- Diary 2006/04

2006/04/28/Fri.

GW は遊び倒すつもりの T です。こんばんは。

ブラック・ジャックと外科

ブラック・ジャックが外科医で良かった。「天才外科医」であるがゆえのブラック・ジャックであって、「天才耳鼻咽喉科医」とか「天才泌尿器科医」ではダメなのだ。泌尿器科医では、少年漫画誌での連載も危うい。

外科が、他科に比べてドラマになりやすい理由を考えてみる。

  1. 医師個人の技量が治療行為に占めるウエイトの高さ
  2. 症例の緊急性
  3. 絵的に派手

ブラック・ジャックが無免許医師であるかどうかよりも、彼が外科医であることの方が『ブラック・ジャック』という作品にとって重要だと思うのだが、それを指摘した評論は見たことがない。彼が外科医でなかったら、ピノコというキャラクターは生まれなかったし、ドクター・キリコとの確執もまた生まれなかった。ドクター・キリコと花粉症の治療で対決してもしょうがない。やっぱ外科じゃないと。

研究日記

終日病院。ウエスタンと、細胞の遺伝子組換え。その他、GW に向けて培養細胞の始末など。明日、明後日は休み。久々の連休。今月は本当に大変だった。

牛丼 → バー → お茶漬け、というルートで帰宅。相変わらずバーの客は俺 1人。GW にまた来よう。

2006/04/27/Thu.

それがなぜ価値を持つのかを理解するのは難しいと思う T です。こんばんは。

小噺

「なぜ山を登るのですか?」
「理由は山ほどある」

研究日記

病院 → 大学。病院ではタンパク質の免疫沈降。大学では細胞の免疫染色。最初に断っておくのを忘れたが、ここに箇条書きしているのは、実際に俺自身が手を動かした実験のみである。その他に、テクニシャン嬢 2人に実験の指示を出したり、事務的な仕事もあったりするのだが、それは毎日のことなので省略する。

現在の生物学が、その記述において他の基礎科学と大きく異なっている点は、図版を多用することであろう。実際、イラストがなければ理解できない現象や概念が多い。数学や物理、化学は圧倒的に記号 (これも一種の言語だ) の世界である。記号によって表現される宇宙は、すなわち抽象性、一般性、普遍性が高く、高尚であるというイメージも強い。

自然科学において、「原理原則はシンプルだ」という指向性は、ほとんど神話的といっても良いほどの響きを持つが、実際にそうであるという保証は何もない。この命題が真であることを経験的に我々は知っているが、それとて、そう思い込んだ人類が「シンプルになるように」科学的体系を築き上げたという疑惑までは否定できない。生物学の大きなテーマに、「多様性に潜む一般法則の発見」があるけれども、本当にそんなものが隠されているかどうか、頭の片隅で疑っていないと思わぬドツボにハマり込む可能性がある。メカニズムが違うから結果も違う、という方がよほど自然なのだ。そこから出発しているからこそ、普遍性が価値を持つ。誤ってはならない。

2006/04/26/Wed.

あちらを立てればこちらが立たずの T です。こんばんは。

研究日記

病院 → 大学。大学で細胞の sorting。どうしても思った数の細胞が集まらない。困った。実はこの細胞を動物に移植するのだが、その手術日が今日なのである。何回か予定されているうちの第1回目なので、まだそれほど殺気立ってはいないが……。改善点が多い。思わず溜息。

Sorting した細胞を持って動物の手術室へ。実験といえども本式の手術であり、設備も人間用と同じ。オペをして下さるのは、もちろん外科の先生。大型哺乳動物ともなると、手術も迫力がある。色々と珍しい経験をさせて頂いた。が、疲れる。

2006/04/25/Tue.

帰りが遅くなったときには電車の中で本を読むのも面倒臭く、音楽でもボーッと聴きたいなあ、と思うこともある T です。こんばんは。

iPod で音楽を聴いている人を見るにつけ、この人は音楽を聴きたいのか、それとも iPod を持ち歩きたいだけなのかという疑念が湧く。他の携帯プレーヤーが大抵はポケットやカバンの中に収まっているのに対し、iPod の露出率は異様に高いという事実が更に疑惑を強くする。この疑惑は当然俺以外の人間も持つであろうし、もし俺が iPod を所持したならば、おお、疑惑の視線は他ならぬ俺に向けられるのだ、という想像が iPod の購入を躊躇させる。俺は Mac歴 10年以上のアップル・ユーザなのだが、という妙な自覚がいよいよ考えを歪ませ、いったい iPod が欲しいのか欲しくないのかがわからなくなるというバカげた事態が出来する。

そういえば以前、元部長氏の、「あの白いイヤホンが発する『これはiPODです』という主張がどうも街中では恥ずかし」いためにイヤホンを交換したら落ち着いた、という日記を読んで爆笑したことがあるが、モノへのこだわりがある人を斜めに構えさせる何事かが iPod にはあるようで、ひょっとしたら、こんな日記を書いている時点で俺は負けなのではないか、という気もする。

俺が iPod を躊躇なく買えるよう、Microsoft や Sony には頑張ってほしいものだ。

研究日記

今日は終日病院。移動がないだけで随分と身体が楽である。などと爺むさいことを書いてみる。外回りの仕事をされている方の辛さがわかってきた今日この頃である。

以下は一般法則。「給料が安過ぎるぜ」と公言できるくらいに働かないと、実際に給料の上がるようなポジションは得られない。自分の働きと給料が吊り合っている人は、吊り合っているがゆえに昇給は望めない。簡単な資本主義である。ということに気付く。遅いか。

「給料が安い」と大いに思うべきだ。

2006/04/24/Mon.

