今月のゴルゴ13 を買ってきた T です。こんばんは。
読むのは明日の楽しみ、というのは強がりで、実は読む元気がない。毎日日記を更新するのも、これはこれで結構しんどい。体力的にどうこうというより、話題に乏しいがために苦労する。「アニーリング温度を下げたら驚くほど PCR のかかり具合が良くなりました。感激です!」などと、通信販売のサクラみたいなことを書いてもつまらんわけだが、1日の出来事といっても、そんなことしかない。毎日更新といっても、モチベーションの大部分は意地である。では何に対しての意地かと問われても答えられないのだが。
まァ、長くサイトを運営していると、こういう時期も出てくるわな。これまでも細く長く続けてきたことだし、閉鎖云々とか、そういう気持ちはない。毎日つまらん日記を読んでくれている方々には申し訳ないのだけれど。
明日は半日ほど仕事。本当はゆっくりと寝たいところだが、なかなかそういうわけにはいかない。実験は楽しいし、何より休日のラボという雰囲気は好きなんだけどね。
阪神優勝の瞬間を見逃した T です。こんばんは。
朝、電車から降りるとボスが立っていた。どうやら同じ列車に乗り合わせていたらしい。珍しいこともあるもんだと、雑談をしながら病院へ。「阪神、マジック 1やなあ」「そうですね」「今日は試合あるんかな」「さあ」。試合があるなら是非観なければと決意したが、帰宅したのは 23時過ぎ。見逃す、というより、阪神のことなどすっかり忘れていた。悔しい。
サーマルサイクラー、遠心機、超音波破砕機などの機器が続々と搬入される。これまでは共同の機器を使って実験していたが(実験室は各ラボ共通の大部屋なのである)、これからは我がラボ専用の機器でもって、PCR かけまくり、チューブ回しまくりである。嬉しい(ますます仕事が増えるだけ、という説もある)。
早めに仕事が終わったので「旨いものでも食いにいくか」と意気込みつつ電車に乗った途端、あり得ないほど眠いことに気付いた T です。こんばんは。
結局、飯は適当に済ませた。眠気を感じないのは気合いが入っている証拠だ、という好意的な受け取り方もできるが、眠いなら眠い、痛いなら痛いと感じてくれねば、生物として困る。不快な感覚を遮断する脳内麻薬が存在することは事実だけれど、それは逃避的な防衛機構であり、やはり通常の反応ではない。
ま、エラそうに書くほど働いているわけでもないんだが。忙しい、疲れた、などと自慢気にする人間は好きではない。黙って倒れる。コレ最強。
寝る!
「安易にカタカナ語を使うのはいかがなものか」という主張をしている俺だが、何が何でも日本語を使わなければならんと考えているわけではない。同じモノを指す日本語と外来語でも、そこから受ける「印象」が違ってくるケースは多々ある。というか、外来語を用いる意図の大半はその点に集中している。言葉から受ける印象を、その言葉の「意味」と捉えるのは拡大解釈かもしれないが、全く同一の言葉として扱い切れない場合も実際にある。例えば、次のような例文はどうだろう。
- キャンドル・ライトの下でディナー。
- 蝋燭の灯の下で夕食。
これを同意の文章として読めるかどうか。否、であろう。我々は明らかに「蝋燭」と「キャンドル」を区別している。結婚披露宴で行われるのはあくまで「キャンドル・サービス」であり、「蝋燭奉仕」ではない (それではまるで何かのプレイである)。
と書いて気付いたのだが、どちらも同じ「play」であるにも関わらず、「プレー」と「プレイ」も区別されるよなあ。「野球のプレー」と「アブノーマルなプレイ」、引っ繰り返して使うことは少ない。つまり、言葉から受ける印象の差異は、それが日本語であるか外国語であるかという分類に留まらず、全く同じ言葉をどう表記するかというレベルから発生し得るわけだ。何か問題が大きくなったなあ。
難し過ぎるぞ、日本語。
ボスから「学会の抄録を出せ」というメールが届いた T です。こんばんは。
いや、無理だから。
分化マーカーが発現している胚様体を蛍光顕微鏡で観察。顕微鏡は Zeiss、ソフトウェアは AxioVision で、これは学生の頃に散々イジり倒してきたものである。機種やバージョンは若干異なるが、自分の目のようにグリグリ動かしてバシバシと写真が撮れる。快感だ。
