年度初めから休日出勤の T です。こんばんは。
昨日の日記で、「芸術はテクニックで作り得る」と書いた。およそ芸術作品とみなされる以上、必ず何らかのテクニックが使われている。問題の焦点は、「作成者がテクニックに対して意識的であったか否か」にある。
我々は芸術に対して幻想を抱いているので、そこに技術というものを意識したくない。また、作成者が意識せずに創ったものの方をありがたがる。そのような作成者を「天才」だとも思ってしまう (というか、思いたいわけだ)。
ダ・ヴィンチやピカソ、ダリなどは、テクニックに対して相当意識的だったような印象がある。一昨日の日記で触れた筒井康隆もそうだ。こういうタイプの芸術家は、現世的な成功も享受しているような気がする。一方で、テクニックに対して意識的ではないゴッホのようなタイプは、どうも不遇である。モーツァルトもそうかもしれない。しかし、「天才」「芸術家」という言葉で思い浮かぶのは後者のタイプである。
繰り返すが、後者のタイプがテクニシャンではないと主張しているわけではない。自分の創作を、人が見て評価する「作品」として考えるとき、どのようなモノが求められ、そのためにはどのような技術を用いて構築すれば良いか、ということを知悉しているのが「意識的タイプ」なのである。ポール・マッカートニーがそうだな。ジョン・レノンはその反対。あくまで感覚的印象だが。数学者も 2種にわけたら面白いだろうな。
言うまでもないが、テクニックに意識的であるかどうかと、作品の質は全く関係がない。ゴッホの絵を我々が画集で眺めるとき、その絵は、「写真」という技術で模写された絵であるともいえる。少なくとも、ゴッホの絵ではない。印象派の一派だといったら極端だろうか。しかし、どちらからも『糸杉』の感動は伝わってくる。両者が、同じ信号パターンを持っているからだ。それが、「芸術はテクニックで作り得る」ことの意味である。
撮ったらそれなりに楽しいとは知っていながら、なかなか写真を撮影しない俺。日記に必ず 1枚は写真を載せることを義務化しようかと思ったが、どうも面倒臭い。携帯電話のカメラを使い、写真はメールに添付してアップロード、というのも考えたが、どうも画質に満足できない。俺が欲しいのはカメラ付きの携帯電話ではなく、通信機能付きのデジカメだということに気付く。
いつも写真を撮るときには時間がかかる。顕微鏡の写真を撮るような感覚で、気に入った構図は条件を変えて、数バージョン撮影する。観光地に行ったときは大変だ。とにかく人が入らないように、何分でもその場に立って待っている。何をしに行っているのかわからない。よほど写真が好きな人だと思われているかもしれないが、単に、夾雑物の入った写真はダメだと信じ込んでいるだけである。細胞の写真を撮ってるんじゃないんだから、と自分でも馬鹿馬鹿しく思うが、性分なので仕方がない。
「俺も大変だったんだから」という言葉は、要するに「俺も苦労したのだからオマエもしろ」という意味であることに気付く。同じ苦労をしていたのでは、社会の進歩は期待できない。このような物言いが、その人を老人にしていく。また逆に、先人と同じ苦労をしていたのでは、およそ先が見えている。無論、苦労と努力は違う。楽をする努力が必要だろう。
二酸化炭素の削減を促進するため、環境省は 20時に消灯するという。そんなに二酸化炭素を削減したいのなら、環境省をなくせば良い。と思うのは俺だけか。何やってんの、環境省って。