- 二元論の罠

2004/09/27/Mon.二元論の罠

独断と偏見で更新している T です。こんばんは。

日記に書いてあることは、完全に俺の独断である。このような個人的スペースにおいて、独断以外の何に基づけというのか。しかし、独善に陥らないように注意しているつもりではある。日記に限ったことではないが、常に色んな視点から物事を見たいものだ。

言説の呪縛

ところが、だ。「物事には多面的な見方がある」という警句めいた言説は、読む人の思考を自動化する強い呪縛がある。そのため、やっきになって「多面的な見方」を試みようとしがちである。その姿勢は称賛されるべきだが、一歩引いて冷静に考えると、「一面性しかない物事もある」ということに気付くはずだ。これは巧妙な罠である。「多面的な見方が良い」という考え方に固執すること、それは逆に一面的な思考ではないのか。

他の例を挙げてみよう。「金では買えないものがある」という言説がある。この言葉も強力な呪いを持っている。聞いた人の頭の中には、「金で買えないもの = 高尚」「金で買えるもの = 低俗」という連立方程式が、半ば自動的に生成される。だが、やはり立ち止まって考えると、「金でしか買えないものの方が沢山ある」という当然のことに気付く。ここで重要なのが「沢山」という量的な形容詞だ。

「二元論」論

二元論というのは、単純にして非常に強力な言論技術だ。それゆえに罠がある。

一つは先にも述べた通り、「両者の量的な関係を御破算にしてしまいがちなこと」である。量的に差があれば、それらはそもそも「二元」になれないわけで、だから二元論では量を無視し、質的なことのみを論じてしまう傾向がある。

もう一つは、「二元論で論じられるものと論じられないものがある」という、まさしく二元論的なパラドックスだ。まあ、原理的に二元論で論じられない事象なんてほとんどないと思うが、それでも適・不適はあるだろう。使いやすいからといって、何でもかんでも二元論では芸がない。

色んな見方をしつつ、「色んな見方」にはこだわらない。禅のようだな。難しい。