- 研究、オッズのない競馬

2006/04/06/Thu.研究、オッズのない競馬

馬券を買ったことがない T です。こんばんは。

研究日記

自分で自分の首を絞めることになりかねないのだが、研究費の話をもう少し。

研究費の源泉は(例外を除いて)税金である。研究者の給料もそこから出ている。一度「研究と報酬」という文章を書いたことがあるが、実際に自分が金銭を受けとるようになった今、もう少し現実的な話をしてみたい。

研究において、日々の労働が金銭的な価値を持つかは疑問の余地がある。研究で唯一価値があるのは結果である。もちろん経過にも意味はあるけれど、結果が出た後でないと気付くことはできない。結果を出すためには日々の労働が必須であるが、働いたからといって確実に結果が出るわけではない。「日々の労働が金銭的な価値を持つかは疑問」とは、そういう意味である。

したがって、研究者の日々の労働には、警官が毎日パトロールするとか、教師が日々学生に講義をするなどといった、その日その日の金銭的な価値は認めにくい。つまり、研究者に対する報酬とは、「日々の労働そのもの」ではなく、「そこから期待されるであろう結果」に対して支払われているわけだ。身も蓋もない言い方をすれば、常に無駄となるリスクが存在する。であるから、長い間、研究に投資されてきたのは、見返りを求められることがない余剰金だった。貴族がパトロンであったことも多い。その点、ほとんど芸術と変わらない。

やがて、科学的研究の成果が、人類に莫大な富や幸福をもたらすことが認識されるようになった。研究という行為は万馬券を買うようなものだが、ひとたび当たれば、それは万馬券どころか億馬券にも兆馬券にもなるのである。ハズれる場合が圧倒的とはいえ、買わないことには馬券は当たらない。そこで、先進国や、先進国になりたい国(明治期の日本など)は、国民のため(あるいは国家自身のため、人類のため)に政府が税金で馬券を買うようになった。それが研究費である。

昨日の日記で書いた試薬・機器の費用は、いわば馬草代のようなものであろう。職業的研究者は、どこに走り出すかもわからない馬にまたがったジョッキーである。オッズはない。ゴールできるかどうかもわからない。手綱にしがみつくだけで必死な者もいる(俺のことだ)。

上で「職業的」とわざわざ断ったのは、職業的でない研究者もいる(いた)からである。彼らはゴールを目指すわけでもなく、思い思いに草原を駆け抜ける。例えば、古代の哲学者(自然科学者でもある)はそんな感じだったのだろう。羨ましい限りである。

酒日記

久々に行きつけのバーへ。本当は毎週でも通いたいのだが、そうすると依存症になることは目に見えている。なので、疲れたときとか、ストレスフルなときにだけ訪れることにしている。おかげで、アルコールがいつも美味しい。

飲屋街の桜がとても幻想的で美しかった。残念ながらカメラを携帯していなかったので、来週にでも再訪しようかと思っている。桜が散っていなければ、だが。