博士とは立派な人であるべきだと思う T です。こんばんは。

研究日記

病院 → 大学 → 病院。病院で通常業務をこなした後、テクニシャン嬢を伴って大学へ。抗体反応させた細胞の sorting。難しい。病院に戻ってセミナー発表。1時間ちょっと話す。22時帰宅。

先生の留学が間近に迫っているが、業者W の T田氏はそのことを知らなかったようだ。「では、テクニシャン嬢のことや、先生の仕事の引き継ぎは誰か後任の方が?」と尋ねてくる。普通はそう思うだろうな。先生は医者であり博士である。その穴は、しかるべき人物によって埋められるべきだろう。しかしやんぬるかな、バトン(というか抱え切れない重荷)を託されるのは俺なのだ。

そのことを知らされた T田氏は、何ともいえない微妙な笑顔でこう言った。「大変ですね」。大変だよ。「また肩でもお揉みしますよ」とまで言われた。馬鹿にされているのかと思ったが、まァそういう人物ではない。要するに心配されているわけだが、最も心配しているのは、いうまでもない俺である。やっていけんのか、ホント。周りにいるのは妹のような年齢のテクニシャン嬢ばかりで、愚痴ることすらままならぬ。ポスドクを雇おうよ、ボス。

2006/04/23/Sun.

所持している筒井康隆の本が 100冊に達した T です。こんばんは。

悪書

悪書という、実に奇妙な本の一群があって、これらは建前上、「読むべきではない」ということになっている。しかしこの言葉、どう考えても、悪書を読むことを煽っているとしか考えられない。黙っていれば誰も読まないのに、わざわざ悪書として宣伝している。その証拠に、大きい本屋に行けば、悪書は定番の書物として必ず陳列されてある。「まずい。もう 1杯」と似ている。

終わらない物語

人類の夢の一つに、「終わらない物語」(never ending story) の創造があると思う。『南総里見八犬伝』や『大菩薩峠』のように、ただ長いことそれ自体が存在意義の全てであるような物語もある。『グイン・サーガ』もそうだな。

例えば、100年間必死に読み続けても読み切れない分量の物語があったとしよう。それは完結した物語ではあるけれども、一個人が生涯の間に読破できないという意味で、読者にとっては事実上、「終わらない物語」である。もちろん、それほどの膨大な物語を単独の作者が綴れるわけはないから、グループ、もしくは何代かに渡って書かれる必要があるけれども。

これはゲームの話だが、『トルネコの大冒険 不思議なダンジョン』は、コンピュータを用いた「終わらない物語」の嚆矢ではないかと思っている。以下、簡単に説明する。ダンジョン形式の RPG では、製作者が用意したダンジョン・マップを踏破すれば、物語としてのゲームは終了する。ところが、『トルネコ〜』ではダンジョン・マップが自動生成され、その気になればいくらでも「先」に進めることができる。生成されるマップは、ある範囲内でのランダムさを伴っており、(極めて好意的に書けば)「先」を予測することができない。「終わらない物語」の要素を、ある程度実現しているといえよう。事実、『トルネコ〜』以後、多数の RPG にランダム・ダンジョン・マップが搭載されるようになった。

とはいえ、不満も多い。ダンジョンに登場するアイテムやモンスターの種類は有限であり、無限に続くダンジョンの中でそれらは使い回される(地下 1階には「薬草 Lv. 1」が出現し、地下 10階では「薬草 Lv. 10」が出現する、という感じ)。このような単純さは、「物語」の魅力を半減させる。我々が求めている「終わらない物語」は、普通の物語と同程度には複雑で面白い必要がある。終わらなければ良い、というものではない。

プログラムで「終わらない物語」を生成するならば、あらかじめ用意された材料を使うというだけのアルゴリズムではダメだ。これを回避する方法の一つとして、創発性が考えられる。一言でいってしまうのは簡単だが、しかしこれは相当に難しい。だが、全く不可能というわけでもない。創発性の著名な成果として、生命現象が挙げられる。地球の環境が永遠に安定であるならば、生命進化は一つの「終わらない物語」として続くだろう、という楽観的な予測もできる。この系(物語)は驚くほど精緻で(複雑で)、変化と多様性に富み、しかもその基本的な原理は明らかになっている。このシステムを、人間が楽しむ種類の小説の形に落とし込めたら、どんなに素晴らしいだろう!

生物学とコンピュータと文学に詳しい人が、そんなプログラムを書いくれないものか。そのプログラムが吐き出す「終わらない物語」の数は無限である。一人ひとりが、自分だけの「終わらない物語」を手にすることができる。もう通勤電車の中で退屈することはない。ちょっと隣を見てみよう。隣に座った定年間近の男性も、やはり携帯端末で「物語」を読んでいる。彼はその「物語」を 40年以上、ただ 1人の読者として読み続けているわけだ。スゴイな。

でも、やっぱり死ぬ前には結末が気になるんだろうな。そんなときは、結末生成のアルゴリズムに完結編を書いてもらおう。プログラムで物語を生成できるなら、筋書きを自分でコントロールすることも可能なはずだ。「ここから 300ページは波乱万丈な感じで」とか。良いなあ。欲しいなあ。

研究日記

病院 -> 大学。病院では細胞の世話。大学では別の細胞をホルマリン固定。後、先生と明日のセミナー発表などで打ち合わせ。24時帰宅。

2006/04/22/Sat.

