- Diary 2004/11

2004/11/27/Sat.

学会が終わるまで、決してゲーム屋には近付くまいと決意した T です。こんばんは。

今日発売の「ドラゴンクエスト VIII 空と海と大地と呪われし姫君」がどんなものかと、ゲーム屋に寄ってみた。いかん、物欲を刺激され過ぎる。ドラクエばかりではない。来月 16日発売の「METAL GEAR SOLID 3 SNAKE EATER」のデモとか。しばらくはゲーム屋を避けるばかりでなく、1万円以上の現金を持ち歩かないようにしないと、どこでフラリと買ってしまうかわからない。

意外な相似点

自衛隊隊員募集のチラシが郵便受けに投げ込まれていた。「幹部候補生」「寮完備」「衣食支給」という言葉が踊っている。これってどこかで見たよなあ。しばらく考えてみたのだが、パチンコ屋やホスト・クラブなど、男が働く水商売の求人情報とよく似ていることに気付く。自衛隊と水商売、意外なところに接点があるものだ。

研究日記

ミーティングの後、皆で Dr. A を囲み昼飯。飯屋からの帰途、この 6年間で一度も訪れたことがなかった近くの理科大学を散策する。付属中学・高校を含めたこの大学は山の斜面に建っており、墓所の脇の急な坂道を延々と登って行かなければならない。しかしキャンパスからの眺望は最高で、紅葉のピークが過ぎた山肌にも風情がある。敷地が斜面に展開されているため、各建物は複雑に連結されており、起伏の激しい余剰スペースの間隙を縫うようにして、小道や駐輪場が設置されている。こういうのも良いなあと思ったが、実際に毎日通うとなれば、やはり面倒臭いのかもしれない。

2004/11/26/Fri.

そろそろ身辺整理を兼ねたデータ整理をしなければなあ、と考えている T です。こんばんは。

システムとツール

およそ「システム」というからには汎用的であるべきだ。それをある目的のために特化させていくと、いずれは「ツール」となってしまう。ある体系を構築しようとするとき、求めているものが「システム」なのか「ツール」なのかをハッキリさせておかないと、後から痛い目を見る。一から作り直しなんてことにもなりかねない。

自分の中でも、何を言いたいのかがまとまっていないんだけど。大規模なデータ移植を画策しているのだが、実際にやるとなると、ムチャクチャ面倒臭そうなんだよなあ。自分では使い勝手の良い「システム」を構築していたつもりなんだが、他の場所へ移すことまで視野に入れてなかった、つまり汎用性がなかったということを思い知る。結局は「ツール」だったんだよなあ、と。「ツールであること」による使い勝手の良さ、というのも確かにあるんだけれど。

研究日記

某研究班会議の参加費を振り込みに郵便局へ。ラボでまとめて申し込むため、振込人名義には K先生の名前を書いた。が、局員氏が振り込み処理をしてくれている間に、すっかりとそのことを忘れてしまった俺。局員氏が「Kさん、Kさーん」と一生懸命に名前を呼んでいるのに、俺は「K先生と同姓の人が来ているんだなあ」なんてことをボンヤリと考えていた。

局員氏はいつまでも「Kさんはいませんか?」と連呼している。自分のことだと思っていない俺は、「ったく、Kって奴はどいつもこいつも……」と毒を吐く。俺が過ちに気付いたのは、局員氏に「Kさん」を20回ほど言わせた後であったろうか。……まことに申し訳ない。

2004/11/25/Thu.

炬燵で寝ているために眠りが浅い T です。こんばんは。

その上、「浅い眠り > 二度寝」というコンボにハマりそうになる。いかんいかん。

普通じゃないから

不動産屋から「来春以降、転居の予定があるのかどうか知りたい」という通知が来たので、店舗まで出向いて説明することに。以前にも書いたが、現在俺が出している公募は「大学院博士課程在籍者が対象」なのである。つまりどうなるのかというと、「仕事が決まれば進学する = 引っ越さない。仕事が決まらなければ進学しない = 引っ越す」という具合になる。ところが、これを何度説明しても不動産屋が理解してくれない。「逆じゃないのか?」と問われる。確かに普通は逆なんだが、普通じゃないんだよ、俺がいるところは。こういうとき、自分は浮世離れしたところに身を置いているんだなあと実感する。

そんなこんなで、予定外の長時間を不動産屋で過ごす。予定が狂ったついでに、散髪にも行ってきた。散髪も久し振りだなあ、などと言っている時点で、やはり普通じゃない。

研究日記

アホか俺は。プレート上に産み落とされた線虫の卵や胚が回収しにくいのなら、液体培地でカルチャーすれば済む話じゃないか。この実験は去年も苦労しながらやったはずだが、どうして今まで気付かなかったのか。怪しげなプロトコールを開発している場合じゃないよ。頭が悪過ぎる。

Dr.Aの指導を得て、液体培地でのカルチャーを開始。一応の結果は出ているから学会には間に合うが、ベターな選択肢を放っておくわけにもいくまい。これは誠意の問題。年内には終わらせたいものだ。

2004/11/24/Wed.

T です。こんばんは。

研究日記

前回失敗した実験のリベンジ。意気込んでやり始めたものの、ガラスで手首をざっくり切ってしまうという抜群のスタート。手当てをしようと救急箱を開けるが、中には消毒液と、「粗品」と書かれたタオルが入っているだけ。使えねえ。しかもその消毒液、「1995年」とラベルされてある。使いたくねえ。そうしていると F氏が、「消毒する?」と言って 100% エタノールを持ってきてくれた。気持ちはありがたいが、そんなものを傷口にブチまけたらメチャクチャ痛いと思うんだが。結局、R女史から頂いたバンドエイドで事無きを得た。ありがとうございました。

実験は成功。ネガティブであることを示すデータだから、論文には「(data not shown)」と書いて終わりだと思うけど。まァ修士論文に使うから良いか。

……顕微鏡の見過ぎで目が痛い。今日はこれくらいで。

2004/11/23/Tue.

