- 範馬勇太郎

2006/03/19/Sun.範馬勇太郎

『刃牙』を大人買いしようかどうかを迷っている T です。こんばんは。

高校生までは相当漫画を買っていたが、大学生になってからはやめた。読むのをやめたわけではない。漫画は非常に場所を食うからである。読破に時間もかからない。おまけに安い。本を買う勢いで漫画を購入していたら、いくら部屋があっても足りない。

それでも良いものは手元に置きたくて、手塚治虫とゴルゴ13、そして幾つかの例外が我が書斎には存在する。『刃牙』をそこに加えるかどうか。

『刃牙』覚書

一連の『刃牙』という物語の構造において最も顕著なのは、揺るがない「最強」、つまり範馬勇次郎が最初から存在していることである。週間連載という場では、『ドラゴンボール』が典型的にそうであったように、「最強」が泥縄式に出てくる。人気がなければ打ち切り、人気のある間はいつまでも続けさせられるという漫画週刊誌において、どちらの要望にも応じることができ、かつ泥縄式から脱却できるという点で、この構造は興味深い。

意地悪くいえば、中間の全ての部分が「つなぎ」といえなくもないが。それにしても「勇次郎」という名前が気になる。兄(勇太郎)がいるのだろうか。

問題意識

教条的なことは大事だと思うが、取り立てて書いてみようとは思わない。かといって、常識とは違う視点、というアプローチも嫌だ。アンチな主張をして、それを理論化するというのは、意外と容易な作業である。レベルの低い文章指南には、「普通とは反対の視点を」なんて書かれていたりする。誰にでもできることだから、啓蒙が成立する。

それに比べて、「問題化する」というのは高度な思考である。問題として認識されていないものを、問題として「見付ける」。それを考える。答えを出す。なかなかできることではない。高度だから有益であるとは限らない。面白いという保証もない。そもそも、意味がない。「意味がある」のなら、その問題は既に認識されている。後付けで意味が発生する。それが創造(の一側面)だ。

言うまでもないことだが、創造がエラいわけでも何でもない。第一、上述したことが正しいかどうかもわからない。これは懐疑主義ではない。ところで、懐疑主義において、「疑うこと」自体は疑われないのだろうか。「我疑う、ゆえに我あり」。懐疑しているのか、肯定しているのか、ヘンな人である。

とまあ、これが(俺の考える)「問題化」のプロセスの 1例である。あまり高度な例ではないが。これが「面白い」と思えたなら、その人は少し幸せである。つまらないと思う人より、面白いことを 1つ多く持っているのだから。メリットがあるとすれば、その程度だろうか。