- Diary 2004/09

2004/09/30/Thu.

T です。こんばんは。

昨日一昨日に引き続き、「日記と JavaScript」について書く。というか、日を追って段々とテーマが拡散しているのだが、今日は「文章と、プログラム(に代表される人工的な言語空間)」ということで。

誤用と正規表現

文章とプログラムは、ともに「言語」を用いて記述されるという共通点がある。言語を使用する際に避けて通れないのが「誤用」の問題である。誤用が発生するには、前提として「正規の表現」というものが存在しなければならない。それは大まかに言えば「文法」であったり、学術用語や人工言語であれば「定義」であったりする。その規格から逸脱した使用が「誤用」と呼ばれる。

誤用には様々なレベルがある。例えば「俺の頭髪は、黒い。」という正規表現に対し、「。の俺、黒いは頭髪」では全く意味を成さない。完全な誤用である。しかし、「黒い、俺の頭髪は。」程度の誤用であれば、ほぼ正確に意味が理解できる。のみならず、ある種の新たな効果を生み出しさえしている。多くの人がそれに気付き、真似をすることによって、最終的に「倒置法」という「正規の」表現の一種として認知されたりもする。

人工的な言語空間でも、このような現象が起きることがある。このサイトの文書をマークアップしている HTML という言語には、<TABLE> というタグがある。本来これは、文書内に表を挿入するためのタグなのだが、誰が始めたのか、<TABLE> タグの中に文書全体を埋め込み、それによって複雑なレイアウトを実現するという使用法が広く普及している。この使い方自体は規格から逸脱していない。それゆえにテクニックとして流布しているわけだが、しかし最初から想定されていた使用方法ではなく、元来の定義に基づけば「誤用」であるとも言える。

誤用と言語進化

HTML は文書の構造を記述する言語として策定されたため、最初から「レイアウト」という概念を持たない。だから、<TABLE> タグによるレイアウトが「誤用」となってしまう。しかし人々は、HTML 文書にレイアウト表現を必要としたため、新たに「スタイルシート」というレイアウトのための体系が作られた。

上記の例では、別の体系を受け皿にし、元の言語から「誤用」を排除しているわけだ。一方「倒置法」のように、既存の枠組みの中に「誤用」を吸収する言語もある。誤用を排除するか吸収するかは、誤用のレベルや母体となる言語の性格によるのだろうが、結果として表現が豊かになったという点では同じである。

DNAの塩基配列に起きたエラーが生物を進化させるのにも似て、言語における文法上のエラーは、しばしば言語表現を進化させる。昨日の日記とは一部矛盾するが、我々は正確な表現に留意しつつも、誤用(あるいは受け手としての誤読)に対して、決して否定的なだけに終わらない注意を払う必要がある。そこには新たな可能性の生まれる余地があるからだ。

もっとも「誤用」は玉石混合で、しかも圧倒的に「石」が多いのだろうけれど。無理して深読みをすることもないが、意図的に「表現としての誤用」ができるようになればしめたものである。

2004/09/29/Wed.

台風21号の影響で長らくラボに足止めを喰らった T です。こんばんは。

昨日に引き続き、「日記と JavaScript」について書く。まあ、それでは汎用性がないので、「文章とプログラミング」と言い換えても良い。

内部処理とインターフェイス処理

プログラムを書いていて、一番難しいなと思うのが、インターフェイス処理である。それに比べ、いくら複雑になろうとも、内部処理は純粋に機械的なシークエンスであるから、これは時間さえかければ何とかなる。

もう少し具体的に書く。昨日の日記で掲載した「トランプのシャッフル・エンジン」は内部処理である。「トランプをシャッフルする」という動作は、「カードの並び方をランダムにする」ということに等しい。そこで、特定の 52個の要素からなる配列(=トランプのセット)を用意し、その要素をランダムに並べ直した新たな配列(=シャッフルしたトランプのセット)を作る。そういう演算をしている。

しかし、これはコンピュータの中の話である。人間には何が起こっているのかわからない。そもそも、ユーザが「シャッフルしろ」という命令を出さないと、シャッフル・エンジンも動かない。そこでインターフェイスを構築する必要が出てくる。

例えば「シャッフル」というボタンを用意し、それが押されるとシャッフル・エンジンが起動するという仕組みを作る。内部処理が行われたら、今度はシャッフルされたトランプをディールし、ディスプレイに配られたカードを表示する、といった後処理をする。ここまでして、ようやく「トランプがシャッフルされて配られたんだな」ということが、人間にもわかる。

こうしたフロントエンド側のプログラミングは、大事なことではあるのだが、非常に面倒臭い。本質的なルーチンとは全く関係ないコードを、延々と書かなければならないのである。プログラムする側から言わせれば、本当にやりたいことはアルゴリズムの記述であったり、メイン・ルーチンの構築であったりするわけだから、それが「実動するソフトウェアを作りたい」という気持ちを上回ってしまうと、もうコーディングする意欲は失われてしまう。

表現とインターフェイス

前置きが長くなったが、ここから日記(あるいは文章)の話に変わる。要するに「書きたいこと」というのは、書く以前から俺の頭の中にあるわけで、それをわざわざ文章に起こすというのは、いわばインターフェイス処理みたいなものである、ということが言いたいわけだ。

完璧な文章が書けるわけもないので、俺の内にある「書きたいこと」と、実際に書かれた文章が意味することの間には、常に微妙な(ときには大幅な)ズレがある。俺の中にある事柄は、それなりに内部で処理されているわけだが、それを正確に伝達するインターフェイスが構築できていないのである。日々こうして何かしら書いているのは、いわばプログラマがデバッグに精を出すようなものだ。どこかしらにある「達意の文章」とやらを目指して精進する毎日、と言っても良いかもしれない。

それに恐らく、これは文章に限ったことではなくて、「表現」全般について言えることなのではないか。音楽家は、彼の奥底で奏でられている旋律を、寸分違わず楽譜に記せているのだろうか? 画家は、彼の心の網膜に映る映像を、そっくりそのままキャンバスに描き出せているのか? そういう問題である。

表現力 = 社会性

いや、俺は作家や芸術家を目指しているわけではない。もっと日常的なことにも、この課題はついて回る。例えば、話したいことを話したいように話せているだろうか。これは簡単なようで難しい。内部処理しかないプログラムが、ソフトウェアとしては何の価値も持たないように、表現力の欠如は、しばしば彼の内的な素晴らしさを無に帰せしめる。宝の持ち腐れというやつだ。

「本当の自分って何だ?」でも書いたことだが、俺は「言わなくてもわかる」というのは、怠慢であり甘えであると思っている。「つまらないのでインターフェイスのコーディングはしません」というプログラマを想定してみると良い。彼は即日馘首されるだろう。

人間でもプログラムでも、内部処理の性質がその本質を決める。しかし、それだけでは「意味」や「価値」は生じない。これは「自己満足論」ともリンクする話だが、俺はどちらかというと自足を求める人間なので、「意味ある人生たれ」に類する言葉は嫌いである。ただ、他者との関係性において何かを見出したいならば、優れたインターフェイスがあるに越したことはない。最初から表現を放棄しておきながら、「意味を、価値を与えてくれ」とねだるのでは赤子と同じだ。

2004/09/28/Tue.

