- 言説を自動化する仕組み (1)

2004/10/26/Tue.言説を自動化する仕組み (1)

マニュアル野郎にはウンザリの T です。こんばんは。

比喩の自動化

言説を自動化する枠組みというものに興味があって、これまでにも日記で何度か書いている(最近では「二元論の罠」とか)。自動化された言説は恐ろしい。その効果や威力が強過ぎるあまり、自分が本当に書きたいことからズレた文章が吐き出されてしまう可能性がある。

例えば、「様々な思い出が走馬灯のように浮かんでくる」という表現がある。実際に使ったことのある人もいるだろう。しかし現代の日本で、本物の「走馬灯」を見た人はどれくらいいるんだろうか。俺は見たことがない。見たことがないモノを比喩として使う、すなわち比喩の自動化である。

「走馬灯」を知らない人が「走馬灯のように」と表現する場合、それは「『走馬灯のように』という比喩が表現するような感じで」くらいの意味合いしか持たない。別にそれが悪いことだとは言わないが、彼が「走馬灯」を知らない以上、彼の内的イメージと、表現されたイメージは既にズレている。それでも意味が通じるのは、自動化された比喩が、半ば共通言語として、一つの形容詞のように機能しているからだ。「走馬灯のように」という表現は、もはや「熱い」や「優しく」といったレベルの「単語」であるとすら言える。

自動化のプロセス

これは個人的な考えなのだが、比喩を含む詩的表現とは、本来の言葉の組み合わせとは微妙に異なるところに生じるものなのではないか。そしてその些細な違和感が、「詩的」と称されるものの正体ではないか。結局、全ての表現は「言葉の組み合わせ」という問題に還元されるのではないか。そういう仮説を持っている。

どんなに高額であっても、本当に「目の玉が飛び出る」ことはない。その意味でこの表現は「正しくない」。だが、その「間違った組み合わせ」によって生じる効果が劇的であれば、いずれ人口を膾炙し、多くの人が文字として残し、最終的に「表現」として認知される。この経過は「誤用と正規表現」にも書いた。そして優秀なもの(=使用頻度の高いもの)は自動化される。選択的な進化が働いている、と言えなくもない。

同時にこの「進化」は、「表現の最大公約数化」でもある。ここに落とし穴がある。「私」は常に唯一であって、「特殊」であるからだ。いつも最大公約数で割り切れるとは限らない。

覚書

さて、「表現」について長々と書いてしまったが、言説の自動化を促すものには、外的な要因もある。簡単に言えば、この文章が日本語で書かれている時点で、既に「日本語」という制約を受けているのである。今日はそのことについて書きたかったのだが、また次回。