なかなか進路が決まらないせいか、ついつい「科学とは何ぞや」と考えてしまう T です。こんばんは。

研究日記

アーティファクト
Artifact。(天然物に対しての)人工物。ここでは「結晶化したタンパク質の構造はあくまで特定の条件下におけるものであって、生体内で働いているときの構造とは違うのではないか」という意味で使われている。

実験の合間にネットをブラブラ。あるところで「タンパク質の結晶は全てアーティファクトではないのか」という議論を見かけた。俺はタンパク質結晶に関しては素人だが、この質問に誠意をもって答えようとするならば、恐らく回答は「アーティファクトである」になるんじゃないかと想像する。問題は、それがアーティファクトとして、果たしてその結果に科学的な意味があるのだろうか、ということである。

難しい設問だが、個人的には「意味がある」と答えたい。

数学には「虚数」という数があり、これも一種の人工的な概念、アーティファクトだと言える。しかしこの虚数は、我々が存在する宇宙の因果律を、我々が理解できる形で示すためには必要な数である。

「何のために学問をするのか」という巨大な哲学的命題にも関係するのだが、要するに「我々が宇宙を理解するため」に学問は発展してきたんだと思う。その根源には、「我々は何であるか」という深い疑問が横たわっている。全ての学問は、この疑問に答えるためのアーティファクトではなかろうか。

話がデカくなり過ぎてしまった。冒頭のタンパク質結晶に話を戻すと、「アーティファクト」の構造から既知の生命現象が上手く説明でき、かつ既存の説明体系と矛盾を起こさないなら、そのアーティファクトの解析結果には科学的な意味があり、学問として充分有効だと俺は思う。

まぁ、アーティファクトにも色んなレベルがあるけれど。非特異性に代表されるような、嘘のアーティファクトはいらない。必要なのは、真実を説明する「事実としてのアーティファクト」である。

2004/11/22/Mon.

「20代に見えない」とよく言われる T です。こんばんは。

本当はただの大学院生なのだが

学祭は今日までだったらしい。せっかくなのでブラブラと冷やかして回った。最終日とあって、特に食べ物を扱っている店では叩き売りが目立つ。店の前を歩くと声を掛けられる。大抵は「お兄さん」などと呼び止められるのだが、4回に 1回くらいの割合で「先生」と呼ばれる。

学会なんかでもそうなのだが、俺はやたらと大学の教員に見えるらしい。最初の頃は一々と訂正していたが、最近は面倒臭くなって、言われるがままに「先生」を演じてしまうことが多い。

店「先生、食っていって下さいよ」
俺「おお。ありがとう」
店「どうッスか?」
俺「旨いね、コレ」
店「ありがとうございッス!」
俺「いやいや、こちらこそ。御馳走様」

デタラメの会話が、スラスラと口をついて出て行く。こんなスキルはいらないのだが。

研究日記

今日のTips。プレートから線虫の卵や胚を回収したいとき(これらは通常、洗い流しただけでは回収効率が非常に悪い)、以下の方法を試したら良いかも。

  1. 3 cm プレートに 0.6 ml の M9 バッファーを撒く(6 cm なら 2.4 ml、9 cm なら 5.4 ml という計算になる。要するに、ちょっと多め)。
  2. プレートに蓋をし、パラフィルムで密封する。
  3. Collagenase 用のシェイカーにプレートを固定し、ガリガリと震盪する(〜10 min くらいか)。
  4. バッファーを吸い出す。

これだけ。ビックリするほど綺麗に卵や胚が回収できる。培地上だけではなく、培地中に産み落とされた卵までが洗い流されていた。毛穴スッキリ、みたいな。恐るべし。回収したサンプルを検鏡してみたが、特に破損がひどいということはなかった。

何となく怪しげなプロトコールであり、あまりお勧めはしない。俺が研究している変異体は発生初期で運動ができなくなり、致死となる。そのため、この変異個体を大量に確保するのは難しい(やたらとプレート上にへばりついていて、回収できない)。この問題を解決するために編み出した、いわば裏技的な方法である。試される場合は、自己責任でどうぞ。

2004/11/21/Sun.

原油価格の値上がりが恨めしい T です。こんばんは。

とはいうものの、ガソリンは、その重要度に比して大変に安いなあ、と俺は思っている。値上がりしたといっても、120 円/L だぜ? 缶コーヒーの方がよほど高い。

不適応と過剰適応

俺はこの日記で、理屈ともいえないような屁理屈をよくこねているわけだが、日がな一日そんなことばかり考えているわけではない。どちらかというと実生活は大ざっぱで、面倒臭がりである。

「理屈っぽい男は嫌われる」と巷間で言われるように、(非常に乱暴に分類すると)理屈は男が好んで使うものであり、女性はその逆である。理屈が過ぎる人は「空気が読めない」とされ、社会的に不適応だと思われがちだが、それは少し違うと俺は思っている。

「理屈」を使うのは、他者を意識しているからである。「好きなものは好き!」という言説は自己完結しており、そこに他者性 = 社会性はない。しかし「〜だから好き」というふうに「理屈」を用いれば、「好きな理由」を他者と共有できる。社会性の誕生だ。「男は社会的な動物である」という、あまりにも古典的な説明に従うならば、男が好んで理屈を使いたがる理由の一端はそこにあると言えよう。

ゆえに「理屈が過ぎる人」は、社会的に不適応なのではなく、「過剰適応」なのではないかと俺は考えている。どちらにせよ空気を読めてはいないのだが。社会性というものは、双方向性でもある。「理屈が過ぎる」のは発信過多であり、それゆえ受信過小となる。「空気が読めない」の正体は、そこらへんにあるんじゃないかあと思っている。

要するに、バランスが大事なのである。< この結論は、大抵の文章をまとめるときに有効なので、覚えていて損はない(よく KID JOE 兄が使う)。

2004/11/20/Sat.