理系に行くか文系に行くかで悩み、理系と決めた後も、生物に行くか情報処理に行くかで悩み、しかし破滅的に物理ができなかったために生物へと落ち着いた T です。こんばんは。

誤植というものは根絶が難しい。俺も気を付けて日記を書いているつもりだが、必ず一つや二つはミスがある。ご承知の通り、この日記は翌日には「Diary」のページに移動する。いつもコピーするついでに見直すのだが、修正しない日の方が少ない。ほとんどは助動詞をいじるなどの簡単な手直しだが、それでも自分にとっては満点ではないわけで、文章を全うするのがいかに難しいかを日々痛感する。

JavaScript 日記

とまあ、誤植が気になるのは、週末から JavaScript の勉強を始めたからという理由もある。JavaScript は簡単なスクリプトだが、それでも一応プログラム言語ではあるわけで、1文字のミスで動作しなくなる。自分のブラウザで確認しながらコーディングしているわけだが、何度強制終了をかけたことか。自分でブラウザ・クラッシャーを作ってどうする。それでもなかなか面白いものだ。

本格的なプログラミングの経験はないが、高校生のとき以来、いくつかのスクリプト言語を触ってきた。リファレンスを引きながら1行ずつコードを書くという作業は、チマチマしているが非常に楽しい。昨日からコーディングしているのは、過去に作った一連のトランプゲームのリメイク版である。手始めに、最も移植が容易そうな「七並べ」を書き換えているのだが、それでも結構難しい。見事完成したら、ここで公開するのも良いなあ。

思考錯誤

俺がエラそうな口をきけたものではないが、プログラミングするときに必要とされる発想は、やはり独特である。例えば「トランプをシャッフルする」という動作、これを数学的に記述するとどうなるか。暇があれば少し考えてみてほしい。単純なようで、割と途方に暮れる。

さて、考えた末に道筋が見えてきたら、今度はそれを文法に則した方法で記述しなければならない。ここで泣きそうになる。正しく書いているつもりでもエラーが出る。どこが間違えているのかわからない。分厚いリファレンスを引っ繰り返し、あるいは他の書き方を試み、そして夜は更けていく。

試行錯誤

で、苦労する割には、望むことは 10行程度のコードで実現したりする。まだ JavaScript に慣れていないということもあるが、たかだかそれだけのコーディングに結構な時間を費やした。こうやってしか、プログラミングは覚えられないからなあ。

参考までに、トランプのシャッフル・エンジンを載せてみる。こんな感じ。様々なやり方があると思うが、あくまで我流。より良いアルゴリズムを追及するのも、プログラミングの終わりなき課題である。

/* shuffling */
var cardSet=new Array
(0, 101, 102, 103, 104, 105, 106, 107, 108, 109, 110, 111, 112, 113, 201, 202, 203, 204, 205, 206, 207, 208, 209, 210, 211, 212, 213, 301, 302, 303, 304, 305, 306, 307, 308, 309, 310, 311, 312, 313, 401, 402, 403, 404, 405, 406, 407, 408, 409, 410, 411, 412, 413, 999);
for(i=52; i>=1; i--) {
cardNum=Math.ceil(Math.random()*i);
if(cardNum==0) cardNum++;
card.push(cardSet[cardNum]);
cardSet1=cardSet.slice(0, cardNum);
cardSet2=cardSet.slice(cardNum+1);
cardSet=cardSet1.concat(cardSet2);
}

プログラミングは面白いよなあ。JavaScript には金がかからないし、それで手慰みに始めてみたのだが、ハマりそうで怖い。高校時代の気分が蘇ってきて、かなり愉快だ。

2004/09/27/Mon.

独断と偏見で更新している T です。こんばんは。

日記に書いてあることは、完全に俺の独断である。このような個人的スペースにおいて、独断以外の何に基づけというのか。しかし、独善に陥らないように注意しているつもりではある。日記に限ったことではないが、常に色んな視点から物事を見たいものだ。

言説の呪縛

ところが、だ。「物事には多面的な見方がある」という警句めいた言説は、読む人の思考を自動化する強い呪縛がある。そのため、やっきになって「多面的な見方」を試みようとしがちである。その姿勢は称賛されるべきだが、一歩引いて冷静に考えると、「一面性しかない物事もある」ということに気付くはずだ。これは巧妙な罠である。「多面的な見方が良い」という考え方に固執すること、それは逆に一面的な思考ではないのか。

他の例を挙げてみよう。「金では買えないものがある」という言説がある。この言葉も強力な呪いを持っている。聞いた人の頭の中には、「金で買えないもの = 高尚」「金で買えるもの = 低俗」という連立方程式が、半ば自動的に生成される。だが、やはり立ち止まって考えると、「金でしか買えないものの方が沢山ある」という当然のことに気付く。ここで重要なのが「沢山」という量的な形容詞だ。

「二元論」論

二元論というのは、単純にして非常に強力な言論技術だ。それゆえに罠がある。

一つは先にも述べた通り、「両者の量的な関係を御破算にしてしまいがちなこと」である。量的に差があれば、それらはそもそも「二元」になれないわけで、だから二元論では量を無視し、質的なことのみを論じてしまう傾向がある。

もう一つは、「二元論で論じられるものと論じられないものがある」という、まさしく二元論的なパラドックスだ。まあ、原理的に二元論で論じられない事象なんてほとんどないと思うが、それでも適・不適はあるだろう。使いやすいからといって、何でもかんでも二元論では芸がない。

色んな見方をしつつ、「色んな見方」にはこだわらない。禅のようだな。難しい。

2004/09/26/Sun.

前頭葉が痛くなるまで寝た T です。こんばんは。

形があるばかりで内実が伴っていないと、当然のことながら中身は空っぽであり、しばしばそれは檻へと変容する。窮屈に感じるくらいなら、いっそのことやめたほうが良い。

サイト日記

毎日毎日こんな日記を書いて、いったい何の意味があるんだろうな、と考えることがある。帰宅し、文章を書くために心を落ち着かせ、ゆっくりと1日を振り返る時間を持つということ自体は、決して悪い習慣ではない。しかしそれだけならば、書いたものをハードディスクに保存するだけで事足りる。わざわざネット上にアップロードする必要はない。

「自己満足」と言ってしまえば話は早いが、「早い話」というものは実に大切なことが抜け落ちやすい。というわけで、少し「自己満足」について考えてみよう。

二つの「自己満足」

俺は自己満足を全否定はしない。が、「自己満足」と一括りで表される満足には、幾つかのタイプがあるんじゃないかと思う。ここで俺が肯定しているのは、「満足」を得るのに他者を必要としない、いわば「自己完結する満足」という意味での「自己満足」だ。他人に迷惑をかけなければ、自己完結型の満足というものは、その人の精神の安定や充足に大きな貢献があるだろうという点を、積極的に評価できる。

