- 悪人正機

2004/12/04/Sat.悪人正機

吉本隆明の『悪人正機』を読んだ T です。こんばんは。

吉本自身が「中学生に読んでもらえると嬉しい」と述べている通り、平易な言葉で語り下ろされた愉快な人生訓である。しかし、『悪人正機』というタイトルで中学生に訴求するのはあんまりだ。普通の中学生は、こんな題名の本は手に取らない。吉本隆明の愛読者なら別かもしれないが、中学生で吉本隆明ってのもなあ。ちょっといないだろ。

Web 日記

こうして日記を書いていると、たまには文体を変えてみようかなあ、と考えることもある。このサイトの文章は、基本的に「だ・である」調で書かれている。俺にとって書きやすいから採用しているだけのことで、特に理由はない。

とはいえ、礼を言ったり謝ったり、お祝いしたりお願いをするときには「です・ます」で書いているし、主観的なことを書く場合には口語体になったりもする。使用する口語も一様ではない。多くは標準語を使っているが、突っ込んだりするときは使い慣れた関西弁を用いるし、啖呵を切ったり悪態をつくときには江戸弁になったりする。結構いい加減なものだ。

ネット上で個人の日記を閲覧する機会も多いが、主流は「です・ます」もしくは口語体であり、俺のような書き方は少数派である印象が強い。そういえば、「俺」という一人称もあまり見かけないなあ。「個人日記における文体の傾向」というのは興味深いテーマであり、いずれ考えてみようと思う。

一人称の使い分け

一人称の話に戻る。一般的に、女性が「私」以外の一人称を許されていないのに比べ、男は「私」「僕」「俺」という使い分けが可能である。これはフェミニズムの基礎知識であり、今さら俺がアレコレと述べることもないが、乱暴に結論を要約すれば、「男は一人称を使い分けることによって、自分の立場も使い分けている」ということになる。身も蓋もない言い方をすれば「ズルい」ということだ。

この指摘はもっともであり、異を唱えるつもりはない。ただ、この指摘が有効なのは現実世界においてのみであり、ネット上での使い分けには適用できない。俺自身が、現実世界で「俺」と言う理由と、このサイトで「俺」と書く理由は、根本的に異なる。

まず、現実世界における「一人称の使い分け」であるが、これは半ば自動的に決定される。同年代以下の相手に対しては「俺」、親しい年配が相手だと「僕」、公的な場では「私」を使用する。以上は俺自身の使い分けの例であるが、他の多くの男性も似たり寄ったりだろう。重要なのは、使用する一人称が、対象となる相手に依存して決まるということだ。環境要因的、つまりは受動的なのである。

一方、サイトで使う一人称は能動的に決められる。何故なら、誰が読んでいるか、つまり対象がわからないからである。「自分より年上だけが読むサイト」なら、俺だって「僕」を使おうかとも思うが、そんなサイトは事実上あり得ない。あり得ない以上、一人称はこちらが任意に決定するしかない。そこには必ず「自己主張」が含まれる。

ネット上では、ある特定の「キャラ」を演じる人も多数存在する。そこでは、凝った一人称、あるいは自らのハンドルネームが用いられる。現実世界にもそのような人間はいるが、その割合は明らかにネットの方が高い。この現象はネット上における「匿名性」と絡めて論じられることが多いが、それに加えて、上記の「自己主張」も大きく関係しているのではないかと俺は思っている。

少し長くなったが、「個人日記における文体の傾向」を考えるヒントになりそうなので、書き留めておくことにした。

研究日記

学会発表のプレビュー。これといった修羅場もなく、無事終了。

吉野家日記

8月26日以来、久々に O嬢の接客を受ける。鼻血出そう。