- いつか来た道、通る道

2005/05/08/Sun.いつか来た道、通る道

一度で良いから見合いというものを体験してみたい T です。こんばんは。

見合い

いや、別に結婚したいとかではなくて、「初対面どうしの男女が、初対面にも関わらず互いに結婚を意識してやり取りする」という、その殺人的に奇妙な状況に興味がある。周囲に見合い経験者がいないので、俺には全く謎の世界だ。だから、できるだけ古風な見合いをしてみたい。冷やかしであることがバレたら袋叩きにされそうだが。

そもそも、対面に座った異性に何を話せば良いのだろう。自分のアドリブ能力が丸裸にされそうだな。ああ、やってみたい。自分でやるのが無理なら、ガチンコの見合いを録画したビデオを観てみたい。絶対面白いと思う。

「見合いという風習は日本にしかない」とよく指摘されるけれど、だからといってそれが悪習だという結論にはならない。ある程度に進んだ現代社会では、恋愛の結果としての結婚が最も望ましいと考えられているのだろうが、しかし世界的に見れば、それは完全に主流とはいえない気もする。小さくは両親、大きくは地域社会といった、自分の属するコミュニティーによって決定される結婚もまだまだ多いだろう。そういう観点から見れば、見合いという、ある程度の決定権が当人に残されたシステムは、中庸という意味で極めて日本的ではある。そのユニークさは評価したい。

角栄の線路に乗って

就職活動で新幹線に乗るたびに田中角栄のことを考えていたのだが、それについて書く。

俺は田中角栄という政治家をリアルタイムでは知らない。したがって、彼の業績で俺が直に触れられるものは、新幹線を始めとする交通インフラのみである。盛大に税金を投入し、利用者の少ない地域にまで張り巡らされた交通網には批判の声も大きいが、いざ利用者の立場に立ってみると、そのありがたみがよくわかる。

俺が採用を希望した研究所の中には、辺鄙な土地に建てられたものもあって、「改造」された日本列島でなければ、とても行くに耐えないというラボもあった。俺が生まれ育った、あるいは住まったのは典型的な地方都市であり、それなりに交通が便利な土地柄であったが、これが田舎であったらと思うとゾッとする。鄙びた土地から鄙びた土地へ、交通網もなく、毎回泊まりがけで遠征するのにも限界がある。「職業選択の自由」といっても、しょせん題目だ。就職活動も、金銭や時間の制約からは免れ得ない。しかして、その「自由の可能性」(変な言葉だが)を、例えば新幹線が広げてくれたのは事実である。

JRも、そして近い将来は高速道路も民営であるから、採算性を無視できないのは理解できる。だが、社会性のある公共基盤として、少々の赤字を覚悟で整備しなければならないものもあるんじゃないか(ゆえに最初は国営だった)。極端な話、赤字路線に乗って上京してくる人間の中に、将来、日本に莫大な利益をもたらす男がいるかもしれない。就職活動の不安にさいなまれながら抱いたこのイメージが、新潟の寒村から東京に現れた田中角栄とダブったとき、俺は彼に少なからぬ親近感を持ったのだった。

まァ、単なる感情論かもしれないけど。だが、角栄の線路に乗って、様々な会社でブチのめされた経験があったからこそ、最終的には望みの仕事にありつけたんじゃないかなあとも思うわけだ。「何人が通るか」だけではなく、「どんな奴が通るか」も、道の価値を決める指標になるんじゃなかろうか。