一方で、普通「自己満足」という言葉は、嫌悪するべきネガティブな意味を持つ単語として認識されている。この場合の「自己満足」は、もちろん「自己完結する満足」ではない。それを俺は、「自己中心的な満足」と定義したい。自己完結型との相違は一つ、「満足」を得るのに他者を要求する点にある。

そもそも、「満足」という感情が発生するには他者の評価が必要である。ではなぜ「自己満足」という言葉が生まれたのかを考えるに、そこに本末転倒した因果関係があるからではないかと思われる。「他者の評価によって満足する」のが一般的な「満足」だとすれば、「自己中心的な満足」は「満足するために他者の評価を要求する」のである。しかも要求される「他者の評価」は、第三者的あるいは客観的なものではない。あくまで自分が満足を得るために必要なものであるから、その評価の視点は、「自己満足」を得る人に立脚しなければならない。つまりは一人称なわけだ。そこが「自己中心的」たるゆえんではないか。

自己満足と他者

さて、こう書くと「自己完結する満足」が「善」で、「自己中心的な満足」は「悪」であるという印象を持ちがちだが、そんな単純な結論を下すようでは思考の放棄である。頭はもっと使いたい。そのために、二つの例を挙げる。

先日、制服マニアの男が逮捕された。鉄道会社や航空会社に侵入し、自分の欲しい制服を盗んでいたという。その数、実に 1万着以上。盗んだ制服は自宅に保管し、眺めたり着用したりして楽しんでいたらしい。恐らく、彼が得ていた満足は「自己完結する満足」である。誰かに「凄い数の制服だな」とか「その制服、似合っているよ」などと言われなくとも、彼は満足していたと思う。他者の評価がいらなかったわけだ。しかし、「自己完結する満足」を得るための条件は、犯罪によって整えられていたという話。

「自己中心的な満足」の例は、日常生活で枚挙にいとまがない。代表的なのは「猿山の大将に対する世辞」だろう。大将を自己満足させるため、露ほども思っていない追従をしたことは、誰にでも経験があると思う。だが、それによって我々は、大将からの保護なり恩恵なりを受けることもしばしばで、言うなればギブ・アンド・テイクの関係でもある。

「満足」における他者の評価は重要な問題だが、他者が関わってくるのは評価の場面だけではない。まあ、これは自己満足に限った話ではないのだが。満足を得るのは難しいが、それも当然と思えてくる。

2004/09/25/Sat.

T です。こんばんは。

酒宴日記

昨夜の日記を書いた後、バイト友達のアキラメンとマコト(ともに社会人)から連絡があった。「今、二人で飲んでいるのだがオマエも来ないか」というお誘い。彼等にはずっと会っていなかったし、断る理由もないので出かけた。

久し振りに対面した二人は、とてつもなく大人になっており、それでいて基本的な部分は、バイト先で毎日会っていた頃と変わっていない。懐かしい。近況報告をしつつ、話を聞いたり聞いてもらったり。酒を飲んだからという理由もあるが、何だか色んな感情が沸き上がってきて、解散するときには、不覚にも涙をこぼしてしまった。情けない。泣いたのって、いつ以来だろうなあ。カッコ悪いよなあ。

ありがとう。感謝の言葉もない。俺も頑張ろう。

研究日記

午後から学会発表の予行演習。

バイク日記

夕方からヒゲマン氏とドライブ&ツーリング。いつもの海岸ではなく、港の方に行ってきた。同じ海でも、やはり違う。今日は港な気分だったのだ。何だソレ。

夕日の沈む海を眺めつつ、海面からジャンプする魚を観察。彼等はどうしてジャンプするんだろうか。「海面上の虫を食べるため」「セックスアピール」などの意見が出たが、本当のところはわからず。

2004/09/24/Fri.

寝不足の T です。こんばんは。

隣は何をする人ぞ

夏休みに入ってから、隣の部屋で連日のように徹夜麻雀が繰り広げられている。もとより俺は、どんな環境でも割と眠れる人間だが、昨夜はあまりに騒々しくて寝つけなかった。ひょっとしたら、今までも眠れていたとはいえ、睡眠自体は浅くなっていた可能性がある。昨今の体調不良は隣人どものせいか。

ルールを知っているという程度だが、俺も麻雀をすることはある。「ロン!」「ぎゃ〜!」なんて叫んだりする気持ちもよくわかる。しかしなあ、いくら夏休みとはいえ、毎日するほどのものではないだろ? 親の金で大学に来てるんだろうが。ちっとは勉強して孝行しろよ。

腹も立てるのもアホらしいが、うるさいことには変わりがない。麻雀をやるなとは言わんが、もう少し節度を持て。いくら相手の手筋を読めても、隣人の心が読めぬようでは麻雀をやる資格はない。10月になって後期が始まったら、ちゃんと学校に行けよ。お兄さんと約束だ。

オセロ日記

5目半のハンディキャップ
囲碁では、自分の石で囲った升目の数を競う。「目」は升目の単位。先攻のハンディキャップは、試合規定により 4目半という場合もある。「半」が付いているのは、4目や 5目だと引き分けが発生する可能性があるため。

隣が麻雀なら、こちらはオセロだ。最近ダウンロードしたオセロのソフトで、コンピュータと対戦している。これが中々強い。6段階の強さがあるのだが、3番目のレベルで五分五分といったところだ。

ふと気になったのだが、オセロは先攻と後攻のどちらが有利なんだろうか。将棋では先攻・後攻によるハンディキャップのルールはないが、囲碁にはある。囲碁は陣取りゲームという性質上、必ず先手有利であり、それゆえ普通は、先攻に 5目半のハンディキャップが課せられる。先攻は後攻に 6目以上の差をつけないと、勝ったことにならないのだ。

オセロはどうなんだろう。陣取りとは違うが、最終的に自分の色の駒の数を競うという意味で、これは囲碁的である。一方、引っ繰り返した敵の駒が自分の駒になるという意味では、将棋的でもある。先攻・後攻、どちらが良いのか。それとも差はないのか。

これまた余談だが、オセロも囲碁も、黒が先攻である。この共通性には何か意味があるのかなと思ったが、そういえばチェスは白が先攻であった。あんまり関係なさそうだな。尻すぼみで申し訳ない。

2004/09/23/Thu.

春分と秋分は休日なのに、どうして夏至と冬至もそうしないのかと憤慨している T です。こんばんは。

研究日記

午後遅くにラボへ行き、少し実験。連休を自堕落に過ごしたので、ちょっとは働いておこうかと。雨でバイクにも乗れないので、何もすることがなかったというのが本当のところなんだけれど。

仕事が終わって、ヒゲマン氏の車で軽くドライブ。男二人でマクド。「つまんねえ、つまんねえ」と言いながら夜は更けていく。ヒゲマン氏の車がボロいことは日記にも何度か書いたが、今夜はついに助手席のドアが壊れた。開かないのである。キーを差し込んで物理的に解錠はできたが、そうすると今度は閉まらない。ドアを手で押さえ込み、これまたキーで手動ロックすると、ようやく閉まってくれた。ボロいにもほどがあるぞ!