散髪に行ってきた T です。こんばんは。

研究日記

Molecular Biology of the Cell

今日から、簡単な箇条書きで良いから、その日の仕事を書くことにする。せっかくの日記だし。

大学 → 病院。大学では細胞から RNA を回収。病院では細胞の世話。今さらながらMOLECULAR BIOLOGY OF THE CELL 4th Editionを購入。月曜にセミナー発表が当たっているので、その準備と勉強を少し。論文 2報を読む。

キリンの首

高い所にある葉を食い散らかすためにキリンの首は伸びたという。しかし、食べられる樹木の方もまた生物であって、彼らも進化する、という視点はなぜかあまり議論されない。キリンの首が長いことを説明するこの初歩的な(そして微妙に間違えている)論法を樹木に適用するならば、彼らはキリンに食べられないように樹高を低くするだろう、という推測が成立する。そうなると、それを追いかけるキリンの首はいずれ縮んでいかなければならない。巨視的な時間軸で見れば、キリンの首の長さはある周期の波形を描くはずである。だが、こういう議論はほとんど見かけない。

キリンの首の長さだとか、マンモスの牙であるとか、そういう非常に特異な部分は人間の目に付きやすく、目立つがゆえに進化論のネタにされやすい。けれども、これらの部分が特異であるとか目立つであるとかは、あくまで人間の主観であって、これらの器官がある目的を持った進化の産物であるという根拠は何もない。それをあたかも自明の前提であるかのように議論の土台に据えてしまうのは、思考上、大変に危険なことではなかろうか。平たくいえば、キリンの首の長さはそれほど異常なものなのか? 頭を冷やして考えてみる価値はある。

キリンの頚椎の数は、他の哺乳類と同じく 7つである。そういう意味では、ウマの蹄(つまり指)が 1本しかないことの方が、よほど形態学的に異常である。少し思いを巡らせば、ヘビやカメの奇天烈さにも気付くだろう。もちろん、これらの動物に関しては、化石から遺伝子まで、精力的に研究が行われている。でも、「進化のはなし」とかいうレベルになると、やっぱりキリンが出てくるわけで、俺が問題にしているのもそこである。要するに、ヘビやカメに比べて、単に我々がキリンを見慣れていないというだけのことじゃないのか。人間の手足だって、割合としては異常にヒョロ長いぞ。

自分の「常識」とやらを基準に据えることには(科学上)何の意味もない。それを知っていたからこそ、ダーウィンは進化論に辿り着いた。しかし、進化論が常識になってしまった今、我々はそれにどっぷりと浸かってしまって、キリンの話に「なるほど」と頷いている。人間は、「神が世界を作った」と信じていた頃から、何か精神的に進歩したんだろうか。進歩すりゃ良いってもんでもないが。

君子は豹変す

俺がこの日記で折りに触れて主張しているのは、「自分の頭を使え」ということだ。まァ、主張というか、自分に対する戒めなんだけれども。

自分の頭を使う。言うは易く、行うは難し。ただ何でも疑えば良いというわけではない。それでは懐疑主義だ。「主義」というのは、良くいえば思考のフォーマット、辛辣にいえば思考停止である。本当に重要なのは、疑うかどうかを自分で判断することだろう。判断には基準が伴う。この基準も、固定化していてはしょうがない。判断基準もまた、常に見直しを要する。君子は豹変す、ってことだな。君子じゃないけど。

2006/04/21/Fri.

散髪に行きたい T です。こんばんは。

研究日記

大学 - 病院 - 大学と渡り歩いて仕事。ハッキリいって、とても効率が良いとはいえない。もっとも、今は大学に出入りし始めたばかりなので、「とりあえず小まめに顔を出して環境に慣れる・人間関係を築く」というのも「仕事」だといえなくはない。直接的には研究と関係はないが、研究だけが俺の仕事でもないわけで、このへんが給料を貰う難しさでもある。特に理学部出身の俺から見れば、医学部とは非常に特殊な所であって、様々な事柄に対する認識の違いに眩暈を覚えることも多い。とはいえ、部外者は俺の方であり、選択肢は慣れるか辞めるかしかない。

なんてことを書くと、いかにもストレスフルのようだが、別にそういうわけではない。普通の人が普通に仕事をする上で感じるストレスはあるけれど、そんなことは当然であってね。負荷をかけないと筋力は増強しない。もやしのような人生を送るつもりもないし。何書いてんのかわかんないけど。

大学で初めて細胞の sorting を行う。病院の機械だと、flow cytometry 解析はできるが、sorting はできない。こういう実験上の限界があるため、2つの職場を行き来しなければならないわけだ。今日は病院の細胞を大学に持って行った。それにしても、培養細胞を納めたアイスボックスを抱えて電車に乗るという行為は、どう考えても怪しい。怪し過ぎる。ところで、ウイルス感染させた細胞を研究室の外に出したら犯罪になる。つまり、sorting したい細胞にはウイルス以外の方法で遺伝子を導入せざるを得ないわけだが、これまた苦しい制約である。

Sorting マシンを病院でも買ってくれないかな、と思ったが、数千万円もかかるらしい。無理だろうな。

2006/04/19/Wed.

風と共に去りたい T です。こんばんは。

研究日記

今日は病院に行った後で大学へ。キツいね。続くんだろうか。

大学では学科のセミナーに参加し、簡単に自己紹介。病院はテクニシャン嬢ばかりで、俺がほとんど唯一の「男の年配」(!)という異様な状況だが、大学では周りは医者ばかり。当然、俺は一番の下っ端。落差が激し過ぎる。二重人格になりそうだ。ただでさえ、研究者という人種は常軌を逸しやすいというのに。社会への道を閉ざさぬよう、正気を保ちたい(どういう目標なんだ)。

疲れたよ、パトラッシュ。

2006/04/18/Tue.