細胞培養にもだいぶ慣れてきて、どれどれ今日の細胞は、などといちびった口を叩きながら悦に入っている。身体は動くようになってきた。ここからステップ・アップするには、頭も働かさなければならないだろう。実験でいっぱいいっぱいになるのではなく、少しは勉強もしないとなあ。
晩飯は先生とラーメン屋で。「京都に来たらこれは食っとけ」という、先生御推薦のラーメン屋である。有名なのかどうか、俺は知らない。が、確かに旨かった。惜しむらくは、雨の夜(しかも車)だったため、その店の所在地がどのあたりか把握できなかったことである。
眠気に耐えてよく頑張った T です。こんばんは。
薬剤で刺激した胚様体が拍動しているのを観察する。胚様体は生きた細胞の集合であり、もちろんのこと生命活動を営んでいるのだが、それが独立した生物であるとは到底いえない。が、脈動する胚様体を眺めていると、改めて生命の何たるかを考えさせられる。生物学をやっていても、こうした感動は年に何回も味わえるものではない。まァそのうち、何の感慨もなく胚様体を処理するようになるのだろうが。だからといって、俺が得た情動が無駄になるというわけでもない。仕事冥利につきる一時である。
胚様体をフロー・サイトメトリーにかける。分化マーカーの発現が認められ、再現性は確認していないものの、一応のポジティブ・データを得る。
19時よりセミナー。解散後もチョロチョロと仕事をして、0時より先生と 2人で会食。仕事で遅くなるのは一向に構わんが、晩飯の時間が極端に遅い生活はなかなかしんどいものがある。これにも慣れていくのだろうか。
昨日からかなり涼しくなってきた。過ごしやすいが、身体に気を付けないとなあ(ジジ臭い)。
今日はダラダラと布団の中で過ごす時間が多かった T です。こんばんは。
俺は多くの現代日本人同様、強烈な宗教体験を経験したこともないし、確固たる自分の信仰を持っているわけでもない。俺は宗教というものを真面目に考える以前に、歴史や文学を大いに好むようになっていたから、それらを読み解くためのツールとして既存の宗教に触れてしまった。西洋の小説を深く読むためにはキリスト教を知らねばならないし、日本の歴史を読み解くためには仏教・神道を理解せねばならぬ。しかしそれらは知識であっても信仰ではない。もちろん俺の中にも素朴な宗教心というものはあるが、一方で、科学を飯の種にもしている。はなはだ分裂しているようだが、自分にとってはそうでもない。
例えば、あまりのありがたさに見たら目が潰れるという御本尊があったとする。この言い伝えを信じて御本尊を見なかったとすれば、それは信仰である。逆に、そんなことがあるかと目を見開いて御本尊を凝視するならば、それは合理主義的な行動であるといえる。どちらが優れているというものではないが、どちらも筋は通っている。だが、俺はどちらでもない。
恐らく俺は、「見たら目が潰れる御本尊」を見ないだろう。目が潰れる道理がないことは理解している。肝心なのは、「見たら目が潰れる」という言い伝えが残されており、そして実際に「見ない」ことなのだ。そうすることによって「見たら目が潰れる御本尊」というファンタジーは生命を持つ。生き永らえる。しかし御本尊を信仰するつもりはないし、だからといってファンタジーを暴こうとも思わない。
多分、俺はそういった「お話」が好きなだけなのだろう。京都に来てからますますそう思う。一条戻橋なんてのがある。文章博士三善清行が死んだとき、息子の浄蔵はこの橋で父の葬列と出会った。嘆いた浄蔵が祈ると、父は生き返った。以後、この橋は戻橋と呼ばれる。俺の感想は「面白い話だ」、ただそれだけである。「生き返るわけねえだろ」とか「ありがたや」なんて感情は湧かない。別にニヒリズムを気取っているわけではなくて、本当にそうなのだ。
で、だ。極端な話をすれば、歴史や科学も壮大な「お話」なんだよな。そもそも歴史や科学と声高に叫んだところで、その境界は茫洋としている。平家物語は歴史か? 小説か? 進化論は科学か? 精神分析は? 別に歴史や科学に限った話ではない。宗教も哲学も、全部「お話」だろう。