愚痴日記

自粛していた(つもり)だが、禁を破って愚痴を書く。読まれたくない方はスルーで。

実験は順調なので、研究のモチベーションはそこそこあるのだが、他のことに全く手が付かない。今日も就職関係のメールマガジンが来たのだが、求人情報に目を通しただけでゲッソリ。体調も良くなくて、夜になると決まって微熱と咳が出る。大したことはないんだけど、いっそのこと、ブッ倒れるほどの症状が出た方がスッキリしそうな気もする。何にせよウザい。帰宅し、こうして日記を書いている時間が一番ホッとする。まあ、その後は風呂に入って寝るだけなんだけどな。

つまらんことを書いてしまった。馬鹿馬鹿しい。明日から頑張るか。

2004/09/22/Wed.

T です。こんばんは。

研究日記

追試その1 終了。ここで問題になるのが、「追試は何度やれば良いのか」ということである。大抵の論文には試験回数が書いてあるから、似たような実験をやっている論文を探して、その相場を調べる。

今やっているのは生化学的な実験だが、形態異常など、個体差のある観察では「n = 200」(nは観察した個体数)なんていう記述もよく見かける。数字を見ただけでウンザリするが、俺も去年の今頃は、線虫の生殖巣ばかり観察していたなあ。100個体くらいでやめたけど。

実験系と追試

追試の回数は多ければ多いほど良い、というものでもない。それは実験系に大きく依存する。やればやるほど偏差が大きくなるような追試には意味がなく、そのような場合、追試をするくらいなら系を見直した方が良い。反対に、系が安定・確立されているのなら、追試の回数は少なくても信頼できる。追試には再現性が重要というわけだ。

「新しい実験系を用いた」という論文では、次のようなテーブルを見かけることもある。

結果 n
条件A 結果A ± 10 100
条件B 結果B ± 5 20
条件C 結果C ± 1 5

最初の条件A では、系が安定していないため(または、実験者自身も結果に自信がないため)、追試の数が多くなる。条件B でやる頃には系も安定し、結果A と整合性のある結果B も出てくるので、追試も適度に切り上げる。条件C で実験する頃には、やすやすと結果Cが出てくる。「5回くらいやればエエやろ」ということで、追試の数も減る。

ま、例に上げた架空のテーブルにおける数字は極端なものだが、こういった傾向が明らかな実験結果を記載した論文は実際にあり、読んでいて微笑ましくなる(そこまで追試しなければならないのか、とこちらが平伏したくなるような論文もある)。

もちろん、統計のトリックというものは確実に存在し、数字は信用できるようで信用できない、という一面もある。追試や数字に対する考え方は、人それぞれ異なるので、色々と話を聞いてみるのも面白い。

追試って、何だろうな。

2004/09/21/Tue.

二流の芸術家なんてない、芸術は全て一流なのだという、過剰な幻想を抱いている T です。こんばんは。

研究日記

先週出た結果の追試を始める。基本的に失敗があり得ないので、気分的には余裕そのもの。その分、既に結果がわかっているので面白みはない……かというと、実はそうでもない。精度や確度の向上は、まだまだ求める余地がある。ここらへんを詰めるのは、ゲーム感覚で非常に楽しい。

こういうことが楽しいというのは、悪いことではないんだろうけれど、本物の研究者には向いていないんだろうなあ、とも思う。良く言えば、職人気質。絶対に芸術家タイプではない。

職人と芸術家

俺の職人的な嗜好は、他のことに関してもそうだ。小説でも音楽でも何でも良いが、「凄い!」というものよりも「上手い!」という方が好きだ。理由は単純で、これは「普遍論」でも書いたことだが、要するに評価しやすいからである。現世的な快楽は享受しやすい。

だから芸術家タイプは、いささか苦手である。俺が本当の芸術性を理解できないから、というのもあるが、「真に偉大な芸術は理解されない」という「一面の」真実を隠れ蓑にした「芸術家気取り」が多過ぎるからである。「そこらへんに芸術家がゴロゴロ転がっててたまるか」という偏見が、どうしても除けない。その思考の枠組みが「職人的」なのだ、と言われれば返す言葉もないが。

ま、職人的庶民としては、コツコツと頑張るしかないわな。

2004/09/20/Mon.

T です。こんばんは。

昨夜は Dr. A、ヒゲマン氏、O君、K君、M研の M氏というメンツで飲む。居酒屋で 3時間ほど過ごした後、ヒゲマン氏邸へ。明け方までダラダラ過ごした。バイト帰りに来てくれた O君に感謝。部屋を貸して頂いたヒゲマン氏に感謝。そして、ディープな話を聞かせてくれた皆様に感謝。

戦国無双 猛将伝

「戦国無双 猛将伝」
コーエーの戦国時代を舞台にした「無双」シリーズである「戦国無双」の追加ディスク。新たに羽柴秀吉、今川義元、本多忠勝、稲姫(忠勝の娘)の 4キャラでプレイ可能。無印「戦国無双」で酷評だった成長システムも改善。無印はヒド過ぎて俺も売り払っていたのだが、再び中古で買い戻したのは秘密。

コーエーの「戦国無双 猛将伝」を買う。「信長の野望」シリーズもそうなんだが、いい加減にコーエーの追加ディスク商売にはウンザリ。とはいえ、俺のように買ってしまう人間が後を絶たないから、コーエーもやめないんだろうけれど。

追加シナリオは既にクリア。今はひたすらミッションのコンプリート、アイテム集め、パラメータ上げを遂行中。ほとんど作業。しかし、その作業に中毒性のあるところが「無双」シリーズの売れているゆえんでもある。先は長い。ボチボチ楽しみながらやっている。

ドラゴンクエスト V 天空の花嫁

「ドラゴンクエスト V 天空の花嫁」
スクウェア・エニックスの「ドラゴンクエスト」シリーズ第5作。何に時間がかかるのかと言うと、副題にある「花嫁」の候補が二人いること。一方としか結婚できないので、両者を極めるには 2回のプレーが必須。ダルい。やるけど。

何だかんだ言って、「無双」シリーズはシナリオ・クリア型のアクション・ゲームであるから、キリが良くて中断しやすい。その点で、RPG 大作はヤバ過ぎる。途中でやめることができない。

昨夜、ついに K君から「ドラゴンクエスト V 天空の花嫁」PS2版を手渡されてしまった。俺を廃人にする気か。プレーし始めたら引きこもり確定なので、まだパッケージも開けていない。スーパーファミコン版をプレー済みだから、それほど「やりてえ!」と思わないのが救いだが、やり始めるとどうなるかわからない。開始時期を見計らいつつ、今は本棚に安置されている。

……恐ろしく非創造的な連休だった。楽しかったけど。

2004/09/18/Sat.

せっかくレポートまで書いたのに、午前中のミーティングを寝過ごしてしまった T です。こんばんは。

いや、それだけ。今日は書くことがない。何もしてないし。

2004/09/17/Fri.