今月 27日発売の「ドラゴンクエスト VIII 空と海と大地と呪われし姫君」が非常に気になる T です。こんばんは。

ところで、ローマ数字は何進法と言えば良いのだろうか。計算は十進法だが、表記は違う。というのも「0」が存在しないからなのだが。n進法で使われる数字の数は n個である。しかしローマ数字では、桁が繰り上がるごとに新しい数字(文字)を用意する。こんな体系で、既にカエサルの時代には億単位の国家予算を計算していたというのだから、スゴいのかスゴくないのかよくわからない。

研究日記

今日から大学祭だが、そんなことにはお構いなく、午前中からミーティング。さすがにウチだけだろうと思ったが、大腸菌のラボでもミーティングが行われていた。やっぱそんなものなのか。いや、別に俺も大学祭に参加したいとは思わないけれど。

吉野家日記

危惧していたら案の定、だ。

吉野家が牛丼首位転落、売上高 17% 減...9月中間決算(讀売新聞)

牛丼を復活させない限り、客は吉野家から離れ続けるだろう。俺が吉野家を利用しているのも、もはや単に地理的な要因だけによる(=他の店が遠い)。現在利用している吉野家の隣にすき屋か松屋があったら、恐らく乗り換えるか、そうでなくとも吉野家の利用率はグッと下がるはずだ。牛丼さえあれば、吉野家の利用率は 100% なんだがなあ。

吉野家に限らず、ある特定のモノで勝負している商売は、顧客のロイヤリティーが高い傾向にある。アメリカン・バイクしか作らないハーレー・ダビッドソンなんかが良い例だと思う。ハーレーは伝統的に空冷エンジンを守り通していたのだが、2001年モデルとして初めて水冷エンジンを搭載したところ、それだけでファンからはボロクソに言われた。アメリカン以外のバイクを作っていたら、一体どうなっていたんだろう。

閑話休題。逆にバラエティーで勝負している商売は、その多様性とサイクルの速さが魅力的なのであって、そこでは一つのモノに対するロイヤリティーは育ちにくい。モデルチェンジによって買い替えを喚起するこのビジネスモデルは、どちらかというと日本企業が得意とする分野ではあるのだが、吉野家の方向性ではなかったはずだ。

株価が下がる前に牛丼作れって、吉野家。

Web 日記

「リニューアル終了」とか言いながら、実はまだ細かいチューニングを施していたりする。ほとんど見た目は変わっていなかったりするんだけど。どんなことにも通じる経験則だと思うが、作る側に回ると見方も変わる。どうやってそのデザインを実現しているのか、何故そのデザインを採用しているのか。そういうことを、色んなサイトを見ながら考えてしまう。というわけでここ数日は、用事もないのに同じサイトを何度も閲覧したりしている。アクセス解析をしている人がログを見れば、一人ヘンな Mac ユーザが混じっているかもしれないが、それは俺である。

「作る側に回ると見方も変わる」。これは非常に新鮮な体験だ。これまで鑑賞者として味わっていた喜びに加え、作成者としての視点でも観察できるようになり、グンと世界が広がる。俺の場合、自分で小説を書き始めてから本の読み方が変わったし、ギターを弾くようになって音楽の聴き方が変わった。ヘタでも構わないから、だまされたと思って、一度自分で何かを作ってみると良い。むしろヘタクソな方が、自分の中に問題意識を持てるので、観察眼が鋭くなるかもしれない。

「この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。踏み出せばその一歩が道となり、その一歩が道となる。迷わず行けよ。行けばわかるさ、アリガトー」(アントニオ猪木)

2004/11/19/Fri.

今夜も炬燵で下着を乾かしている T です。こんばんは。

洗濯日記

昨日の朝から干している洗濯物が一向に乾かない。いつまで干し続ければ良いのだろうか。部屋干ししようにも場所がない。困りながら我が豪邸をウロウロしていたのだが、ふと洗濯機に目が止まった。「ドライ」というボタンがある。なんだ、これで乾かせるじゃないか。早速ベランダから洗濯物を運び込み、洗濯機に放り込んで「ドライ」ボタンを押す。

……ドボドボと水が出てくるのはどうして? 

それは「ドライ」ではないと思うのだが。呆然としている間に、水はあっという間に洗濯槽を満たし、最後にはピーピーと警告音が鳴り出す始末。反射的に蓋を閉じると、間髪入れずにガーガーと回転を始めた。これは……洗濯をしているのか?

【ドライ】乾いて水気のないさま。(大辞林)

俺は気が狂ってしまったのかと心配になって辞書を引いたが、想定していた通りの意味が載っている。何で「ドライ」ボタンで洗濯が始まるんだ。わけがわからん。一つ確実なのは、乾いた下着を身に着けられる日が来るのが、更に延びたということだけ。

研究日記

来年 1月に、某研究班会議で発表することになった。口頭発表は久し振りだし、加えて発表時間が短いので、スライドをまとめるのに苦労しそう。話せることも限られるし、演題も工夫せねばならない。実家から通うことのできる場所で開催されるのは嬉しいことだが。

Web 日記

最近の Google はスゴい。「言語ツール」というページで、サイトを丸ごと翻訳できる。俺もこのサイトを英訳してみたのだが、かなり笑える英語が続出。まだベータ版だし、それも御愛嬌。しかし翻訳のレベルはともかく、サイトを動的に訳してしまおうという発想、そして実現してしまう技術力は大したものだ。

もう一つ。これもベータ版だが、「Google Scholar」という学術論文専門の検索サービスが立ち上がった。PubMed と似たようなサービスだが、独自性もある。

まず、論文のタイトルから直接、ジャーナルのサイトへとジャンプできる。PubMed の場合、論文のタイトル > PubMed の要約 > ジャーナルのサイト、という手順を踏むため、Google の方がダイレクトな感じがする(しかも、Google から PubMed の要約へとジャンプすることもできる)。

また、「Cited by 100」という形で、その論文の被引用数がわかるようになっている。これは嬉しい。それが全てじゃないとはいえ、山のように出てくる論文の中から効率的に重要な論文を選ぶには、是非とも参考にしたい数字である。

Google を褒めるばかりでは PubMed に申し訳ないので、気になった点も書いておく。Google の検索結果では、長いタイトルの論文は、題名が全て表示されない。これは致命的。全体的な見やすさもPubMed の方が優れている。

とあるタンパク質で検索をかけたのだが、Google で 15,700件のヒットがあるのに対し、PubMed では 1,623件。その差は約 10倍だが、Google はノイズが多い印象を受けた。さらに、Google では検索結果のソートができない(PubMed はできる)。場合によっては、目的の論文を探し当てるのに苦労することになるだろう。現時点では PubMed に一日の長があるように思える。だが、選択肢が増えることは良いことだ。Google にも頑張ってもらいたい。

2004/11/18/Thu.

