。
色んな人の話を聞いてみるもんだなあ、と思った T です。こんばんは。
昨夜は遅くまで、多群兄とメッセンジャーでの会話を楽しんだ。彼とはよくネットの話をするのだが、そのたびに、俺は「ここ」で何をしているのか?という疑問を再認識する。これは一般論ではなく、あくまで俺個人の問い掛けである。つまるところ、いったい「修羅場、どっと混む」とは何なのか。うーん。何だか哲学的深刻さが漂うなあ。そうじゃなくて、実際には、もっと単純な気持ちなんだけれど。
終日病院。ボスとディスカッション。
皆が帰った後、研究員嬢と 2人になってしまったので、とりとめのないことを話した。彼女は生物学系の修士を出て、今春から我がラボで働いている。つまり経歴は俺と同じで歳が 1つ下。「将来どうしたいの?」と何気なく尋ねてみたところ、意外と熱い答えが返ってきたので話が盛り上がった。ヘラヘラしているだけの女の子かと思っていたが(さすがに失礼だな)、いやはや、話してみるもんだなあ。
臨床検査技師嬢が「辞めたい」とこぼしていた。理由はよくわからない。俺は偽善者ではないし、継続そのものを目的とすることに何ら価値を見出していないので、「辞めたければ辞めれば?」というようなことをオブラートに包んで伝えた。しょせん最後に決断するのは自分である。とても哀しいことだが、他人には何もできないんだよな。
何事でもそうなのだが、怒ったり、優しくしたり、面白くしたり、つまらなくしたり、そういうことは簡単なのである。他人と接するときに自分の厳しさを保てるか。これは実に微妙な問題で、保つのが良いことなのか悪いことなのか、今の俺にはよくわからない。相手のことを思うのが相手のためなのか。極めて矛盾したクエスチョンがそこにある。
ガラでもない日記だな。つまらん。
今月こそ溜まりに溜まった書評を片付けたいと思っている T です。こんばんは。
30冊くらいあるんだけど、とにかく何か書いておきたい。「この時期にこんな本を読んでいた」というのも立派な記録の一つだ。何が重要であったかなど、なかなかそのときにはわからぬものである。研究日記を箇条書きするようになって、ともかくも毎日更新するようになった。「書評」などと肩肘張らず、本の紹介もさらりとやれば楽になるかもしれない。ま、ボチボチ頑張ろう。
ところで。まとまった日記を書くようになってから、「俺が書いたことが本に書かれてある」という現象に、散発的に出会うようになった。もちろん、丸パクリの日記は書いたことがないし、その本を書いた人が俺の日記からパクることも考えられない。要するに偶然なのだが。いや、むしろ、それは「ありふれた考え」なのかもしれない。なかなかに微妙な経験ではある。
大学 → 病院 → 大学。ボス、助手先生と共に他科の ES 細胞培養施設を見学させて頂く。研究計画の申請に関するあれこれなども伺う。
ひょっとして、写「真」を撮るのは難しいのではないかと思った T です。こんばんは。
そういえば昨日、3週間も前に購入したカメラをようやく使ったのだった。初めての写真がこれ。
我が書斎の写真なのだが、どうにも自分の部屋とは思えぬ。工夫すればするほど現実から遠のいていくのは何故?
病院 → 大学。新しい細胞凍結法を試みる。ちゃんと復活するだろうか。夜はセミナー。大学に寄って、機器の予約を取ろうと思ったら先客あり。
何でも良いからとにかく日記は埋めておこうとしている T です。こんばんは。
昼過ぎまで熟睡したのは久し振りだ。腹が減ったので日が高い内から焼き肉を食う。ビールを飲みたくなるが、仕事があるので我慢する。
夕方から病院。細胞の世話と来週の準備。最近はどうも仕事関係の愚痴が多いので改めようと心する。
手相を見てもらった T です。こんばんは。
病院 → 大学。
病院では培養細胞、大学では実験動物の世話。今日は最低限の duty だけをこなして遊びに行く。
ビールが旨い季節になってきた。焼き鳥を食ってからバーへ。バーから帰るとき、いつも某占い師の前を通り過ぎて行くのだが、今日は思い切って手相を見てもらった。金を払って占ってもらうのは初めてである。生年月日を告げた後、両手の手相を検分されながら様々なアドバイスを頂戴する。
以下に、手相に関する豆知識や、今後の俺の運勢を箇条書きしておく。
俺は占いを信じていないが、占い師の話術という「芸」を堪能できたのは楽しかった。基本的に良いことしか言われないので、悪い気はしない。構図としては、ホステスがとにかく客をヨイショするのと変わらないんだよな。だからこそこっちは金を払うわけだが。35歳以後に運命が変わるらしいので、10年後にまた占ってもらおう。
部屋を掃除した T です。こんばんは。
バーから手紙が来ていた。先月上旬の誕生日に花を持っていったのだが、それに対する礼状である。和紙に達筆な文字で「結構な御祝のお品を賜わり」とか書いてあったのでビックリした。ただのオッサンだと思っていたが、見直したよ、マスター。明日にでも飲みに行こうかな。
歌詞は詩である以前に、メロディに乗せて歌うものである。したがって、卑しくも「歌詞」の翻訳を行おうとするならば、訳後の詩も同様に「歌える」ものにしなければならぬ。と昔から思っているのは俺だけか。
例えば、The Beatles『Yer Blues』の冒頭は次のように訳されている。
Yes I'm lonely, wanna die
Yes I'm lonely, wanna dieそうさ 俺は淋しいんだ -- 死んじまいたいぜ
そうさ 俺は淋しいんだ -- 死んじまいたいぜ(山本安見・訳)
こんな冗長な訳で『Yer Blues』の哀しみは表現できない。俺が「歌える」訳詩を考えたので書いておく。
さみし〜い 死にた〜い
さみし〜い 死にた〜い(T・訳)
『Yer Blues』を知っている方は是非とも実際に歌ってみてほしい。マジでヘコめる。
終日病院。パソコン仕事。今日は実験も控えめして、皆で早めに上がる。
今週は割と早めの帰宅が多い T です。こんばんは。
朝からガーッとパソコン仕事をして、気付いたら宵の口。そんな時間からではロクな実験もできず、何となく早めに帰っている。
終日病院。ある細胞にカビであろう何かがコンタミして全滅。これで来週は実験せずに済むぞヤッホー! なわけない。
テクニシャン嬢 2人と晩飯。複数の若い娘と飯を食うのはエエのうガハハ。なわけはなくて、実態は財布係。しかし、俺のような若造が何とか仕事をさせてもらっているのは、これ全て彼女達のおかげ。実際問題、彼女達が自分の境遇をどのように考えているのかを想像すると、俺は身震いせざるを得ない。他のグループは能力地位責任のある先生方に率いられているのに比べ、暫定的措置とはいえ、俺のような何の実績もない人間の下で実験していることに、彼女らは不満を感じていないだろうか。「若輩者ですから」などという言い訳は、他のグループと同じ給料で働いている彼女達には通用しない。俺が大変なのは俺が未熟であるからで、そんなことは彼女達には何の関係もないのだ。理解してほしいとは思うが、それを求めることは「甘え」であり、求めてしまった男は大抵がバカにされる。当然の報いであろう。そんなヒマがあるなら仕事しろというね。
いや、まァ、彼女達はよく理解してくれているんだけれど。感謝。