T です。こんばんは。

昨日は具合が悪かったので、学校も休んで一日中寝ていた。おかげで今日はラボにも行けたが、まァそんなことはどうでもよろしい。問題は米である。いや、コメか。

買い物に出るのが億劫だったので、昨日は米を炊いて握り飯を作った。それを頬張りながら考えたのだが、どうして「コメ問題」は「コメ」とカタカナで書くのか。何か「米」ではいけない理由でもあるのか。

「コメ」と「米」

一昔前、日本中で大騒ぎになった「コメ問題」だが、その本質は牛肉やオレンジとは全く違う。今さら俺が言うまでもなく、日本人にとって「コメ」とは、主食である穀物という以上の意味を持つ。西洋人にとっての小麦とはワケが違うのだ。

「コメ」という表記を見て俺が連想するのは、民俗学や社会学のタームとして使われる「ムラ」や「クニ」といった単語である。「村」「国」ではなく、そこに属する集団のアイデンティティーを示すための「ムラ」「クニ」という表記。俺には「コメ」というカタカナが、これらと同じ系統の言葉のように思える。

だから、単なる経済問題という枠組みを越えて日本人社会に影響を及ぼす「米問題」は、やはり「コメ問題」と書かれなければならなかったんじゃないだろうか。「コメ問題」と最初に書き記した人物が誰だか知らないが、それが意図したものだったのか、あるいは無意識の産物だったのかはともかく、彼の頭にはそのような問題意識があったと思われる。

「コメ」の歴史

日本の歴史、特に政治史は、「いかにして日本人全員に米の飯を行き渡らせるか」を追及してきた歴史であると言っても過言ではない。いや、冗談ではなく本気である。日本史上に起きた革命には、必ず「農地改革」が含まれている。古くは班田収受の法、墾田永年私財法。初めての武家政権である鎌倉幕府が最初に行ったのは、全国に守護と地頭を設置することであった。そして明治維新、更には戦後のGHQによる農地改革。日本で政体がひっくり返るとき、それは「米分配システム」が破綻したときである。

興味深いエピソードがある。昭和天皇は、その年の日本の経済状況を尋ねるとき、決まって「今年の稲の育ち具合はどうか」と尋ねられたという。一つ付け加えるならば、これは戦後の逸話である。「自動車」でも「半導体」でもなく、天皇が、日本の景気を左右するものとして「稲」の育ち具合を訊く。俺はこのエピソードが大好きなのだが、同時に、日本の歴史における「コメ」の業を思わずにはいられない。

「コメ」と政治

「政」を「まつりごと」と読むように、そもそも古代政治の長たる天皇には、シャーマンとしての役割があった。天皇家に直接の関わりはない(だろうと俺は思っている)が、卑弥呼もこの系譜の女王である。シャーマンたる彼等は、占いや予言によって「政」を司った。

では、何を占ったり予言していたのかというと、具体的には天候であったり戦争の行方だったりするんだろうが、それらはあくまで手段である。「何のために」占うのかと言えば、「稲が無事に育つか」「無事に育てるにはどうすれば良いか」を知る、という目的があったからではないか。

そういう歴史的経緯があるため、社会的な問題として「米」の話をするときには、やはり「コメ」と書かざるを得ない気持ちはよくわかる。食べ物の話をしているんじゃないよ、ということだ。

「コメ」と「カネ」

さて、ここからは余談である。米が日本人全員に滞りなく行き渡り、あまつさえ「米余り」なんていう、わずか100年前には考えられなかった問題が起きている現在の日本。「米分配システム」としては申し分ないのに、しかし再び革命(は大袈裟にしても、抜本的な改革)が必要とされている。何故か。

それは「コメ」が日本人にとって切実なものではなくなったからだ。足りるようになったから、ではない。足りなくても良い、というふうに意識が変わってしまったからだ。ことの善悪はともかく、今日では「米」の代わりを「金」が果たしている。改革が必要だという危機意識は、だから「金分配システム」の破綻に起因している。

戦後の日本がそれなりに安定だったのは、高度経済成長によって、それがたとえ幻想であったにしても、「金分配システム」が十全に機能していると国民が信じていたからではないだろうか。それが今や「勝ち組・負け組」である。これは「金分配システム」の破綻を意味している。

「金」がしばしば「カネ」と表記されることは注目に値すると思うんだが。

2004/09/15/Wed.

T です。こんばんは。

研究日記

ベクターを作り始めてから 3週間弱、一応の結果を得る。何の自慢にもならないが、それでもラボに入った頃に比べれば、随分と早くなったものである。

そろそろ未来ばかりを見るのではなく、引き算によって自分の時間を計算しなければならない時期に来ている。12月には学会が二つあり、1月に修士論文を書いて 2月に発表すれば、後は修士課程を修了するのみ。実験に精を出せるのは 9〜11月の 3ヶ月しかない。それも 1/6 が過ぎた。

その間に、自分の研究をどの程度のレベルにまで引き上げることができるか。曲がりなりにも3年間してきたこと、その完成度を追及するのが最近の課題である。実験としても創造性がなく、面白みのない(ように見える)ものが続くかもしれないが、それもまた大事なことなんじゃないか、なんて思う。

いかんなあ。湿っぽいなあ。前向きなつもりなんだけどなあ。

法務大臣の違法性

刑の執行が既に骨抜きにされている
刑事訴訟法第475条に、最高裁の判決から 6ヶ月以内に刑を執行せよとある。しかし死刑が 6ヶ月以内に執行されることはほとんどない。

大阪の小学校で児童を殺傷した男が死刑に処せられた。俺は死刑に賛成でも反対でもないが、刑の執行が既に骨抜きにされている点には疑問を持つ。法で規定されている限り、いくらそれが死刑であろうとも、規定通りに執行されるべきだ。それでは取り返しの付かない冤罪を引き起こすかもしれないというのなら、法を改定して死刑執行の猶予を明記すべきだろう。それが法治国家じゃないのか。

ところで、島田荘司御大が『天に昇った男』で書いていることだが、刑務所における規定を担保しているのは、「監獄法」という明治時代に制定された法律である。第13章第72条に、こうある。

死刑を執行する時は、絞首の後、死相を検し、なお五分時を経るに非ざれば、絞縄を解くことを得ず。

「絞首後 5分を経過するまでは縄を解いてはいけない」ということである。規定されていない以上、5分を越えたら縄を解いても良いことになる。そのときにまだ死刑囚が生きていたらどうなるのか。そういった想像を基に書かれたのが『天に昇った男』である。

(実際には 5分経ったからといって縄は解かれないらしいが。条文を読む限り、解かなくても良いわけだし。実際に縄が解かれるのは、死亡が確認されてからであるらしい)

話が逸れたが、歴代の法務大臣が死刑の執行を躊躇していたのは、法律的にはおかしい。そんな順法精神のない人間が法務大臣という事実。笑わせやがる。法務大臣とて人間だ。死刑の執行を命じるのは辛いだろう。ならば大臣の職を辞去するか、刑事訴訟法を改定すれば良い。期間内の死刑執行、それは建前であるかもしれない。しかし、建前を守れない人間が法務大臣を務めるのはおかしい。俺はそう思う。

メディアの倫理観

余談だが、死刑小説には、筒井康隆にも『天の一角』という傑作がある。これは、被害者の遺族が死刑執行を担当する世界の話である。

いつの頃からか、「犯人をブチ殺してやりたい」とテレビカメラの前で平然と言う遺族が増えた。気持ちはわからないでもない。しかし、テレビを通じてその台詞を全国に発信するという、その精神には首をかしげる。いや、誰だって家族が殺されれば気が狂うに違いない。今までだって、そんな発言をした遺族は沢山いたのだろう。だから問題は、そんなシーンを平気で流すようになったメディア側にある。

いつから日本はこんな国になったのだ。

2004/09/14/Tue.