こう考えていくと、人類の営みというのは非常に曖昧模糊たるものがあって、無理矢理に共通項を引っ張り出してくるのならば、それは全て「お話」を作る行為であった、としか言い様がない。神話から経典から文学作品から科学論文まで、あれは全部「お話」なのだ。俺は工学も力学もわからないが、安心して飛行機に乗る。それは物理学という「お話」を信じているのと同義である。「ヒトはサルから進化した」という話と、「人間は造物主が作られた」という話と、いったい何が違うのか。俺はどちらの現場も見ていない。突き詰めると、「こちらの方がもっともらしい」とか「あちらの方が面白い」とか、そういった判断基準しかないのではないか。当たり前だ、「お話」の評価基準はそれくらいしかないのだ。
何だかムチャクチャな結論になってしまった。穴も沢山あるだろう。また機会があれば書いてみたい。でもなあ、やっぱり「今日の日記が面白かったかどうか」が一番の、というよりか唯一の問題だと思うんだよなあ。面白い・面白くないを言い換えれば、快・不快となって、これは生物にとって大事なことなのだが、それもまた今度。
久し振りにネクタイを締めた T です。こんばんは。
地下鉄サリン事件以来か、はたまた米国の 9.11 テロ以来かはわからぬが、とにかくここ数年、電車を始めとする各種公共交通機関で、以下のようなアナウンスが聞かれるようになった。
爆発物ならびに危険物の持ち込みは禁止されております
意味あるのか、コレ。そんなことは誰でも知っている。テロリストは、承知の上で持ち込んでいるのだ。抑止力も何もない。放送しているだけだから、約款的な効果すらない。海外でもこのようなバカげたアナウンスがなされているのだろうか。
交通機関各社が行っているということは、政府もしくは役所から何らかの通達があったのだろうな。上記のアナウンスが全ての駅において行われているのも、いかにも悪平等的である。どう考えてもテロの起こり得ないような駅で「爆発物ならびに〜」と言われても、シュールなギャグとしか思えない。いや、こうした平和がありがたいことだとは、わかっているんだけどね。
午後からラボに行って細胞の培地交換。チョロチョロとデスクワークをしてから京都駅に。近くのビルで病院関係の会議&講演会。受付を担当する。大過なく会議も終わり、講演会も盛況であった。駅ビルのレストランで打ち上げ。終電で帰宅。
基本的に独りでいることが好きな T です。こんばんは。
「これは一般論だが」と前置きされたとき、それは必ず具体例である。それを踏まえた上で、俺はよく一般論を書く。そこに普遍性があるかどうかは、読まれた方が判断されたらよろしい。
2人の人間が 1時間の会話をしたとする。各々が 1時間という時間を消費するわけだが、だからといって、1 + 1 で 2時間になるという計算はない。1人で過ごそうが 100人で過ごそうが、1時間は 1時間である。
ところが、そういう道理をわきまえない連中が多いんだな。自分は 50分も喋って己が主張をした、しかるに相手は一向に自らを語らない、自分にとっては得るもののない無駄な時間であった。このような無茶を言う人がいる。他人の時間の何たるかを知らない人間、これは俺が最も苦手とする人間であるが、まァ俺ばかりに限ったことではないだろう。時間は大切にしたいものである。
身も蓋もない言い方をすれば、共有される時間は「私」にとって全て無駄なのだ。自分の取り分が減るからである。だからこそ、心ある隠者は必ず「独りで」引きこもる。それが最も自分の時間を有効に使えるからである。それはまた、他者の時間に配慮しているからでもある。「私に関わると時間の無駄ですよ」というわけだ。
「1 + 1 は 3 にも 4 にもなる」という言い草も大嫌いだ。なるわけがない。仮に 3 なり 4 なりの結果が出たのならば、それはどちらかが 2 ないし 3 の犠牲を払ったからである。そういえば戦時中、東条英機は「2 + 2 = 80」というスローガンを掲げていた。水増しにも程があるだろ。ケッサクである。
