欠かさず『範馬刃牙』を立ち読みしている T です。こんばんは。
範馬勇次郎とゴルゴ13 はどちらが強いのか。そういう話題をときおり見かける。しかしこれは非常に比較が困難で、それは各作品のリアリティーが違うからではないか。
リアリティーは虚構と対立するものではなく、その矮小な裏返しに過ぎない。「リアルだね」という感想には、「虚構にしては」という枕詞が言外に含まれている。「リアルであること」が成立するには、それが虚構であるという認識が前提として必要とされる。リアリティーの極致に到達した写実的 CG があったとしよう。これを見た人はどう思うだろうか。それが CG であると知っていれば、「リアルだ」と感じるだろう。知らなかったとすれば? 写真、つまり現実と思うに違いない。リアルであるためには、現実であってはならないのだ。
これらをひっくるめた上で、我々は「リアル」という言葉を使っている。このカタカナがカタカナのまま広く浸透しているのは、それが「現実」という日本語と必ずしも一致しないからで、要するに別の単語なのだ(日本語の枠組みにおいては)。「STAR WARS」新3部作を観賞した人々が、「リアルだね」と感想を語り合うとき、共同幻想ならぬ「共同現実」とでも表現するべき感覚が立ち上がる。それがあるから、「リアルだ」という印象を共有できるんじゃないか。
前置きが長くなってしまった。自然科学は結局、延々と共同現実を築き上げる行為なのではないかという話をしたかったのだ。もっとも、これは科学の「結果としての一側面」であって、もちろん全てではない。とだけ書いておいて話を進める。
例えば、教科書のイラストの問題がある。原子は原子核の周りを電子がブンブンと飛び回っているわけでは決してない。太陽系に惑星の楕円軌道が白い線で描いてあるわけはないし、ブラックホールはラッパのような形をしているわけでもない。細胞生物学のテキストの 1ページ目に描かれてあるような動物細胞や植物細胞はいまだに発見されていないし、物体の落下を放物線で表現する物理学は今もって N体問題を解決していない。
科学的探求と、その成果を端的に図示する秀逸なイラストは我々に共同現実をもたらすが、それが現実そのものでないことは、学べば学ぶほどに明白となってくる。我々は極めてリアルな世界に住んでいる。そういうことが、ちょっとわかってくる。
「とてもリアルだ」という感情が極めて新鮮な驚きを提供することは、多くの人が知っている。研究者が結果を出したときに「オーッ!」などと叫ぶのも、基本的には同じ原理である。と思ってほしい。バンドが出たり、細胞が光ったり、数値が跳ね上がったりしたその瞬間、彼の仮説という虚構は、極めてリアルに現実へと落とし込まれたわけだから。
だから、あまりヘンな目で見ないでね。ヘンな人であることは認めるけど。