汗腺がよく発達している T です。こんばんは。

この年齢になって、しかも 9月の半ばになって恥ずかしい話だが、汗疹(あせも)ができた。最近、夜になるとやたらに発汗し、非常に寝苦しい。その結果の汗疹である。みっともないが、いったい何年ぶりだという汗疹に、少し嬉し懐かしい気持ちになったりして。

サイボーグは汗をかくのか

昨日、Dr. A とヒゲマン氏が「サイボーグは汗をかくのか」という話をしていた。考えてみると、これは非常に興味深い問題である。サイボーグでもロボットでも良いが、独立行動が可能な機械体は、その動力源を内蔵しているはずである。動力は、必ず熱を発する。パソコンですら、CPU を冷やすファンが付いているのだ。実際に動き回るサイボーグやロボットの熱は、パソコンの比ではない。

例えば、HONDA の2足歩行ロボット「アシモ」とかは、どういう風に熱処理をしているんだろうか。多分、循環式の液体冷却システムを内蔵していると思う。しかし、液体冷媒というのは定期的な交換を必要とするものだ。社員より丁重な扱いを受けているであろうアシモは、当然誰かがメンテナンスを行っているんだろうが、来るべきロボット時代では、そんなことのために一々人員を割くわけにはいかない。

汗をかけ、アトム!

そこでメーカーは、自分で冷媒を交換できるようなロボットを作ることになる。冷媒として選ばれるのは、コスト、入手難度(何せロボットが自分で調達しなければならないかもしれないのだから)などを考えると、やはり水であろう。ロボット自身による冷却水の交換、これは非常に極端な表現をすれば、「ロボットが汗をかいている」とも言える。

……というわけで、無理矢理ロボットに汗をかかせてみた。

それにしても、アシモはともかく、鉄腕アトムはどうやって自身を冷却していたんだろうな。10万馬力(後に 100万馬力)で、その動力源は原子炉。無理だろ、あのサイズでは。

2004/09/13/Mon.

医学部付属図書館に行ってきた T です。こんばんは。

理系の論文とはいかなるものか、という問いを、義兄弟(文系)などから受けることがある。というわけで、「俺が論文を読むまで」の話を今日は書いてみた。長くなってしまったが、感じだけでも伝わればと思う。ついでに、以前から考えていた、ある提案も御紹介したい。

論文を探す

あくまで生命科学系の論文では、ということで御諒承願いたい。

論文の検索によく利用されるのが「PubMed」というサイトだ。例えば、「CeMyoD」という遺伝子についての論文を読みたいなら、ボックスに「CeMyoD」と打ち込んで検索する。すると、CeMyoDに関する論文がズラズラとリストアップされる。今日現在、「CeMyoD」による検索結果のトップに来る論文は、

Gaud A, Simon JM, Witzel T, Carre-Pierrat M, Wermuth CG, Segalat L.
Prednisone reduces muscle degeneration in dystrophin-deficient Caenorhabditis elegans.
Neuromuscul Disord. 2004 Jun;14(6):365-70.
PMID: 15145337 [PubMed - indexed for MEDLINE]

である。A. Gaud ら (Gaud et al.) が書いた、「Prednisone reduces muscle degeneration in dystrophin-deficient Caenorhabditis elegans」という論文は、2004年 6月に発行された Neuromuscular Disorders 誌の第14巻第6号の 365〜370頁に掲載されている、ということがわかる。最後の行は、この論文の PubMed における ID である。

著者名にはリンクが張ってある。クリックすると、その論文の abstract(要旨)のページにジャンプする。これで、その論文の中身が大体わかる。さて、abstract を読んでみて、この論文をじっくり読みたくなったとする。そのためには論文を手に入れなければならない。方法は大きく分けて二つあるが、まずはパソコンの前から立ち上がらずに済む方法を試してみよう。

論文をダウンロードする

PubMed の abstract のページには、著者名とタイトルの間にバナーがある。バナーにはリンクが張ってあり、クリックすると、その論文が掲載されている雑誌のサイトに飛ぶようになっている。雑誌サイトのほとんどが、PDF または TEXT ファイルでの論文ダウンロードサービスを行っている。わざわざ図書館に行かずとも、論文が読めるわけだ。

そのページ内に表示されているはずの、「Get PDF File」や「Download this article」というリンクをクリックすれば、論文がダウンロードできる……とは限らない。古い論文なら、無料で読める場合が多い。しかし、最新の論文はそうではない。大抵は、アカウントとパスワードを入力するページに飛ばされる。「持ってない奴は 30ドル払って登録しろ」とかいう文章も近くにあるはずだ。金がかかるのである。

考えれば当たり前だ。誰もが最新の論文をダウンロードできるようになれば、わざわざ雑誌を買って読む人間がいなくなる。それでは出版社が儲からない。というわけで、こういう仕組みになっているのだ。この画面が出てくるとお手上げである。論文を手に入れる二つ目の方法、図書館でのコピーに立ち上がるしかない。

(最新の論文でも自由にダウンロードできるという、素敵な雑誌もある。どういう理由で完全無料になっているのか知らないが、実に有り難い)

論文をコピーする

大学が購入している雑誌のほとんどは、大学図書館にある。論文が掲載されている雑誌の巻数をメモし、勇躍図書館に乗り込もう。図書館に雑誌があれば、後はコピーするだけだ。しかし、雑誌自体がないこともある。これは非常に困る。

ところで、我が大学は、医・歯学部が別キャンパスにある。これらの学部は資金が潤沢であり、それゆえ付属図書館の蔵書も充実している。我がキャンパスの図書館に雑誌がなかった場合、医学部キャンパスの付属図書館に遠征することになる。簡単な手続きさえすれば、容易にコピーを取らせてもらえる。

ところが、だ。医学部付属図書館にも雑誌がない、という事態に遭遇することもある。これ以上はどうしようもない。どうしても論文を読みたいなら、雑誌を購入している他大学の図書館から借りるか、諦めて雑誌を購読するしかない。しかし、たった1本の論文を読むだけにしては、これらの方法はあまりにも面倒臭くて効率が悪い。

論文を買う

そこで提案がある。雑誌を購読するまでもないが、掲載されている論文が読みたいとき、雑誌を売るのではなく、論文 1本の単位で小売りしてはくれまいか。

既にオンライン・ミュージック・ストアでは、そのようなスタイルが確立されている。アルバムを買わずとも、その中の好きな1曲だけを安価にダウンロード購入できるのだ。それを論文でも実現してほしい。論文のデジタル化はできている。後は金を払わせるシステムだけ。技術的に難しくはないだろう。

このシステム、アップルコンピュータの「iTunes」を真似て、「iPapers」なんていうのはどうだろう? 価格も同様に、論文1本99セントでどうだ! 俺なら喜んで買うね。読まない雑誌の年間定期購読を強要するより、小売り論文で薄利多売に徹する方が、よほど出版社も儲かると思うのだが。

2004/09/12/Sun.