閑話休題。したがって、時間を共有するときに考慮すべきは、「いかに相乗効果を上げるか」ではない。相乗効果の存在を否定する気はないが、それは阿吽の呼吸でつながった者同士でないと期待できない。通常、我々が気をつけなければならないのは、「いかに時間のロスを省くか」である。でき得ることならば、時間の共有などしないに越したことはない。無意味な会議に頭を悩まされている方も多いことだろう。大抵の仕事は、1人でやった方が効率的である。「3人寄れば文殊の知恵」などともいうが、1人でいれば大日如来の知恵が出てくるかもしれない。少なくとも、そういう発想は必要である。
それでもなお時間を共有したい場合、それは「共有すること」自体が目的となっている。家族友人恋人とのそれなどは良い例であろう。これはこれで素晴らしいが、そのような関係にない人間と、共有するために時間を共有するのは苦痛でしかない。「馴れ馴れしい」という言葉の正体は、このへんにあるのではないか。気を付けたいものである。
以上、自戒を込めて(これはエラそうなことを書いたときの照れ隠しである)。
携帯電話からでもストレスなく「修羅場、どっと混む」を閲覧できるようにしてみた。1エントリーずつ、過去 20件までの記事を表示できる。携帯版「shuraba.com Mobile」は下のアドレスからどうぞ。
携帯電話のパケット定額制、さらにはフル・ブラウザの台頭によって、昔ながらの「携帯版サイト」の存在意義は薄れつつある。が、特にビジュアルにこだわっていない限り、携帯電話の小さな画面でパソコンと同じような表示をさせる必然性も、やはり少ないのではないかとも思う。とりわけ、携帯電話の通信速度の低さはキツい。我が「修羅場、どっと混む」のような、主にテキストで御機嫌を伺っているようなサイトでは、まだまだ「携帯版」の需要もあるんじゃなかろうか。
携帯電話で見る意味があるのかは、また別問題だが。
今夜という今夜は爆睡するつもりの T です。こんばんは。
培養していた胚様体をフロー・サイトメトリーにかける。分化誘導をかけたり、マーカー遺伝子を発現させたりしているわけではなく、ちゃんと系が機能するかどうかというチェック。結果は上々。来週から、薬剤刺激をしたり、ウイルス・ベクターを感染させたりする予定。
楽観主義と思考放棄は厳密に区別したい T です。こんばんは。
シーケンサーは予約の関係で月曜になってしまったが、実験は順調。
19時よりセミナー。22時より先生と二人で会食。今後の方針など。やることがあり過ぎて、とにかく片っ端からやっつけるしかない、という時間の無駄に等しい結論を得る。一つ一つ着実に、と付け加えた当たりに、かろうじて我々の知性の残滓を確認できる。一滴も呑んでいないのに、やたらとテンションが高い。絶対に疲れていると思う。
24日の夜に病院関係の会議&講演会が行われるのだが、その受付係を拝命する。連休のド真ん中やっちゅうねん。まァ、これも給料の内……なのか?
寝る!
猫の手を借りてどうするんだろうと思う T です。こんばんは。
ラボを立ち上げてから初めての PCR 産物、およびベクターができあがる。Molecular cloning の歴史を地で行ってんなあ。明日はシーケンス。これが上手くいけば、とりあえず DNA 関係は一段落する。と思いたいが、そう簡単に行くのだろうか。不安である。
これまでにも、信じられないような落とし穴に墜ちてきた。アンピシリン無水和物は水に溶けないとか(普段「アンピシリン」といっているのは、正確にはアンピシリンナトリウム。知るか、そんなの)。あれにはまいった。大腸菌の培地が作れないとか、ホントあり得ない。地雷原の中でスイカ割りをしているようなものである。
立ち上げると一口に言っても、全ての環境が順番に、あるいは並行に立ち上がるわけではなくて、例えば細胞培養関係は突出して充実する、といったことが起こる。感染させるベクターもないのに、休日に職場まで出張って細胞の培地を交換とか、数年後には笑い話になりそうな喜劇を演じているわけだ。ま、それもしょうがない。立ち上げの経験が異様に豊富、という人がいるわけでもないし。どんな人だ、それは。
いや、しかし努力の甲斐あって、かなり設備は揃ってきている。今は人が足りない。本当はウエスタンとか免疫染色の系も立ち上げたいのだが、手が回らない。近日中に行う予定だけど。出でよ、千手観音!