GW までは休みなしの T です。こんばんは。

今日で我が「修羅場、どっと混む」も 4周年。これからもよろしくお願い致します。

研究日記

大学に寄ってから病院へ。先生の留学も間近に迫り、最近では俺が色々と切り盛りをさせてもらっている。テクニシャン嬢 2人に指示を出してから、ボスの科研費報告書を下書き。自分の手を動かさねばならんと思うが、まァこれも仕事。これからも、この手の仕事は増えこそすれ、減ることはないだろう。

それでもまだ、我がラボには複数の研究員がいて、研究所の中では上手く回っている方ではなかろうか。隣のラボにはテクニシャン嬢ばかりで研究員がおらず、ときどき、彼女達ではさばききれない仕事が先輩や俺に依頼されることもある(使われているだけという噂もある)。いいけど、別に。今日は顕微鏡の使い方を簡単にレクチャーした。蛍光顕微鏡を使ったことのない人に、いきなり Zeiss の AxioVision で写真を撮れといっても、確かに無理だわな。

暖かくなってきたので、いつもとは違う薄手のジャンパーを羽織っていったら、「いつもより若い感じですね」といわれた。いつもは何なのだ。

2006/04/17/Mon.

久々に The BEATLES をドップリと聴いている T です。こんばんは。

研究日記

大学で活動するために研究生になるか客員研究員なるかという話は、結局、客員研究員の方で落ち着くことに。何だか大層な肩書きだが、実態は、1枚の申請書を提出して教授がウンといえば承認、という身分である。公的な籍かどうかも知らない。しかしとにかく、大学の施設は利用できる。

今日は朝から大学に行って、簡単な実験をしてきた。昼は先生御夫妻と食事。その後、病院へ。

夜はボス、新テクニシャン嬢と一緒に食事。駅ビルの中華料理屋へ。研究してるのか、というような日記だが、一応ちゃんとしている。つもり。

2006/04/15/Sat.

欠かさず『範馬刃牙』を立ち読みしている T です。こんばんは。

リアリティーと現実

範馬勇次郎とゴルゴ13 はどちらが強いのか。そういう話題をときおり見かける。しかしこれは非常に比較が困難で、それは各作品のリアリティーが違うからではないか。

リアリティーは虚構と対立するものではなく、その矮小な裏返しに過ぎない。「リアルだね」という感想には、「虚構にしては」という枕詞が言外に含まれている。「リアルであること」が成立するには、それが虚構であるという認識が前提として必要とされる。リアリティーの極致に到達した写実的 CG があったとしよう。これを見た人はどう思うだろうか。それが CG であると知っていれば、「リアルだ」と感じるだろう。知らなかったとすれば? 写真、つまり現実と思うに違いない。リアルであるためには、現実であってはならないのだ。

これらをひっくるめた上で、我々は「リアル」という言葉を使っている。このカタカナがカタカナのまま広く浸透しているのは、それが「現実」という日本語と必ずしも一致しないからで、要するに別の単語なのだ(日本語の枠組みにおいては)。「STAR WARS」新3部作を観賞した人々が、「リアルだね」と感想を語り合うとき、共同幻想ならぬ「共同現実」とでも表現するべき感覚が立ち上がる。それがあるから、「リアルだ」という印象を共有できるんじゃないか。

リアルな世界

前置きが長くなってしまった。自然科学は結局、延々と共同現実を築き上げる行為なのではないかという話をしたかったのだ。もっとも、これは科学の「結果としての一側面」であって、もちろん全てではない。とだけ書いておいて話を進める。

例えば、教科書のイラストの問題がある。原子は原子核の周りを電子がブンブンと飛び回っているわけでは決してない。太陽系に惑星の楕円軌道が白い線で描いてあるわけはないし、ブラックホールはラッパのような形をしているわけでもない。細胞生物学のテキストの 1ページ目に描かれてあるような動物細胞や植物細胞はいまだに発見されていないし、物体の落下を放物線で表現する物理学は今もって N体問題を解決していない。

科学的探求と、その成果を端的に図示する秀逸なイラストは我々に共同現実をもたらすが、それが現実そのものでないことは、学べば学ぶほどに明白となってくる。我々は極めてリアルな世界に住んでいる。そういうことが、ちょっとわかってくる。

「とてもリアルだ」という感情が極めて新鮮な驚きを提供することは、多くの人が知っている。研究者が結果を出したときに「オーッ!」などと叫ぶのも、基本的には同じ原理である。と思ってほしい。バンドが出たり、細胞が光ったり、数値が跳ね上がったりしたその瞬間、彼の仮説という虚構は、極めてリアルに現実へと落とし込まれたわけだから。

だから、あまりヘンな目で見ないでね。ヘンな人であることは認めるけど。

2006/04/14/Fri.

それでもできるだけ妥協はしたくないと思っている T です。こんばんは。

大体において思う通りにいかない、というのは大抵の人がそうであって、いうなれば、社会とは壮大な妥協の伽藍ではないか。今さら俺が知ったふうに語ることではないけれども、何というか、この認識がもたらすイメージが俺の中でゆるやかに変わりつつあるので、少し書いておこうと思う。

妥協というのはネガティブな意味で使われることが圧倒的だが、動物にはできない高等な知的行為でもある。妥協を知らない動物は、ゆえに命を落とすこともしばしばある。もっとも、妥協を許さない彼らの姿勢こそが、彼らをして現在まで生き永らしめた、という大きな側面も当然あるのだが。これをもう一度裏返せば、人間はそこまで苛烈な生き方をせずとも何とかなるシステムを作り上げた、ということになる。それが社会である、ということで話は冒頭に戻る。

人間はホモ・ポリティクス (Homo politicus; 政治人) である以前に、ホモ・コンプロミス (Homo compromis; 妥協人) ではないか。そもそも、政治とは妥協をルール化したものであるとすらいえる。極端な例を挙げれば、妥協によって起こる戦争もあり得る。断固として妥協しないために戦争が起こるのではなく、「こいつは叩きのめさないとわからないからしようがない」という妥協で始まる戦争もあるだろう。

妥協のない生き方が称賛されるのは、我々が妥協の海に住まっている証拠でもある。どこまでが妥協かというラインは、相当の部分を個人的な美学によって決められる。妥協するにせよしないにせよ、どちらもひどく人間臭い行いであることには変わりない。

自分でも何が書きたいのかわからなくなってきたので、このへんでやめておく。

2006/04/12/Wed.