炬燵の中で湿った下着を乾かしている T です。こんばんは。

明朝までに乾燥しなければ、着て行くものがない。ギリギリまで洗濯をしない俺が悪いのだが、天気予報によると、今日は曇りのはずだったのだ。それで洗濯物を干して出かけたのだが、どうしてこういう日に限って予報が外れて雨が降るかね。そこで行政改革案。

気象庁職員の給与 = 規定額 × 天気予報が外れた日数 / 365日

人員や新規採用の削減をするくらいなら、こっちを導入したらどうなんだ。

研究日記

実験失敗。「ネガティブである」ことを示したいのに、ポジティブ・コントロールがしっかりと出ていないという怪しげな結果(つまり、結果が「ネガティブ」であるのか、単に実験系が働いていないのかがわからない)。もちろんデータは全て破棄。まァこんな日もあるさ。

ポジティブ・コントロールは弱いというだけで、出るには出ている……のだが、そんな弁明をいくらしたところで、データの説得力が増すわけではない。逆に胡散臭くなる。というわけでやり直し。追試を含め、今月中の完遂を期す。っていうか、そうしないと学会に間に合わねえ。

「役に立つ」のがそんなにエラいのか

「それは何かの役に立つのか?」という質問は、基礎研究に携わっている者なら一度は受けたことがあると思う。愚問。役に立つかどうかわからないから研究しているのであって、それでこその文化国家なんじゃないか。「役に立つことしかしない」というのは非常に野蛮で無粋な思想である。そんな社会に俺は住みたくない。大体、そのような質問をするアナタは、ただ生命活動を維持するためだけに食事を摂るのか。体温を調節するためだけに衣服を身にまとうのか。違うだろ?

「果たして役に立つのだろうか」という疑問は、その仕事に関わっている人間が一番真剣に考えていることであって、それゆえに「役に立てたい」という想いも人一倍強くなる。そうやって悩んでいるうちに、奇想天外な応用を思い付くこともあるだろう。それが社会の革命的な発展や転換の契機となった、なんていう事例は歴史にゴマンとある。「役に立つことしかしない」人にとって、「歴史」はカビの生えた過去を振り返るだけのものだろうから、知らなくても無理はないけどさ。

2004/11/17/Wed.

寒くて着替えるのが面倒臭く、寝巻きにしているジャージの上からウインドブレーカーのパンツとかを適当に重ねて出勤したところ、O君から「今日はバイクですか」と尋ねられた T です。こんばんは。

研究日記

Dr. T の論文がパブリッシュされていた。おめでとうございます。早速 PDF ファイルを落として拝読。一層の御活躍を(こんなところからで申し訳ないですが)お祈り致します。

ピペットマンの調子が悪い。ダイアルを回してもガリガリいうだけで目盛りが合わない。明らかに 500 ul 以下しか吸えていないのに、「あっしはキッカリ 1 ml 吸ってますぜダンナ」みたいな顔をする。そんなお前が好きだ、ピペットマン。だが使えない。

吉野家日記

吉野家が新メニュー「牛焼肉丼」を始めた。焼く肉があるのなら牛丼を作れよ。我々が吉野家に求めているのは「豊富な品揃え」ではない。ただただ牛丼が食いたいだけなのだ。

で、朝は豚丼と半熟玉子で済ましたのだが、昼に行った飯屋の日替わり定食が、あろうことかカツ丼。全く組成が一緒じゃねえかボケ。これは牛丼を復活させない吉野家が悪い。飯屋に罪はない。

サンタ撲滅キャンペーン 2004 - 中間報告

準備中の「サンタ撲滅キャンペーン 2004」だが、ようやく面白い素材を手に入れた。っていうかコレ、そのままでも充分に笑えるんだが。しかしそれではただの剽窃になってしまうので、一捻り加えようとアレコレ考えている。この段階が一番楽しい。いざ作り始めると面倒臭くなるのだが。

小春日和

今朝の寒さにビビってしまい、帰宅してから炬燵を出した。ノートパソコンもデスクから炬燵へと移動。快適至極。動けなくなりそうな予感。

動くといえば、まだまだバイクにも乗りたいのだが、朝晩は寒くて乗る気がしない。それでも昼間は暖かくて、ニュースでも今日は小春日和だとか。まことに恨めしい。

2004/11/16/Tue.

寒いのが苦手な T です。こんばんは。

研究日記

セミナーで某ジャーナルの論文を10編ほど紹介。いかんせん俺には細胞培養の経験がなく、いまだに培養細胞に関してはわからないことが多い。あと、マウスの組織名とか。そのつど調べてはいるのだが、使う機会がないのですぐに忘れてしまう。ちょっと悔しい。

初雪

冬めいてきたので、初雪の話を書く。富士山頂のように、1年の間でも長期の冠雪が見られる場所では、「その年の最高気温を記録した日以降で初めての降雪を初雪とする」という定義が用いられる。

変な決め方だなあ、と思う。まず、「その年の最高気温を記録した日」というのは、「翌年」にならないと確定できない。常識的にはあり得ないが、12月になって夏を上回る気温を記録する日が現れる可能性は 0 ではない。つまり、初雪に関して報告できるのは「昨年の初雪は X月 X日でした」ということだけなのである。それはそれで構わないのだが、どちらかというと初雪の話題は時事的なものであり、ニュースバリューとしては致命的な欠陥を持つ。だから「今日、初雪が降りました」という報道は、それが嘘である可能性を常に孕んでいるのだ。

12月 31日に最高気温を記録したらどうするんだろう。「昨年は初雪がありませんでした」とでも言うのだろうか。「昨年は初雪がありませんでした」。凄みのある文章だよなあ。どこかで使えそうだ。

2004/11/15/Mon.