「彼の顔はボタ餅のようなんだよ」
「潰れてるのかい?」
「ああ、まるで棚から落ちたみたいさ」
「そういう面相が好きだという令嬢がいるんだから、幸せってのはわからんね」
月見団子を食い損なった T です。こんばんは。
昨夜は中秋の名月であった。鴨川で月を眺めていたら遅くなり、今日は夕刻まで断続的に眠り続ける始末。陽が落ちる前にラボへ。培養細胞の培地交換とか、大腸菌の仕込みとかをゴソゴソと。
人並みにビックリマン・シールなんかを集めていた T です。こんばんは。
午後イチに細胞の継体や培地交換。胚様体も順調に成長しているようで何より。明日も培地交換。
変な時間に食事を摂ってしまい、早い時間からバーで飲む。アルバイト嬢や同席の客氏と、15年ほど昔のコロコロコミックの話題で盛り上がる。ビックリマンとか、つるピカハゲ丸とか。「つるセコ」なんて単語を聞いたのは何年ぶりだろう。それにしても、冷静に「つるピカハゲ丸」という字面を見てみるとスゴいセンスだな。味わいが深過ぎる。
古本屋に行くつもりはなかったのに、古本市に出くわしてしまった T です。こんばんは。
古本市にて、小林秀雄『本居宣長』と、江戸川乱歩『幻影城 探偵小説評論集』を買う。どちらも豪壮な函入の美麗本であり、何より、数年来読みたいと思っていた本でもある。
「古本の蒐集などを始めたら現世に戻ってこれそうもない」と書いたが、定価より安い値段で売買されているモノならば心配あるまい。定価以上の値札が付いた古書、それはもはや骨董に近い存在であり、手を出すようになれば、恐らく俺は終わりである。
先生と差し向いで呑む、という夢を見た(現実には二人きりで呑んだことはない)。既婚者である先生から、「結婚とは」という話を延々と聞かされる。なかなか面白かった、という記憶があるばかりで、具体的な内容は思い出せない。
……という夢を見たんですよ、と先生に話すと、「お前はまだ結婚は早い」と言われる。いや、結婚したいとかじゃないんだけど。黙って聞いていると、「なぜ早いかといえば〜」と理由を教えて下さる。夢と一緒やん。しかもシラフ。
膝の裏に汗疹ができた T です。こんばんは。
ES 細胞の懸濁液を hanging drop にする。液滴の底で細胞が凝集して胚様体 (embryoid body) という疑似胚を形成し、beating まで観察できるらしい。楽しみなことだ。Hanging drop といえば、タンパク質の結晶化を思い浮かべるけれど、こういう使い方もあるのね。最初に考えた奴は頭が良いよなあ。
とうとう「ES 細胞に飼われる」生活がスタート。明日からの 3連休では、明後日と明明後日に出勤予定。培地を変えるだけなんだけど、むしろまとまった仕事でもあった方が、時間の使い方としては効率的であるようにも思う。実際、ローテーションで平日に休みを入れるか、という話もある。ま、休日は何もしていないし、ブッ倒れない程度に頑張るか。
朝飯を食う店を変えてみた T です。こんばんは。
病院のラボには色んな人がいる。医者でもあり研究者でもある先生方、俺のようなリサーチ志向の研究員、動機も志望も様々なテクニシャンの方々。臨床寄りのラボもあれば、基礎系のラボもある。研究やラボ、それらの回し方については様々な意見が存在するわけだ。それぞれの意見を聞くことは勉強になるが、それらを調整するのはまた別問題である。なかなか難しいわな。
最近は毎晩、先生の車で送ってもらっている。楽チンであり、雑談をしながらのドライブも楽しい。こちらが話しかけるたびに、先生は律義に俺の顔を見てくれる。つまりはよそ見運転であって、ヒヤッとすることも少なくない。実際、先生の愛車はボコボコである。遠足ではないけれど、「家に帰るまでが仕事です」的な、気の抜けない一時なのだ。……帰宅の仕方を再検討せねばならんかもな。
ぶり返してきた暑さに閉口している T です。こんばんは。
細胞培養の各種操作について指導を受ける日々。失敗するほど難しい作業はないのだが、とにかく身体が覚えていないので、モタモタしてしょうがない。考えてやっている内はダメだよなあ。
夕刻よりフロー・サイトメーターの講習。寝そうになる。
疲労が溜まり気味。風呂に入って今夜はさっさと寝る!