昨日、今日と病欠した T です。こんばんは。

100日ほど前にも風邪で休んだのだが、どうもインターバルが短いな。イカンね。なんか寒くて痛かった。明日は出勤できそうだが、職場が病院っていうのも皮肉だよな。

2006/04/10/Mon.

今夜はボスの誘いを断った T です。こんばんは。

研究日記

夜は恒例のセミナー。その後、哀れなボスを置き去りにして帰宅。今日は少々体調が悪い。

細胞の大量培養をしている。週末は 100枚単位のディッシュを扱った。作業をクリーンベンチで行うため、常に腕を浮かせている。おかげで二の腕が筋肉痛。そんな話をしたら、「年寄りですね」とテクニシャン嬢に笑われた。君もすぐにわかるさ。

論文を読んでいると、様々な人名に出くわす。見かける頻度が多く、印象に残るのは中国名で、「Li」や「Xu」など、極端に短いものが多い。人数が多い割に苗字のバリエーションが乏しいので、彼らは名前の 1文字目をミドル・ネームとして使う習慣がある。「Wu Li Yu」などと書く。元素記号の羅列かと思ってしまう。

今日は極端に長くて(そして奇妙な)姓を見かけた。彼の名を、Stamatoyannopoulos氏という。PubMed で検索すると、同国人だろうか、Papayannopoulou氏という共著者を発見した。この 2人の名前で発表された論文は数多いのだが、いったい何事かというほどに著者欄が長くなる。

そういえば、田中芳樹『銀河英雄伝説』に、スールズカリッター (Soulzzcuaritter) という軍人が登場する。彼はその奇妙な姓のゆえにイジめられた過去を持つ、というエピソードだった。その後、上官が付けてくれた「スール」という略称に改姓したが、まァそんな話はどうでも良い。

俺の知っている線虫研究者に Q というイニシャルの人がいる。ちなみに日本人である。いつもチョッキを着ているので、我々は「チョッキの Q」と(陰で)呼んでいた。何で Q なのか、誰も知らない。

2006/04/09/Sun.

早い時間に寝て、深夜に目覚めている T です。こんばんは。

何で木なのか

要するに、木材というのは植物の死骸である。木製のデスクの代わりに、犬や猫の死骸を組み合わせて作った机があっても良さそうなものだが、当然そんなものはない(この方向で想像を膨らませると、江戸川乱歩のような小説が書けそうだ)。してみると「木のぬくもり」「絹の肌触り」という言葉は、すこぶる気味の悪いものに思えてくる。

木製のスプーンでスープを飲む行為は、死んだ猫の手で飯をよそうことと、どのような違いがあるのだろう。未来の極めて進んだエコロジストから見れば、我々は、髑髏の杯で酒を呑んだ織田信長と大して変わらないのではないか。思えば、割りばしというのも残酷な代物である。我々が、乾燥させられ、実用に供せられるときには股から引き裂かれることを考えてみれば良い!

で、だ。樹木が優れた材料であるのは、単にコストが低いからという経済的な理由によるのではないか。特に日本では、木材を手に入れるのに、苗木を植える手間暇と、30年という時間があれば充分なのである。だが、潜在的な存在量とリサイクル率という点から考えれば、地殻中に存在する膨大なアルミニウム等の方が、よほど優れている。それを使わないのは、金がかかるからだろう。

エコロジー・ジャパン

環境に優しいとはどういうことか。東京 10個分の面積があれば、全ての日本人が暮らしていける。固まって住めば、あらゆる(物理的ではないものも含めた)エネルギーが節約できるだろう。広大な大阪平野や濃尾平野を全て耕地牧場にすれば、食料自給率など問題にならない。そして、建てられるだけの原子力発電所を佐渡島にでも作れば良い。

社会は気候温暖な場所から発達する。なので、近代においては、生物に住みやすい土地から工業化・都市化が進行する。日本では、稲の栽培に適した表日本に工場や団地が立ち並び、雪が吹きすさぶ裏日本や北海道が米の産地になるという、まるで気の狂ったような土地の使い方をしている。

そこで、西日本はアイダホやテキサスのような穀倉地帯にし、工業地帯は東北から北陸にかけて形成する。工業地帯への出勤は、大東京から限りなく直線的に引かれた「真幹線」で実現する。多分、1時間やそこらで行けるだろう。現在の平均通勤時間と大差ない(そして、快適さでいえば比較にならないだろう)。もちろん、全ての第3次産業は大東京に集中している……。

あくまで妄想である。そのような社会に住みたいと思っているわけではない。それほど悪いという印象もないが。

エコロジーとエコノミー

エコロジーとエコノミーは対立するものではなく、むしろ比例関係にある。系が最適化されていないとき、投資に対するリターンは少ない。いい加減、我々を系に含めて勘定すべきだ。自然が、自然がとわめいたところで、そんな手付かずの自然 (nature) はもうない。我々が存在するケースの方が、圧倒的に自然 (natural) なのである。

俺自身は、あまり環境問題に興味はないのだが。

2006/04/08/Sat.

