T です。こんばんは。
ベクターを作り始めてから 3週間弱、一応の結果を得る。何の自慢にもならないが、それでもラボに入った頃に比べれば、随分と早くなったものである。
そろそろ未来ばかりを見るのではなく、引き算によって自分の時間を計算しなければならない時期に来ている。12月には学会が二つあり、1月に修士論文を書いて 2月に発表すれば、後は修士課程を修了するのみ。実験に精を出せるのは 9〜11月の 3ヶ月しかない。それも 1/6 が過ぎた。
その間に、自分の研究をどの程度のレベルにまで引き上げることができるか。曲がりなりにも3年間してきたこと、その完成度を追及するのが最近の課題である。実験としても創造性がなく、面白みのない(ように見える)ものが続くかもしれないが、それもまた大事なことなんじゃないか、なんて思う。
いかんなあ。湿っぽいなあ。前向きなつもりなんだけどなあ。
大阪の小学校で児童を殺傷した男が死刑に処せられた。俺は死刑に賛成でも反対でもないが、刑の執行が既に骨抜きにされている点には疑問を持つ。法で規定されている限り、いくらそれが死刑であろうとも、規定通りに執行されるべきだ。それでは取り返しの付かない冤罪を引き起こすかもしれないというのなら、法を改定して死刑執行の猶予を明記すべきだろう。それが法治国家じゃないのか。
ところで、島田荘司御大が『天に昇った男』で書いていることだが、刑務所における規定を担保しているのは、「監獄法」という明治時代に制定された法律である。第13章第72条に、こうある。
死刑を執行する時は、絞首の後、死相を検し、なお五分時を経るに非ざれば、絞縄を解くことを得ず。
「絞首後 5分を経過するまでは縄を解いてはいけない」ということである。規定されていない以上、5分を越えたら縄を解いても良いことになる。そのときにまだ死刑囚が生きていたらどうなるのか。そういった想像を基に書かれたのが『天に昇った男』である。
(実際には 5分経ったからといって縄は解かれないらしいが。条文を読む限り、解かなくても良いわけだし。実際に縄が解かれるのは、死亡が確認されてからであるらしい)
話が逸れたが、歴代の法務大臣が死刑の執行を躊躇していたのは、法律的にはおかしい。そんな順法精神のない人間が法務大臣という事実。笑わせやがる。法務大臣とて人間だ。死刑の執行を命じるのは辛いだろう。ならば大臣の職を辞去するか、刑事訴訟法を改定すれば良い。期間内の死刑執行、それは建前であるかもしれない。しかし、建前を守れない人間が法務大臣を務めるのはおかしい。俺はそう思う。
余談だが、死刑小説には、筒井康隆にも『天の一角』という傑作がある。これは、被害者の遺族が死刑執行を担当する世界の話である。
いつの頃からか、「犯人をブチ殺してやりたい」とテレビカメラの前で平然と言う遺族が増えた。気持ちはわからないでもない。しかし、テレビを通じてその台詞を全国に発信するという、その精神には首をかしげる。いや、誰だって家族が殺されれば気が狂うに違いない。今までだって、そんな発言をした遺族は沢山いたのだろう。だから問題は、そんなシーンを平気で流すようになったメディア側にある。
いつから日本はこんな国になったのだ。