ベランダにゴミ袋を三つも溜めている T です。こんばんは。

Web 日記

「ポータルサイト論」のイントロダクションに代えて、ネットワーク端末の話をする。一昔前、来るべきコンピューティング環境として、ネットワーク端末が熱く語られていた。高性能のサーバにつながった、一連の軽い端末からなる系である。端末にはソフトウェアどころか、OS すら搭載されていない。どうするのかというと、立ち上げられた端末は、起動時にサーバから OS を読み込むのである。で、例えば端末にある画像ファイルを処理したいとする。今度はグラフィックソフトもサーバから読み込む。ソフトウェアはサーバで一元管理され、手元の端末にあるのはデータのみ、というシステムである。

これにどういうメリットがあるのか。ウイルス騒ぎでもわかるように、大規模な組織で使われている何百台のマシンの一つ一つにパッチを当てるには、膨大な時間とコストがかかる。OS やアプリケーションのインストールやアップデートも大仕事だ。しかしネットワーク端末の系ならば、サーバにあるソフトウェアを更新するだけで、全ての端末が最新の環境を利用できることになる。

まさに良いこと尽くしだが、ちょっと考えただけでも「OS のダウンロード」など無理だろうと思ってしまう。もっとも、この構想はネットバブル期に語られていたもので、ネットワークの通信状況も数年で劇的に向上するだろうという希望に基づいた、非常に楽観的なモデルではある。

さて、実際にはどうなったのか。それが今日のテーマ。

サイトのポータル化 (3)

昨日までは「自サイトの」ポータル化の話だったが、Yahoo! に代表されるポータルサイト・サービスの利用とは何が違うのかを考えてみる。

例えばメール。メールソフトを使わずとも、ポータルサイトのメールサービスはブラウザだけで完結する。とはいえ、無料サービスの多くはメールボックスの容量が貧弱であり、ほとんどの人が自分のマシンのメールソフトでも受信(=コピーのダウンロード)をしてきたと思う。ところが今年になって、Google が容量 1 GB のメールサービス「Gmail」を開始した。現時点での常識的なメールのサイズを考えると、一生分のメールを溜め込むには充分過ぎる容量であると言える。つまり、メールソフトがなくても困らなくなるのだ。

同じことがスケジュール管理や Blog についても言える。Gmail の登場以降、各ポータルサイトでのサービスの充実競争(主にレジストリ容量の拡大)が激化した。俺が利用している Yahoo! のメールボックスは、この 1年で 50 MB から 2 GB へと激増、実に 40倍である。今年日本でも大ブレイクした Blog だが、これはアメリカのブームが上陸したのではなく、サービス競争による企業側の猛アプローチが火をつけたという文脈で俺は見ている。

全てのサービスに共通しているのが、「ユーザのローカルデータを、いかにしてサービスを提供しているサーバに取り込むか」という目的意識である。言うまでもないことだが、情報は金になる。例えば Blog なんかでは、個人の嗜好が比較的ストレートに書かれたりする。「カテゴリー」などの分類は、その際たるものだ。これを利用すれば、効率の良いダイレクトメールの発送が可能だ。Yahoo! でも Google でも、その収益の大半は広告からなっている。そういう仕組みなのだ。

ポータルサイト・サービスの問題点

真に無料のサービスなどなく、ましてやそれで儲かるなんて。どこかにカラクリがあり、利用には必ず代償がつきものであることなど、常識的に考えればわかるはずだ。それを知った上で利用する分には、大変便利なサービスである。

問題なのは技術的な基盤である。サービスを提供するソフトウェアがブラウザで完結するところなどは、ネットワーク端末に似ている。逆に全く異なる点は、データまでもがサーバ側に格納されているということだ。

ローカルからデータを手放していった挙げ句、サーバが吹っ飛んだらどうするの?という危惧がある。そこには貴重な情報もあろう。何より、ローカルのハードディスクが壊れるのは自分の責任だが、ポータルサイトサービスはそうではない。ただの一企業がやっているのだ。一度、データの保証に関する規約に目を通しておいた方が良い。消えてなくなってしまってからでは遅い。

データのみならず、その管理までを委ねるかどうか。俺が Blog に興味を持ちつつ最終的に移行しなかったのは、そういう理由もある。そりゃあ Blog だってローカルにダウンロードもできるが、そんな面倒なことをしないのは始める前からわかっている。アップロードは、そうしないとネットで利用できないからやるのであって、そこがバックアップだけを目的としたダウンロードとは違う。大切なことだと知りながらもバックアップに熱心でないのは、何も俺ばかりではないだろう。

「ハードディスクの外部展開」という文脈で考えるならば、「自サイトのポータル化」とは、実はバックアップも兼ねている優れた方向性であると言えないこともない。サーバは「外付けハードディスク」というわけ。問題点は、ローカル利用とネット利用でのファイル形式の違い、そしてファイル管理の煩雑さだろう。ここらへんは、スクリプトを組んだりソフトウェアを使って、できるだけシームレスな環境を構築する必要がある。それが今の俺の課題だろうか。

2004/11/14/Sun.

ようやく全てのリニューアルを終えた T です。こんばんは。

Web 日記

コンピュータやネットワークの話はときどき書いているのだが、これまで「研究日記」や「バイク日記」のような小見出しを与えていなかった。ということで、これからはこの手の話を「Web 日記」と題して書くことにする。見出しの名前を画一的にしているのは、何も面倒臭がっているわけじゃなくて、検索性を高めるため。アンカーを貼ったりするときなど、結構役に立つ。

「生産性の向上」なんて言うと、それはクリエイティビティと反比例するような印象を持ってしまいがちだ。見出しにしても、読者の興味を引いたり、検索に引っ掛かることなどを考えると、もっと凝ったフレーズを折り込めば良いのかもしれない。しかしそれは生産性を犠牲にしなくても達成できる。例えば見出しを「Web 日記 - 検索性の向上」としたり、あるいはもう一つ下のレベルの見出しを作るなど、いくらでも対処法はある。要は頭の使い方なのだ。生産性と創造性は背反するものではない。多産の芸術家なんて腐るほどいるし、寡作が佳作とは限らない。悪しき芸術主義には死を!