The Rolling Stones の『Harlem Shuffle』がカヴァー曲だったと知ってビックリしている T です。こんばんは。
久し振りにストーンズを聞いて爆笑している。アホやろ、コイツら。
大したこともしていないのに、なあんか忙しい。という感想も、俺が研究という行為を価値の最上位に置いているからであって、例えば事務仕事を重視する価値観からすれば、「今日は充実した 1日だった」という評価に変わり得る、かもしれない。要するに、研究だけしておれば良い、というわけにはいかないのである。金を貰って働くのは難しい。何事も経験だ。研究のことしかわからない、となるよりはマシであろう。と思って頑張るのみである。という錯綜した気持ちを、悪文でもって表してみた。とは言い訳か(しつこい)。
2週連続で月曜日は午前様の T です。こんばんは。
テクニシャン嬢が大学から病院へ転属となった。これから一緒に働くことになる。俺よりも 4歳年下の彼女だが、これまでみっちりと細胞培養のトレーニングを受けており、学ぶべきところは多い。人員も増えたところで、ES 細胞を起こす。ここからが本番である。
19時よりセミナー。その後、飲み会。だから月曜からこのコンボはキツいっちゅうねん。楽しいけどさ。昨夜は 2時まで選挙速報を観ていたため、若干グロッキー。
衆議院議員選挙の開票が終わった。自民党の圧勝となっているけれども、それはあくまで結果論で、個々の選挙区を見てみると、ほとんどの選挙区で接戦が繰り広げられていた。政治家は何だかんだといわれることも多いが、少なくとも彼らは、数年おきにこのような闘いを勝ち抜いて政治家たり得ているわけで、椅子に踏んぞりかえっているだけの腐れ教授や、定時に帰ることしか頭にない無能公務員よりは、よほど漢である(今回の選挙は女性も多数いたが)。政治家の存在は、常に恥辱にまみれる敗北と背中合わせにある。
小選挙区制というのは非常に厳しいシステムである。1位の者しか当選しない(比例代表制もあるが、ここでは棚上げする)。1位になるのは至難の業である。京都 6区など、1位と 2位の差が 160票だった。各々の得票 7万数千に対して、である。それでも 2位は「負け」なのだ。厳しい。
10人中 1位になるのと、100人中 10位以内に入るのとでは、その難易度は全く異なる。就職活動中に、その意味を骨身に染みて感じた。志を同じくする者たちの中で、自分がトップに躍り出ることのいかに困難なことか。選挙報道では、当選者の選挙戦に密着したドキュメンタリーも数多く見たが、彼らの how to survive は大変興味深い。いや、マジで。政治家としての評価はまた別物だとしても、ね。
数ヶ月ぶりにテレビを観た T です。こんばんは。
衆議院議員選挙に行ってきた。選挙速報が見たくなったので、帰りにテレビの接続ケーブルを買ってくる。テレビだけ買っていて、いまだに接続していなかったのである。書斎のカーテンといい、我家には根本的に足りていないモノが多過ぎる。ラボの立ち上げをしている場合ではない。「立ち上げろ、自分の生活を」。選挙ポスターのコピーみたいだな。
たまには日記で私生活を垂れ流してみたくなる T です。こんばんは。
土曜の朝は掃除と洗濯。この習慣が完全に身に付いてしまった。洗濯はともかく、ほとんど使っていない部屋に、何故これほどのゴミやらチリやらホコリやらが毎週毎週溜まっていくのか。納得がいかない。
その後、昼飯を食いに行くついでに買い出しをするのが常道である。買い物ではなく、買い出し。食い物を買っても腐るだけ、ということがわかっているので、買うのは専ら日用雑貨だ。ティッシュなどの消耗品が切れていないかをチェックしてから出かけるのだが(まるで主夫だ)、今日は全てが満たされていたので購入の必要がない。それはそれで寂しいから、家電屋でマウス・パッドを買ってきた。
ELECOM の超薄型 (0.5 mm だったか) のマウス・パッド。Mac のマウスによく似合うので気に入った。
なんか、よく見かける「俺のオシャレ生活日記」みたいだなあ。そんなガラではないので、部屋の実情も写真に撮ってみた。
マウス・パッドを買う前に本棚を買え、俺よ。どこが「書斎」なんだ(写っている本は、全体の約 1/3 である)。というか、それより先にカーテンを買わねば。人として問題アリな、土曜の夜。
野球のメンバーのことを「ナイン」、サッカーのそれを「イレブン」ともいう。なかなか爽やかな語感である。ともに選手の人数を表しているわけだが、10人 1チームのスポーツでなくて本当に良かった。「テン」じゃあ格好がつかない。「阪神テン」じゃなあ。
The BEATLES の『A Hard Day's Night』を聞いている T です。こんばんは。