T です。こんばんは。

ゴルゴ13 の仕事術

『ゴルゴ13 の仕事術 −なぜ彼は失敗しないのか−』(漆田公一&デューク東郷研究所)を読む。本気でゴルゴからビジネスを学ぼうとしているのなら病気だが、あくまでジョークである。しかし、なかなかに現実的な警告もあったりして、時折「ほほう」とうなずきながら楽しんだ。

いくつか「ゴルゴ13 のビジネス法則」を抜き出してみよう。

家庭を持たない   (SCENE 06 家庭)
人生、日々これ闘争 (SCENE 10 闘争)
接待は必要ない   (SCENE 14 接待)
睡眠中も気を抜かない(SCENE 25 睡眠)

などなど、およそ役に立たないものばかりだ。これだけでも笑えるのだが、抱腹絶倒なのが、筆者らが勝手に想像して書いた「ゴルゴ13 の少年時代」だ。生徒会長のゴルゴ、いじめっ子をやっつけるゴルゴ。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。

バイク日記

山に行き、走り足りないので海に行く。途中でかなり雨に降られたが、頑張って 200 km 弱を走った。読書にバイク、休日に好きなことができて、俺は幸せだ。

2004/09/11/Sat.

白馬に乗った王子様にでも連れ去られたい気分の T です。こんばんは。

どこに行けば王子に会えるのだろうか。アルタ前かな。

2004/09/10/Fri.

T です。こんばんは。

就職活動日記

昨日出した催促メールの返信が来た。ついに最終面接を受ける機会は与えられなかった。誰恨むこともない、自分の実力が足りなかっただけ。

お疲れ。

研究日記

K先生に添削された修士論文(?)が帰ってきた。実験結果を無視し、自由奔放に健筆が振るわれたそのオリジナル・ストーリーは、本文を読むまでもなく、タイトルを一瞥しただけで吐き気を覚える。頭が悪いのならサイエンスなんてやめてしまえ、とまでは言わんが、せめて論文執筆ごっこは一人でしてほしい。

お疲れ。

2004/09/09/Thu.

今日は救急の日だそうだが、個人的には汲々な T です。こんばんは。

研究日記

昨日の、変な分子量のペプチドをウエスタン。意外なことに、抗体と反応した。ということは、少なくとも目的のアミノ酸配列は含んでいることになる。あり得る可能性としては、途中で塩基置換が入り、ストップコドンの位置がシフトすることによって分子量が変化したケースが考えられるが、それはシーケンスの確認によって否定されている。結論として、「そういう泳動度を示すペプチドである」と考えるしかない。

実際の分子量と、泳動による見かけの分子量が違うことはよくある。特に、今回作成したタンパク質は数 kDa しかない。ゲル上では大きくズレて見えていても、数値としては、ムチャクチャにおかしいわけではないのである。ということで納得。もう少し実験を進めれば、この判断の是非もハッキリするはずだ。

頼まれ実験その2 も、これにて依頼内容を完遂。本当はベクターを作れば終わりなんだけど、やはり作者としては、発現確認までを自分の手で行いたい。信頼の T印ですよ貴方。「アイツが作った試薬やサンプルは使いたくない」と言われるのは、実験屋の恥だからな。

このベクターを使って俺自身も実験をするわけだが、そちらは勝手にモチベーションも湧いてくるので、しばらくは「実験日記」も休んで、また以前のような日記にしようかと思う。

就職活動日記

7月 15日の日記には書いていないが、催促メールの返事には「あと 1週間で面接の結果が出ると思う」というようなことが書いてあった。それから約 2ヶ月、まだ音沙汰はない。たいがいにせえよ、ということで、再び催促メールを出した。明日には返事が来ると思うが、さて、何と言ってくるのやら。

2004/09/08/Wed.

「当然」は「当たり前」という意味なのに、どうして「当前」と書かないのだろうか、と不思議に思う T です。こんばんは。

全然関係ないが、今日の日記のタイトルは、今までで一番長いのではないか。

研究日記

昨日の日記で、「作り上げたばかりのベクターには、原因不明のトラブルが意外とあったりする」と書いたそばからトラブル発生。予想とは違う分子量のバンドが出た。こうならないためにシーケンスを確認し、複数クローンから複数コロニーの大腸菌を取ってくるという、二重三重のセーフティネットを張ったはずなんだが。最初からトラブルの原因を潰しているため、皮肉なことに、実際に起きたトラブルの説明がつかない。どこも間違えていないはずなのに。

お疲れ、俺。

コーヒー日記

特別に好きというわけではなかったはずだが、いつの頃からか、水代わりにコーヒーを飲むようになっている。休日など、10杯くらいは平気で飲む。ブラックで、しかも煙草を吸いながら。これが身体に良いはずがない。疲れているときは、決まって腹がおかしくなる。特に先月は酷くて、自分でもわかるくらいに胃がガサガサになった。

そんなわけで、しばらく前からクリープを入れて飲むようにしている。俺が愛飲しているのはインスタント・コーヒーなのだが、さて、適切なクリープの量とはどれくらいなのだろうか、というのが最近の悩みである。俺が作っていたブラック・コーヒーの組成を、単純に「コーヒー: 湯 = 1: 9」としよう。これに、「コーヒー: クリープ = 1: 1」の割合でクリープを加えたい。コーヒー、クリープ、湯の混合比として、妥当なものが幾つか考えられる。順に検証していこう。

至高の 1杯

(1) コーヒー: クリープ: 湯 = 1: 1: 9

これは現在、俺が作っているコーヒーの混合比である。要するに、いつものブラックに、何も考えずにクリープを入れただけである。普通に考えれば、これが最も妥当なように思える。しかし、純粋にクリープを入れた分だけ、1杯当たりのコストが高くなる。濃度的にも、どうも腑に落ちない。

(2) コーヒー: クリープ: 湯 = 0.5: 0.5: 9

溶媒に対する溶質の比として見たとき、こちらの方がしっくりと来る。コストも低い。で、実際に作ってみたのだが、どうにもならない欠点がある。薄くてマズいのだ。

(3) コーヒー: クリープ: 湯 = 1: 1: 8

これは、ブラックと同じコーヒー濃度を追及した混合比である。試しに作ってみたが、確かにコーヒー (1) よりは旨い。ような気がする。注意しなければならないのは、コーヒー (1) と (3) の作成方法の違いだ。コーヒー (1) は、まず「コーヒー + 湯」で、いつものブラックを作る。しかる後にクリープを加える。コーヒー (3) では、最初からカップに「コーヒー + クリープ」を入れてから、ブラックと同じラインまで湯を注ぐ。