どう考えても「無洗米」という単語はおかしいと思う T です。こんばんは。

「無洗米」は「洗っていない米」としか読めない。違うだろ。「既洗米」にするべきだ。

ところで、頭の「体操」などをしていたのではダメなのだ。と思うのだが、そういう指摘を聞いたことがない。体操なんぞは死にかけのジジイでもできる。我々は「頭のフルマラソン」や「頭の南極点到達」をしなければならない。というわけで(どういうわけだ)、俺が勝手に「ヘンだな」と思っていることを試しに書いてみよう。

クイズではない。正解を求めているわけでもない。「何が問題か」が、強いていえば問題である。

頭の四回転「NASA の陰謀を暴け」

下の写真は、アポロ 11号が月面に着陸し、アームストロング船長がまさに降り立とうとしている場面である。解説文はこれを、「人類が月面に記した最初の一歩」と述べている。(ここで考える)

月面着陸

この写真、誰が撮影したんだ?

観桜日記

職場の桜もなかなかのものである。今日はカメラを持っていき、何枚か撮影してきた。休日出勤は、こういうことをコソコソとできるのが良い(メリットといえばそれくらいだが)。

帰りに飲屋街へ。ここの夜桜が美しいことは一昨日に書いた。が、撮影の腕が追い付かず、ヘボい写真ばかり (data not shown)。完全に暗くなってから行けばもう少しマシだったかもしれないが、難しいものである。飲まずに直帰。

2006/04/07/Fri.

カメラを持ち歩くだけで、構図を取る訓練になるのではないかと思う T です。こんばんは。

本日は休み。天気が良かったので、カメラをポケットに入れて高野川の桜を観てきた。川沿いの遊歩道をブラブラと歩く。最高に気持ちが良い。家族連れや観光客もチラホラ。写真を撮りつつ、数人と会話を交わした。そこに桜が咲いているというだけで、かくも日本人は社交的で優しくなれる。改めて、桜が日本人のメンタリティーに対して持つ影響力の巨大さを実感する。悪い気分ではもちろんない。

生物学的(生得的といっても良い)な美的感覚についての妄想を、しばらく前に書いた。無論、人間の美的感覚はさらに複雑高等である。そこには教育的(後天的)な要因が多く、文化的な人間ほどその割合は高いだろう。また、文化によってもそのベクトルは異なる。単なる小汚い茶碗でも、「わび・さび」の文化を持つ我々は、それを「シブい」と称揚することができる(本当にそう思っていなくとも)。

桜は確かに美しい。人類であれば、少なからずそう思うであろう(外国人観光客も大勢いた)。しかし、桜を美的な花の最高に位置付けているのは、日本文化である。我々は桜を見るとき、それが世界一美しいと「思い込む」ことができる。教育という名の洗脳による、幸福な勘違いだ。決して皮肉ではなく、日本人に生まれて良かったと思う一瞬である。

帰りは本屋に寄って、数冊を購入。働き出して 1年、ようやく読書と仕事を共存させることに成功しつつある。特に最近はペースが上がってきた(小説の割合はどうしても減少してしまうけれど)。書評が追い付かないんだよなあ。紹介したい本が、20冊ほど机の上に積んである。凄く邪魔だ。しかし片付けてしまえば、永久に紹介することはなくなるだろう。それでも別に構わないのだが……。

2006/04/06/Thu.

馬券を買ったことがない T です。こんばんは。

研究日記

自分で自分の首を絞めることになりかねないのだが、研究費の話をもう少し。

研究費の源泉は(例外を除いて)税金である。研究者の給料もそこから出ている。一度「研究と報酬」という文章を書いたことがあるが、実際に自分が金銭を受けとるようになった今、もう少し現実的な話をしてみたい。

研究において、日々の労働が金銭的な価値を持つかは疑問の余地がある。研究で唯一価値があるのは結果である。もちろん経過にも意味はあるけれど、結果が出た後でないと気付くことはできない。結果を出すためには日々の労働が必須であるが、働いたからといって確実に結果が出るわけではない。「日々の労働が金銭的な価値を持つかは疑問」とは、そういう意味である。

したがって、研究者の日々の労働には、警官が毎日パトロールするとか、教師が日々学生に講義をするなどといった、その日その日の金銭的な価値は認めにくい。つまり、研究者に対する報酬とは、「日々の労働そのもの」ではなく、「そこから期待されるであろう結果」に対して支払われているわけだ。身も蓋もない言い方をすれば、常に無駄となるリスクが存在する。であるから、長い間、研究に投資されてきたのは、見返りを求められることがない余剰金だった。貴族がパトロンであったことも多い。その点、ほとんど芸術と変わらない。

やがて、科学的研究の成果が、人類に莫大な富や幸福をもたらすことが認識されるようになった。研究という行為は万馬券を買うようなものだが、ひとたび当たれば、それは万馬券どころか億馬券にも兆馬券にもなるのである。ハズれる場合が圧倒的とはいえ、買わないことには馬券は当たらない。そこで、先進国や、先進国になりたい国(明治期の日本など)は、国民のため(あるいは国家自身のため、人類のため)に政府が税金で馬券を買うようになった。それが研究費である。

昨日の日記で書いた試薬・機器の費用は、いわば馬草代のようなものであろう。職業的研究者は、どこに走り出すかもわからない馬にまたがったジョッキーである。オッズはない。ゴールできるかどうかもわからない。手綱にしがみつくだけで必死な者もいる(俺のことだ)。

上で「職業的」とわざわざ断ったのは、職業的でない研究者もいる(いた)からである。彼らはゴールを目指すわけでもなく、思い思いに草原を駆け抜ける。例えば、古代の哲学者(自然科学者でもある)はそんな感じだったのだろう。羨ましい限りである。

酒日記

久々に行きつけのバーへ。本当は毎週でも通いたいのだが、そうすると依存症になることは目に見えている。なので、疲れたときとか、ストレスフルなときにだけ訪れることにしている。おかげで、アルコールがいつも美味しい。

飲屋街の桜がとても幻想的で美しかった。残念ながらカメラを携帯していなかったので、来週にでも再訪しようかと思っている。桜が散っていなければ、だが。

2006/04/05/Wed.