本格的に使える系が増えてきて、帰宅時間も日増しに遅くなる。来週には ES 細胞も起こす予定。「ES 細胞を飼うのではない。我々が ES 細胞に飼われるのだ」とは、先生の言。ケアや解析が大変らしい。いやはや。
細切れ読書はあまり好きではない T です。こんばんは。
昨夜は遅くまで本を読んでいたので、若干寝不足気味。それでも最後まで読み切ったわけではない。起床時間と睡眠時間を天秤にかけ、集中していた読書を途中でぶった切るのは、なかなか辛いものがある。とはいえ、給料で本を買っているわけだから、優先順位は明らかだ。本との付き合い方も、徐々に変えていかねばならんなあ、と思う。
女遊びに関する名言がある。「女遊びには、金、体力、時間が必要である。仕事を始める前は、体力と時間はあっても金がない。仕事を始めると、金と体力はあっても時間がない。仕事を辞める頃には、金と時間はあっても体力がない」。つまり、凡夫は一生女遊びができないわけだ。面白い理屈である。
このロジックは女遊びに限らず、様々な趣味に当てはめることが可能だ。そこをどうにかして楽しむためには、何らかのトリックが必要になる。「仕事をさっさと終わらして早く帰る」なんてのは、オーソドックスだが実行が難しい。逆に、「仕事を最大最強の楽しみにする」という仕掛けは愉快だが、リスキーでもある。知恵を絞る余地は無数にある。そう考えると、生活の仕方にも沢山のパターンが選択肢として浮上してくる。まァなんだ、工夫して楽しく暮らしたいものだ。
「とりあえずオーバーナイトで放置すれば、どんな制限酵素でも充分に切れるだろう」という雑な安心感を最後のより所にしつつある T です。こんばんは。
ベクター作成の準備。バックボーンとなるベクターは、他のラボから貰ったものを幾人かが何回にも渡って改良したため、正確な配列が不明である。よくある話ではある。
これを元に新たなベクターを作るわけであるが、「確実に」使える制限酵素がわからない。実際に切ってみるしかない。「ユニークであってくれ」と願いつつリストアップした制限酵素で切断してみたところ、全てのサンプルがズタズタに。マルチ・クローニング・サイト全滅か。それはもはや「マルチ」ではないぞ。というか、クローニング・サイトですらない。
可能性が残されているのは、使ったことも聞いたこともない酵素ばかり。Hpa I とかって何だ。500 unit で 1万数千円もするし。ベクターに使えるかどうかもわからんしなあ(そのため余計に「使えない」感が漂う。こちらの事情で申し訳ないが > Hpa I)。
ところで、活性温度が 65°C だったり (普通は 37°C)、認識配列が「CCNNGG」などと非特異的であったりする制限酵素を、俗に「変態酵素」という(人がいる)。できれば変態酵素は使いたくないのだが……。
電車の中で読む本をラボに忘れてきた T です。こんばんは。
凍結細胞を起こす。凍らせるときは徐々に、溶かすときは室温や 37°C で一気に、というのは線虫に通ずるものがある。要するに「氷の体積 > 水の体積」という不等式が問題なのだが、このような水(氷)の性質が生命誕生の原点でもあるのだから面白い。
月曜日から午前様の T です。こんばんは。
午前中は大学へ。正規採用になったということで、生協にてパソコンを買って頂く。これまでは自前の PowerBook (Mac) でしのいでいたが、新マシンはラボの標準に準拠して Win 機。SHARP は Mebius の B5 ノートである。なかなか使い勝手が良い。PowerBook は素晴らしいノートパソコンではあるけれど、持ち運ぶのに億劫であることは否めない。その点、国産マシンの日本人向け配慮には改めて感心する。
月曜恒例のセミナーは、今週から病院で 19時より開始というふうに変更された。21時に終了。その後は飲み会。なんというか、酒の呑める人間で良かったとつくづく思う。アルコール・デヒドロゲナーゼ遺伝子を俺に与えてくれた母親に感謝(父は下戸である)。
中古になっても、その物質的価値がほとんど下落しないのが書籍の美点だと思っている T です。こんばんは。
散髪に行き、そのまま古書店をブラブラ。本を読む・読まない以前に、俺は書籍というモノにフェティッシュな愛情を抱いている。したがって、どんな古書店も俺にとっては宝の山なのだが、古本の蒐集などを始めたら現世に戻ってこれそうもない、という恐怖感もある。第一、金がいくらあっても足りない。身代を食い潰す覚悟で始めないとな。始めないけど。
クーラーをかけるべきか消すべきか、頭を悩ます T です。こんばんは。
涼しくなってきたかと思ったら、9月に入ってから、また暑い日々が続いている。こうして徐々に秋へ向かっていくのだろうか。「三暑四涼」という造語を提唱する。