……なんて、全然「Web 日記」じゃねえな。

サイトのポータル化 (2)

昨日の日記にも書いたが、「ハードディスクの外部展開」を推し進めると、それは「サイトのポータル化」に行き着く。要するに、自分のハードディスクにあるデータを続々とアップロードして、自分のサイトの使い勝手を良くしようという方向だ。

「ポータルサイト」の定義は様々だと思うが、一つの典型例が Yahoo! であることは間違いない。ブラウザさえあれば、ここからメール、スケジュールの管理ができ、ニュースが読め、検索ができる。そのココロは「他のものはいりません」ということだ。

「ポータル化」をさらに突き進めると、オリジナルとコピーの反転が起こる。例えばこのサイトの「オリジナル」は俺のハードディスクにあり、サーバにアップロードされているのはその「コピー」だ。アップされていないデータもあるため、「オリジナル@ローカル > コピー@サーバ」という関係性が成り立つ。これがどう逆転するのか。

BBS を作りながらつくづくと思ったのだが、Blog みたいな感じで、全ての更新をネット上で行えるように改造することは難しくない。これは考えようによっては実に便利である。じゃあ最初から Blog にしろよということになるのだが、そうしないのは、結局それがイヤだからである。ネット上で更新したデータは、直接サーバのハードディスクに書き込まれる。これが「オリジナル」となる。自分のマシンでデータを利用したいと思えば、ダウンロード、つまり「コピー」を使用しなければならない。

デジタルデータだからオリジナルもへったくれもないのだが、これは所有欲の問題でもある。俺はモノ持たずだが(あるいはそれゆえに)、人一倍所有欲が強い。レンタルショップでの顛末でも書いたが、自分のモノは手元にないとイヤなのである。まあ、これは個人の感覚だけれど。

ポータルサイトの行方

さて、自分のサイトのポータル化ならば、どちらにせよデータの所有権は完全に自分の手の内にある。個人の中でバランスを取れば問題ない。では、ポータルサイトの利用、ポータルサイトのサービスの充実とは何を意味するのか、ということを明日書こうと思う。

2004/11/13/Sat.

サイトを引っ越した T です。こんばんは。

以前の URL やメールアドレスは生きており、特にメールはこれからも使っていく。廃止するときは、ここで報告します。

サイトのポータル化 (1)

引っ越しに伴って、若干のリニューアルを行った。

まずは「BBS」。サーバを自前でレンタルしたことにより、CGI を動かすことができるようになった。そこで BBS とカウンタを設置したのだが、動作不良などがあれば教えて下さい。

もう一つ大きく変わったのが「Link」である。俺のブラウザに入っているブックマークから多くを移植した。以前に「ハードディスクの外部展開」で述べたが、このような「自分のハードディスクからサイトへのデータ移植」が進んでいくと、究極的には「サイトのポータル化」という現象に行き着く。俺様ポータル、というわけ。個人的なポータルサイトを公開する必要があるのか、と問われても答えに詰まるが、様子を見ながらやっていくつもり。ときには意味不明なページがアップされるかもしれないが、少なくとも、それは俺にとっての「便利」の体現ということになる。

サイトについては、一人の管理人として色々と考えることもある。これからボチボチと、それらについても書いていく予定。

あと、メニュー周りを英語表記にした。普段から「日本語使え」とか言ってる俺だが、やっぱ横書きは英語の方が格好良いわ。いい加減なことで申し訳ない。

最後に、昨夜読んだ大槻ケンヂ『オーケンのめくるめく脱力旅の世界』から、気に入った一文を引用しておく。

「楽しかったことはみんなエッセイに書いて残しておきたいんだよ」

このサイトもそうでありたいものだ。

2004/11/12/Fri.

女性店員が絶えて久しい近所のコンビニに、新しく女の子が働き出してウハウハの T です。こんばんは。

前の人ほど可愛くないんだけどさ。

近況報告など

日中は向かいで工事、夜は隣で麻雀。どうなっているんだ、俺の周囲は。斜向かいでは葬式やってるし。この家にはバアちゃんがいて、俺がバイトをしていたスーパーの客なのだ。お互い顔を知っていて、朝に会ったりなんかすると挨拶を交わすのだが、この人の葬式だったらちょっとイヤだよな。まあ、バアちゃん以外は若夫婦と小さい子供なんで、他の誰かが死んでてもイヤなんだけど。

バイク日記

今年の冬は暖かい。11月も半ばになろうとしているのに、出勤程度なら余裕でバイクに乗れる。一応、暑い頃に比べて低めのギアで = 高めのエンジン回転数で走っている。もちろんエンジンを暖めるためなのだが、つまり余分にガソリンを燃焼させているわけで。原油価格の値上がりと逆行したバイク・ライフを送っている。

「やらない」アメリカ

「できない」と「やらない」は全く違う。怠惰による「やらない」は論外としても、意志や倫理で「やらない」とい決めている人や組織は、考えようによっては非常に怖い。例えばアメリカは、世界のサイエンスをリードしようと躍起になっているが、もしも彼らが米国内によるあらゆるリソース(変異体バンクや文献検索サービスなど)から外国人をはじき出せば、その目標はたやすく達成されるだろう。

インターネットでも、送信されたデータは必ずアメリカのサーバを経由する。アメリカが、明日から我々の電子メールの利用を不可能にするということは、原理的に可能である。そうなれば仕事のやり方は 10年前に逆戻りだ。太刀打ちできるわけがない。

世界世論を考えると、まさかそんな事態が訪れるとは思えないが、だからといって本質が変わるわけでもない。要するに核兵器みたいなもんで、いつ抑止力としてのブラフに使われるかわからない。そうしないのは、今のところその必要がないというだけなんじゃないか。利用停止とまではいかなくとも、現在無償でアメリカが提供しているサービスに関税でもかけてみろ。それはほとんど経済制裁になってしまう。

好き嫌いは別にして、やっぱりアメリカという国は凄いと思う。外国のために税金を使う度胸が日本の政治家にはあるかな。ODA で金をバラまくくらいなら、NIH (National Institute of Health; アメリカ国立衛生研究所) に匹敵する機関でも作って、世界に還元した方がよほど賢い。日本には、それを実現する力もあると思うんだがなあ。

2004/11/09/Tue.