憂国の士、T です。こんばんは。

研究日記

雑用、といったらイカンな、実験以外の仕事が多い。水曜日はボスとのディスカッション日。もう 1週間か。早過ぎる。そんなに次々とデータは出ない。「この試薬、高いんですよねえ」という論法で少し逃げを打ったら、「おう、ちょっと待っとけ」とボス。彼自身が業者に電話をして試薬を見積もらせると、値段が半分くらいになった。どういう価格設定なんだろう。

研究機関に対する予算が大き過ぎるという批判があり、それは決して間違いではないのだが、実態としては、大部分がこのようにして民間企業へ流れている。研究で使われる特殊な商品を扱う業者は明らかにカルテルを組んでおり、研究予算は形を変えた公共事業であるともいえる。昨日の日記で「理系の学問に税金が投入される」と書いたが、これには以上のような理由もあるのだろう。

このカラクリにはもう一つ奥がある。研究分野にもよるだろうが、試薬・機器の多くは海外製であって、つまり、最終的に我が国の税金は国外に流出しているのである。政府が本当に支援すべきは、国内の試薬・機器メーカーではないか。研究で使用する物品を全て国内産に切り替えることができたら、研究費も安くなるだろう。同じ予算であれば、より多くのプロジェクトを組める。急がば回れだ。

国益とは何ぞや。そんなことを考えている人間は少数なんだろうな。

2006/04/04/Tue.

知ったような人間になりたくないと思う T です。こんばんは。

「正解のない問題こそが本当の学問だ」とエラそうにいう人がいるが、少なくともこの命題は、自然科学には当てはまらない。自然科学における正解とは「事実」や「現実」であって、それが「わからない」というのは、要するに、見えていないとか(観測限界)、調べていないとか(人手・金銭・時間的な問題)、ロジックに誤りがあるとか(未知のファクターや不確定要素)、方法論が確立されていないとか(技術的問題)、あるいは考えたこともないとか(私の問題)、そういう理由による。

ところで、数学は自然科学ではない。だから、1 + 1 が 2 でない数学が存在する。「1 + 1 = 2」というのは、事実ではないからだ。

こういうことをこそ、学校で教えるべきではないのか。「正解のない問題こそ〜」という台詞は、大学進学を希望する学生に向かって進路指導の教師がのたまわっている、というイメージが強い。教師の大半は文系であるから、そのような学門観がまかり通るのであろう。そういう学問もある。しかし、それは一部でしかない。理系の学問に税金が投入されるのは、そこに正解があるからだ。神経を逆撫でするために、正解を金で買っている、と書いても良い。税金とは、そのようなタイプの事柄にしか予算が下りないものである。

行く先に正解がないのならば、大半のサイエンティストは明日から転職を考えるんじゃないか。

2006/04/03/Mon.

アイザック・アシモフの科学エッセイを読んでいる T です。こんばんは。

10冊ほど大人買いをしたのだが、これが面白い。1960年代から書かれたものなので、データが古かったり、現在では常識となっている知識が扱われていなかったりなどするのだが、それは致し方ない。科学の進歩は、それまでの積み重ねを否定するものではなく、拡張するものである。そこには首尾一貫した精神がある。本質さえ掴んでいれば、いつまでも通用する。

こういうエッセイを書きたいなあ、と強く思うが、そのためには相当の精進が必要だろう。

研究日記

本日から新年度。一応、契約が 1年毎の更新となっているため、新たな辞令を拝命する。この職場に来て 10ヶ月、3枚目の辞令である。数ヶ月後には、先生の留学や先輩研究員女史の退職に伴って、また新たな辞令を頂く確率が高い。せわしない職場である。

我がグループに新テクニシャン嬢、別のグループに新研究員嬢を加え、何となく活気を呈している。

夜は今年度初のセミナー。その後、ボスと 2人で会食。セルフサービスの串カツ屋に行き、彼と向かい合って仲睦まじく串を揚げる。若いカップルが喜びそうな雰囲気であるが、我々は仕事の話をしながら黙々と串を平らげた。もう喰えない、というところまで食べたところで、ボスが食した串を数え始めた。我が串の数を尋ねられるのは必至なので、俺も串を数え上げる。

ボ「何本やった?」
俺「36本です」
ボ「お、一緒やな」

嬉しそうに微笑んだボスの口元には、デザートのソフトクリームがべったりと張り付いていた。何だか、スゴく嫌だ。これが若いカップルであれば、さぞかし幸福な一瞬なのだろうが、非常に残念なことに、俺とボスは、20も歳の離れた男同士なのであった。

日付が変わる前に帰宅。食べ過ぎで、いささか苦しい。さっさと寝る!

2006/04/02/Sun.

