- 典型的な、あまりに典型的な

2006/03/30/Thu.典型的な、あまりに典型的な

3月が終わろうとしていることに愕然としている T です。こんばんは。

今日も雪。もうすぐ 4月だぜ?

どうでも良いが、現実に誰かが「〜だぜ?」と口にしているのを聞いたことがない。「〜かしらん」もそうだ。つまり、これらは口語体で書かれているが文語なのである。「〜ざます」とか、例え一時期にせよ、本当に誰かが使っていたのだろうか。あと、語尾が全て「〜アルよ」という中国人とか。

こういう人物像は、もの凄くキャラクターが立っている。何という作家か忘れたが、こんなことを書いていた。「小説で人物を描くということは、典型を作り出すことである」。筒井康隆の小説に出てくる「おれ」などは、その良い例であろう。あの「おれ」は筒井康隆自身であって、そうではない。典型であるということは、抽象化され、一般化され、普遍化されているということだ。「おれ」のモデルが筒井自身であっても、その人物像は典型化のプロセスを経ている。むしろ、自身をそのように眺められる視点にこそ、筒井の異能があるといっても良い。

典型を上手く用いると、それなりのクオリティのものが比較的容易に作れる。数学の定理も、物理のモデルも、プログラムのアルゴリズムも、シンボリックなアイコンも、モジュール化された組織も、記号化されたイメージも、キャッチーなコピーも、衝撃的なシーンも、耳に心地よいコード進行も、機械のパーツも、大抵は典型の組み合わせで成立している。

人がそれを典型的に感じるのは、恐らく進化的な理由がある(と勝手に思っている)。なぜ人は花を「美しい」と思うのか。そんなことを考えていたら話がブッ飛んでしまったが、また明日、書くことにする。