図書館で昼寝をしてしまった T です。こんばんは。

「ツバ」と「ヨダレ」は何が違うのか。モノとしては、どちらも同じ「唾液」である。「ツバを吐く」「ツバを飲み込む」のように、「ツバ」は自動詞とともに、「ヨダレが垂れる」という具合に、「ヨダレ」は他動詞とともに使われることが多いような気はする。まあ、「ツバが湧く」「ヨダレを垂れす」という表現もあるけれど。

印象からすると、「ツバ」は意図的に分泌するもの、「ヨダレ」は無意識に分泌されるもの、という分類ができそうだ。で、仮にこのように定義したとして、果たして両者は本当に同一の「唾液」なのだろうか。一度、成分を分析してみた方が良い。昔の人の知恵は、何しろ深い。わざわざ別の言葉を当てはめたのだから、実はツバとヨダレは違うものだった、という結果が出ても俺は驚かんぞ。ヨダレの方が、アミラーゼの含有量が多かったなんてことは、充分にあり得ると思う。

ツバはともかく、ヨダレのサンプリングは難しそうだけどな。

2004/11/07/Sun.

松平健「マツケンサンバ II」と、東京事変「群青日和」「遭難」をレンタルショップから借りてきた T です。こんばんは。

俺は知らなかったのだが、そのショップ、ちょうどレンタル料金半額キャンペーンを行っており、信じられないくらいの数の人間が、ずらりとカウンターに並んでいた。それらの列の最後尾に俺も並んだわけなんだけれど、待っている間に、何かこう、情けなあい気持ちになってくるんだよな。別に俺は半額だから借りたわけではないが、レンタルしている時点で負け組というか。要するに、モノを購入せずにコンテンツを楽しもうという精神が、既にさもしい。

欲しかったら買えよ、という気持ちがまずあって、そもそもレンタルショップ自体、俺はあまり利用しない。本なんかが特にそうなんだが、図書館で借りたりした書物は大抵の場合、後から自分で買っている。さすがにビデオはレンタルするけれど、CD だって滅多に借りないんだよなあ。昨夜、「カウントダウン TV」を観ていて、ちょっと聴きたくなったから借りてしまったんだが、ああ自己嫌悪。恥ずかしい。

返却したら、借りたのと同じCDを買おうかと思っている。

2004/11/06/Sat.

今日はタラタラとテレビを観続けただけで終わってしまった T です。こんばんは。

映像と文章

俺はほとんどテレビを観ないのだが、その理由の一つに、テレビによって摂取できる単位時間当たりの情報量の少なさが上げられる。例えば同じニュースに関する情報でも、映像を見るよりも文字で読んだ方が速いし、正確に記憶に残る(これには個人差もあるだろうが)。新聞に比べ、テレビはニュースの速報性で勝っているなどと言われたこともあるが、それもネットニュースの配信が広まるにつけ、何ら利点ではなくなった。

もちろん、テレビが放送するのはニュース番組ばかりではないが、何にせよ、情報消化率は映像よりもテキストの方が優れている。結局テレビを観る機会は、純粋に映像でないと摂取できないもの(映画など)に限られる。映画にしたって、俺個人はほとんど観ないのだけれど。映画でなければできない表現があるということは承知しているが、それでも映画を観るなら本を読む方を選んでしまう。これは何も、小説が映画より優れているという主張ではない。野球とサッカーのどちらが好きか、というのと同じ話で、単に嗜好の問題である。

一つ、映像表現が宿命的に持つ特質として挙げられるのが、「鑑賞者が時間軸を支配できない」ということである。本は、速読もできるし熟読もできる。さらにはページを遡っても読める = 時間軸の逆行が可能なのだ。映像ではこれが基本的にできない。作成者の思惑通りに時間が過ぎ去っていく。それゆえに鑑賞者の意表をつくといったこともできるのだが、よほど作り込まれていないと、鑑賞者の注意を持続させることは難しい。読書と比較すると、どうしても鑑賞者の能動性が低くなってしまいがちなメディアという性質もある。

理由がないと読書はしないが、テレビを観るときには理由がない。そんな人は多いんじゃないかな。

2004/11/05/Fri.

この日記を書き終わったらワインを飲む予定の T です。こんばんは。

サンタ撲滅キャンペーン 2004

昨年一昨年と、このサイトでは「サンタ撲滅キャンペーン」を展開している。今年もやろうかと思っているのだが、良い案が浮かばずに困っている。必要なら CG を作る手間も厭わないが(こういう機会がないと触らないし)、そのためには早めに題材を決定しなければならない。

決してクリスマス自体を否定しているわけではない。キリスト教徒による聖なる祭りとしてのクリスマスは、長い歴史を持つ、大切な宗教的・文化的行事として認識している。ただ、キリスト教に何の関係もない日本人が騒ぐ、その大義名分としてのクリスマスが嫌いなのである。いや、騒ぐこともその人の勝手だから好きにすれば良いのだが、同じようなテンションを俺に求められても困るわけで。関係ないもん、という顔をしただけで非国民扱いされる空気はどうにかしてほしい。

ま、そんなわけで、趣旨は「クリスマスという空気」に対するアンチ・テーゼなのだ。それではあまりにも漠然としているので、象徴としてのサンタの撲滅を掲げている。聖ニコラスに恨みがあるわけではない。

研究日記

12月は二つの学会で発表予定……なのだが、そのうちの一つからは、いまだに演題登録の報せが来ない。えらく遅いなあと思っていたのだが、何と他の人には学会からのメールが届いているという。俺には来てないぞ。もしや登録ミス? あるいは、ポスター発表なのに採択を拒否されたとか?