最近は食欲旺盛な T です。こんばんは。

毎月、食費のほとんどを(ただ 1軒の)コンビニに突っ込んでるような気がする。

行儀の汎用性

俺はこれまでに 3つの街で暮らしたが、それらのいずれもが、人口数十万人規模の都市である。地方に住む人は、「都市の人間は行儀がなっていない」というし、都市に住む人は「地方の人間は行儀が悪い」と思っている。恐らく、どちらも真である。なぜなら、都市と地方では「行儀」そのものの概念が違うからだ。そんなことを考える。

都市では、隊伍を組んで電車を待たねばならず、エスカレーターでは片方を空け、混み合った店で手早く勘定を済ませねばならない。逆にいえば、そのようにしなければ回っていかないほどの人間が都市に集中している(あるいは、そのような場所が都市である)のだが、ともかくも、これが都市における「行儀」であって、その実践は、隣人に挨拶することなどよりもよほど重要である。むしろ、隣人に気軽に挨拶するという「野蛮な」行為は、互いの安寧を犯し、生活に負担をかけるという意味で「悪」ですらある。昔ながらの行儀とは、少し趣が異なる。

俺がいいたいのは、国によって礼儀作法が違うように、この狭い日本でも、場所によって求められる行儀が違うという事実である。したがって、優劣は存在しない。だのに、一つの物差しで全国津々浦々の「行儀」を測定しては、特定の地域や年代を非難する。これはおかしいのではないか。

とはいえ、行儀の発生を考えるならば、行儀が細分化されることはあまり望ましくない。「行儀論のための覚書」でも書いたように、行儀は身体言語である。言葉が理解できなくとも意味が通じるというのが、最大の利点だ。尊敬や服従の意を示したければ、頭を下げれば互いにそれとわかる。したがって、行儀はなるべく共通のフォーマットを持った方が便利である。渡航したサムライ達が、そのたたずまいを絶賛されたことを思い出せば良い。「都会の奴め」「田舎者が」などというレベルに比べれば、その汎用性は驚異的ですらある。

階層のない社会

話は飛ぶが、「階層のない社会」というのはあり得るのだろうか。というか、階層がなくなっても、まだそれは「社会」と呼べるのだろうか。定義の問題だが。

「格差をなくせ」と叫ぶ輩は、社会を潰したいのだろうが。「社会のため」とか言ってるけど。

2006/04/01/Sat.

年度初めから休日出勤の T です。こんばんは。

芸術はテクニックで作り得る

昨日の日記で、「芸術はテクニックで作り得る」と書いた。およそ芸術作品とみなされる以上、必ず何らかのテクニックが使われている。問題の焦点は、「作成者がテクニックに対して意識的であったか否か」にある。

我々は芸術に対して幻想を抱いているので、そこに技術というものを意識したくない。また、作成者が意識せずに創ったものの方をありがたがる。そのような作成者を「天才」だとも思ってしまう (というか、思いたいわけだ)。

ダ・ヴィンチやピカソ、ダリなどは、テクニックに対して相当意識的だったような印象がある。一昨日の日記で触れた筒井康隆もそうだ。こういうタイプの芸術家は、現世的な成功も享受しているような気がする。一方で、テクニックに対して意識的ではないゴッホのようなタイプは、どうも不遇である。モーツァルトもそうかもしれない。しかし、「天才」「芸術家」という言葉で思い浮かぶのは後者のタイプである。

繰り返すが、後者のタイプがテクニシャンではないと主張しているわけではない。自分の創作を、人が見て評価する「作品」として考えるとき、どのようなモノが求められ、そのためにはどのような技術を用いて構築すれば良いか、ということを知悉しているのが「意識的タイプ」なのである。ポール・マッカートニーがそうだな。ジョン・レノンはその反対。あくまで感覚的印象だが。数学者も 2種にわけたら面白いだろうな。

言うまでもないが、テクニックに意識的であるかどうかと、作品の質は全く関係がない。ゴッホの絵を我々が画集で眺めるとき、その絵は、「写真」という技術で模写された絵であるともいえる。少なくとも、ゴッホの絵ではない。印象派の一派だといったら極端だろうか。しかし、どちらからも『糸杉』の感動は伝わってくる。両者が、同じ信号パターンを持っているからだ。それが、「芸術はテクニックで作り得る」ことの意味である。

Web 日記

撮ったらそれなりに楽しいとは知っていながら、なかなか写真を撮影しない俺。日記に必ず 1枚は写真を載せることを義務化しようかと思ったが、どうも面倒臭い。携帯電話のカメラを使い、写真はメールに添付してアップロード、というのも考えたが、どうも画質に満足できない。俺が欲しいのはカメラ付きの携帯電話ではなく、通信機能付きのデジカメだということに気付く。

いつも写真を撮るときには時間がかかる。顕微鏡の写真を撮るような感覚で、気に入った構図は条件を変えて、数バージョン撮影する。観光地に行ったときは大変だ。とにかく人が入らないように、何分でもその場に立って待っている。何をしに行っているのかわからない。よほど写真が好きな人だと思われているかもしれないが、単に、夾雑物の入った写真はダメだと信じ込んでいるだけである。細胞の写真を撮ってるんじゃないんだから、と自分でも馬鹿馬鹿しく思うが、性分なので仕方がない。

苦労と努力

「俺も大変だったんだから」という言葉は、要するに「俺も苦労したのだからオマエもしろ」という意味であることに気付く。同じ苦労をしていたのでは、社会の進歩は期待できない。このような物言いが、その人を老人にしていく。また逆に、先人と同じ苦労をしていたのでは、およそ先が見えている。無論、苦労と努力は違う。楽をする努力が必要だろう。

環境省

二酸化炭素の削減を促進するため、環境省は 20時に消灯するという。そんなに二酸化炭素を削減したいのなら、環境省をなくせば良い。と思うのは俺だけか。何やってんの、環境省って。