掃除、洗濯、自炊、爆睡。幾分まったりとした週末。久し振りに本屋に行って、10冊ほど文庫本を買う。時間を確保して読破したい。
どこまで生命現象の登場人物は増えるのか。
マウスのゲノムを解析した結果、これまでは何の役にも立っていないと考えられていた部分から、遺伝子の発現を指令するなど重要な機能を持つ約 2万 3000種類もの RNA が作られていることを、理化学研究所など 11カ国の国際研究チームが発見した。(毎日新聞)
記事の伝えたいことはわかるが、非コード領域を「何の役にも立っていないと考え」ている研究者はほとんどいないと思うぞ(だからこそ、記事のような研究が行われるのだ)。
しかしまァ、これらの部分から実際に RNA が転写されるのがわかったことは素晴らしい。2万以上という数字はデカい。遺伝子数と同じ規模である。当分仕事には困らなさそうだ。とか言ってたら、アッという間に解析され尽くされるかもな。ゲノムの解読がそうだったからなあ。
定期的にサイト名を変えたくなる衝動に襲われるのだが、既に「shuraba.com」というドメインを取得してしまったので、大幅な変更は許されない。次のようなものを考えた。
休日にこんなバカな文字列を書き込んでいる自分が情けなくなったのでやめる。しかし「Asia Pacific Version」と「帰ってきた〜」は、馬鹿馬鹿しくて自分でウケてしまった。「European Version」もないし、どこから帰ってくるのかという問題もあるので、改名は見送るけれども。
妙な疲れ方をしている T です。こんばんは。
立ち上げ途中では、とにかく何をやるのも大変だ。
♪何でもないようなことが 幸せだったと思う(虎舞竜『ロード』)
大腸菌からプラスミドを取ってきて、制限酵素で切断するだけで 1日が終わる。どうしてこんなに時間がかかるのかわからない。最後には、俺も先生も変にテンションが上がって、
「先生、我々は遺伝子組換え大腸菌からプラスミドを抽出することに成功しました!」
「よし、次はその DNA を部位特異的に切断しよう!」
と、誰もいない研究室で実習のような実験に精を出す。エチブロで染色した DNA のバンドが、あそこまで神々しく見えたのは初めてである。大丈夫なのか、ホントに。
眠たい日に限って日記に書きたいことが多い T です。こんばんは。
大量の薬品類が届く。嵐のように試薬を調合して、夜には大腸菌の形質転換を行うことができた。いやホント、笑い話ではない。0 から組換え大腸菌を培養できるようにするのがどれだけ大変なことか。今日と同じような小立ち上げが、これからしばらく続く。うひー。
職場から正式な辞令を拝命する。
ボスと先生、俺の 3人で飲み会。それにしても飲み会が好きなラボ(というかボス)だよなあ。俺も好きだから良いけど。基本的にタダ飯だし(これ重要)。
相変わらず面白い裏話のオンパレード。ヤバ過ぎてここに書けないのが残念だ。
いつの頃からか、ほとんど毎日更新している。「よく書くことがあるな」と言われることもある。正直、今日は書くことねえなあ、という日は多い。しかし「書くこと」がないような日でも、引きこもっていない限り、普通、誰かと何らかの会話はしている。ということは、「話すこと」ならあるんだよね。それを書いてしまえば良い。
我々一般人が「話す」という場合、それは特定の誰かを対象にしている。だから書くときも、自分の知っている「誰か」に読んでもらうことを想定して書けば良い。そうすることによって、「話すこと」が「書くこと」に転化する。話したいことなら、1日に一つや二つはあるだろう。
しっかりとしたネタがあるときは、不特定の読者という抽象化された存在を対象に書く。それはつまり、「誰に読まれても問題ない文章・内容」であることを意味する。これは文章作成技術を上達させるために最も効率的な手段ではあるが、やはりそれだけでは疲れる。毎日演説しているようなものだ。たまには「誰か」に語りかけるってのも良いんじゃないか。
以上が、俺が辿り着いた、更新頻度を維持するためのチップスである。
自分のパソコンが覗かれたら自殺ものだ。
嫉妬にかられた人が恋人のオンライン活動をのぞき見できるコンピューター・プログラムの作成者とその購入者数人が、コンピューター・プライバシーに関する米連邦法に違反したとして起訴された。
カルロス・エンリケ・ペレス=メラーラ被告 (25歳) は 26日、不正な傍受装置の製造、発送、宣伝、および保護されたコンピューターへの不正アクセスなど 35件の罪で起訴された。(WIRED)
恋人に限らず、他人のコンピュータを覗くことができたら、これは類例のない娯楽になりそうだな。それにしても可笑しいのが、「保護されたコンピューターへの不正アクセス」。保護されてねえよ、全然。