問い合わせをしてみると、ただの事務的なミスでメールが発送されていなかっただけらしい。登録はちゃんとされていたようで、ほっと一安心。今年は(財)日本学会事務センターで不祥事があり、学会の運営がゴタゴタしているという。学会といえども、理事や運営委員は皆、大学の教授や研究機関のエラい先生であって、実際に学会を運営するスキルも時間もない。そこで、大量の学会員の登録や会費の管理、年会の開催などを、学会事務センターに委託しているわけだ。その委託先が学会費の流用という事件を起こしてしまい、今年は各学会が独自の運営を余儀なくされている。メール発送のミスには、こんな背景も関係しているのだろう。

いかに学会の運営が学会事務センターに依存していたかというと、例えば俺が所属している学会の一つからは、

「会費の納入とかがややこしいので、今年はいいです。来年でいいです」

というメールが来たことでもわかる。これもどうかと思うが。

2004/11/04/Thu.

本棚の整理に挫折した T です。こんばんは。

研究日記

学会まで約 1ヶ月。先月は何だかんだで、ほとんど実験できずじまいだったため、そろそろ尻に火が点き始めている。つっても、一昨日からは線虫が増えるのを待っているだけなんだけれど。俺が扱っている変異体は致死の表現型を示すため、変異遺伝子をヘテロで維持している。本当に観察したいホモの子孫が出てくる確率は、たった 1/4。どんな実験をやるにしても、普通より大量の線虫が必要なのだ。産めよ増やせよ。

先月発表したばかりなのに、今月もセミナー発表が当たっている。勉強するか。

2004/11/03/Wed.

今日は文化の日……と知らずに出勤してしまった T です。こんばんは。

昨夜、カレンダーを作ったときに気付よ、俺。

というわけで、適当に切り上げて帰る。晩飯はヒゲマン氏に焼き肉を御馳走になった。ありがとうございます。あとはひたすら、昨夜から続けている「Book List」の作成。一応完成したのだが、途中で変な文字コードが入ったらしく、どうしても後半が読み込まれない。というわけで、とりあえず国内編だけをアップ。おいおい改修していく予定。疲れた。

2004/11/02/Tue.

2日ほど更新をサボった T です。こんばんは。

別に忙しかったわけじゃなくて、単に更新する気がなかったというか。あえて理由を付けるならば、最近、ちょっとネットに依存的なところがあって、少し意識的に接続を遮断していたというフシもある。ネットがなくても、困らないといえば困らない。もちろん、完全に遮断することは今の生活では不可能だが、たまには数年前の生活スタイルに戻してみることも、俺の世代には重要なんじゃないのかなあ、と思った。

ハードディスクの外部展開

このサイトを開設してから 2年半が経った。そこそこ長続きしている方なんじゃないかと思う。特にモットーなんてないが、「更新のための更新はしない」と決めている。サイトの更新なんて、義務や強制になった瞬間から嫌気が差すに違いないと、自分でわかっているからだ。

ゆえに、「サイトのために」コンテンツを作ることはほとんどない。CG だって、ヒマ潰しに作ったものの中から、他人に見せられるようなものを選んでアップしているだけ。日記読書記録だって、このサイトを始める前から習慣的に書いていたものである。つまりどういうことかというと、これまで俺のハードディスク上に、ローカルな形で存在していたものを続々とアップロードすることによって、このサイトは成り立っているわけである。

視点を変えると、「ハードディスクの外部化」でもある。自分のマシンを持ち歩かなくても、ネットワークに接続さえできれば、ハードディスクにあるのと同じデータにアクセスできる。むろん、全てのデータにではないが……。

蔵書目録

というところで、一つ思い付いたことがある。先日、「Book List」というページをアップした。これは「Book Review」で紹介している本を、作者別にまとめた簡単なデータベースである。「Book Review」は来年以降も続けるつもりであり、そうなれば「あの書評を書いたのは 2004年だったか、それとも 2005年だったか」と、探さなければいけないことがあるやもしれぬ。そんなときに「Book List」があれば、このページから検索し、該当ページの該当部分にジャンプすることができる……。そう考えての作成だった。

それと同時に、「Book List」の作成が、以前から懸案になっている蔵書目録の構築への決意に火をつけた。ヤル気になった今こそ、この難事を成し遂げねばならぬと、半分以上本気で考えている。この蔵書目録は私的なものであり、当初はこのサイトで公開するつもりもなかった。当然である。それは単に俺の本棚を埋めている書物のリストに過ぎず、公開することに意味はないからだ。

しかし、本当にそうなのだろうか。仮に蔵書目録を作ったとして、それが俺のマシンのハードディスク内にあることに、どれほどの意味があるのだろうか。パソコンデスクのすぐ裏側に、本物の本棚が控えているのである。蔵書リストを見るよりは、実物を探した方が余程早い。それよりも、サイトで公開することを「ハードディスクの外部化」と考えれば、こちらの方により意義がある。

外部から自分の蔵書リストが閲覧できるならば、それは読書人にとって大きなメリットとなろう。例えば、同じ本の二度買いを防ぐことができる。本を読まない人には信じられないことかもしれないが、これが結構あるのである。本屋で面白そうな本を手に取ったとき、この本を読んだことがあるのかないのか、あるいは既に買い置きしているのかそうでないのか、本気でわからないことがある。本との出会いは不思議なもので、「欲しい」と思ったときに買っておかないと、再び目にすることが難しいなんてこともよくある。結局、わからないときは買ってしまう。家に帰って本棚を検索してから、実は二度買いだったと知ることになる。

蔵書目録を作るために必要な労力は、アップロードしてもしなくても同じである。それならば、利点のある方を選べば良い。サイトのページとして作成するならば、基本的に HTML で書かなければいけないという制約があるにはあるが、どちらにせよ、何らかのフォーマットを選ばなければならないのだ。

……というわけで、積年の計画であった蔵書目録の作成を開始しようかと考えている。が、本棚を見上げるたびにくじけそうになる。果たして終了するのだろうか。