- 行儀と社会

2006/04/02/Sun.行儀と社会

最近は食欲旺盛な T です。こんばんは。

毎月、食費のほとんどを(ただ 1軒の)コンビニに突っ込んでるような気がする。

行儀の汎用性

俺はこれまでに 3つの街で暮らしたが、それらのいずれもが、人口数十万人規模の都市である。地方に住む人は、「都市の人間は行儀がなっていない」というし、都市に住む人は「地方の人間は行儀が悪い」と思っている。恐らく、どちらも真である。なぜなら、都市と地方では「行儀」そのものの概念が違うからだ。そんなことを考える。

都市では、隊伍を組んで電車を待たねばならず、エスカレーターでは片方を空け、混み合った店で手早く勘定を済ませねばならない。逆にいえば、そのようにしなければ回っていかないほどの人間が都市に集中している(あるいは、そのような場所が都市である)のだが、ともかくも、これが都市における「行儀」であって、その実践は、隣人に挨拶することなどよりもよほど重要である。むしろ、隣人に気軽に挨拶するという「野蛮な」行為は、互いの安寧を犯し、生活に負担をかけるという意味で「悪」ですらある。昔ながらの行儀とは、少し趣が異なる。

俺がいいたいのは、国によって礼儀作法が違うように、この狭い日本でも、場所によって求められる行儀が違うという事実である。したがって、優劣は存在しない。だのに、一つの物差しで全国津々浦々の「行儀」を測定しては、特定の地域や年代を非難する。これはおかしいのではないか。

とはいえ、行儀の発生を考えるならば、行儀が細分化されることはあまり望ましくない。「行儀論のための覚書」でも書いたように、行儀は身体言語である。言葉が理解できなくとも意味が通じるというのが、最大の利点だ。尊敬や服従の意を示したければ、頭を下げれば互いにそれとわかる。したがって、行儀はなるべく共通のフォーマットを持った方が便利である。渡航したサムライ達が、そのたたずまいを絶賛されたことを思い出せば良い。「都会の奴め」「田舎者が」などというレベルに比べれば、その汎用性は驚異的ですらある。

階層のない社会

話は飛ぶが、「階層のない社会」というのはあり得るのだろうか。というか、階層がなくなっても、まだそれは「社会」と呼べるのだろうか。定義の問題だが。

「格差をなくせ」と叫ぶ輩は、社会を潰したいのだろうが。「社会のため」とか言ってるけど。