コーヒー(3)のメリットとして、攪拌の回数が 1回で済む点が挙げられる。逆にデメリットとして、単位容積当たりのコストが最も高くなる。湯の価格を 0 とすると、1杯当たりの値段はコーヒー (1) と同じだが、その「1杯」の量は (3) の方が少ないのだ。あ、いや、本気でそんなしみったれたことを言っているわけではない。あくまで数字上の話。

究極の 1杯

こんなことをせずとも、我が豪邸の近くに旨いコーヒーを飲ませてくれる喫茶店があれば問題ないんだがなあ。我が豪邸の近くには比較的大きな道路が走っており、そのため、各種飯屋、コンビニ、スーパー、酒屋、ガソリン・スタンド、本屋、古本/ゲーム/CD/レンタルビデオ屋、床屋、病院などなど、俺の生活に必要な、ほぼ全ての施設が徒歩5分の距離にある。しかし喫茶店だけがない。悲しいことである。

2004/09/07/Tue.

T です。こんばんは。

台風日記

結局、昨夜はサンプルを回収するためラボに行った。まァどうせ今日は台風だから、と調子に乗って夜更かしをし、昼頃に起きたら一滴も雨が降っていないのはどういうことか。仕方がないので出かけたが、しかし風は強かった。前傾姿勢でないと歩けない。体感的には、バイクで 100 km/h くらい出しているような感じ。

午後は豪雨だったが、それも夜には抜けた。間髪入れずに、台風 19号が近付いているらしいが。帰りは例によって、ヒゲマン氏の車で送ってもらう。ついでに Dr. A、B氏、K君とラーメンを食ったり。ありがとうございました。

研究日記

頼まれ実験その2。シーケンスを確認したベクターを、タンパク質発現用の大腸菌に導入。いつもこのステップでは時間を持て余す。「結果オーライで実験を進めた方が早い」と言う人もいる。確かにそうなのだが、作り上げたばかりのベクターには、大腸菌が生えてこなかったり、タンパク質が発現しなかったりという、原因不明のトラブルが意外とあったりする。

時間的コストと実験的リスクを天秤にかけたとき、そのジャッジの仕方には個人差があるだろう。他人の意見に耳を貸すことも、もちろん大切だ。しかし個人的には、実験が上手くいっているのならば、許される限り自分のやり方でやるのが良いと思う。「我流」っていうのとは少し違って、「勝ってる間は打順を変えない」という言葉に近い。

実験によっては、結果が出る前に長い時間と多数の段階を必要とするものもある。そんな場合、自分の中にしこりを残さないことは、結構大事なことなんじゃないか。そういうことが、自分の結果に疑問符を投げ掛けられたときの対応にも出る。そして、その対応の如何によって、受け取り手の結果に対する印象も変わったりするのだ。サイエンスといえども、そのへんは凄く人間臭い。

今週からセミナーも再開。台風だというのに、全員が出席したことには驚いた。セミナーの中身にはもっとビックリしたけれど。

2004/09/06/Mon.

焼き肉を食った T です。こんばんは。

研究日記

頼まれ実験その2。久し振りに DNA シーケンサを使う。さっさとサンプルを調整して終了。我が学科にキャピラリーシーケンサが導入されて 2年くらいになるだろうか。それ以前は、わざわざ半日かけてゲルを立てていたのだが、もう二度とアレはできんな。楽なものに慣れると、後戻りできない。

夜中に解析が終わる予定なのだが、サンプルを回収しに行くかどうかで悩む。普通なら明朝に接収するのだが、どうも台風18号が上陸しそうな勢い。台風なら台風で、明日シーケンサを使う人もいないだろうから、いずれ放っておいて構わないような気もするけれど。

何ヶ月も前から「書く」とだけ言っていたヒゲマン氏が、ようやく論文を書き始めたらしい。早く書き上げてもらって、K先生に対する共同戦線を張りたいものだ。一人で相手をするのは辛過ぎる。K先生は、読んでいない論文を批評できる千里眼の持ち主であり、「低いゲル濃度の方が分解能が高い」という学識豊かな方である。俺には荷が重い。

2004/09/05/Sun.

夕立に物思う T です。こんばんは。

疑問なのだが、なぜ「夕立」以外に「朝立」や「昼立」がないのだ。わかりにくいか。どうして「一時的に雨が降る現象」は夕方にしか起こらないのか、ということである。謎だ。

2004/09/04/Sat.

あやうくK君に「ドラゴンクエスト V」を押し付けられて廃人にされるところだった T です。こんばんは。

研究日記

今週からプログレスレポートが再開。このミーティングの裏テーマは、いかに「オマエわかってねえよ」ということを K先生に伝えるか、である。その手法によって、苦笑派と攻撃派に大きく別れる。言うまでもなく攻撃派の俺だが、N.N.嬢の強さには逆立ちしても勝てない。今日の彼女の一言、「わかってます?」には喝采を贈りたい。

歴史と小説

塩野七生『ローマ人の物語』文庫版の第2期配本が始まった。今月は「ユリウス・カエサル ルビコン以前」である。大いに楽しみな巻であるが、最前の文庫化から、既に 2年が経過している。ローマ史に詳しくない俺の頭からは、これまで読んだ内容の大半が失われている。もう一度、第1巻から読み直さなければならないかなあ、などと考えているが、それもまた楽し。歴史はそういうふうにしか勉強できない。

歴史の奥深さを感じるのは、実にこういうときである。繰り返される同じストーリーを何度読んでも飽きが来ない。この点が、小説とは決定的に違う。例えば、織田信長の伝記は何冊も出版されているが、大筋は全て同じである。尾張に生まれ、桶狭間の戦いがあって、美濃を制圧し……、で、最後は本能寺の変で死ぬ。最初から結末までがわかっているのに、それでも読む。そしてそれが面白い。考えてみると不思議なことだ。

だから、というのが正しいかはわからないが、俺は「歴史小説」をほとんど読まない。小説になってしまうと駄目なのだ。そんなものを読むくらいなら、歴史書(あるいは伝記や評伝)として書かれたものを読む方が何倍も楽しい。フィクションとしての「時代小説」はともかく、歴史を小説化した「歴史小説」は、子供向けにリライトされた文学作品に似て、やはり物足りない。とはいえ、子供向け文学全集同様、その功は否定しないし、それどころか裾野として、もっと沢山の本が出版されたらと願っている。

「歴史と小説」というテーマはあまりに巨大過ぎるが、折りにふれ、また考えていきたい。

2004/09/03/Fri.

T です。こんばんは。

研究日記

共焦点レーザー顕微鏡
レーザー走査の反射光を感知して像を結ぶ顕微鏡。角度のある複数のレーザー光線を 1点に集めて焦点を合わすため、厚みのある試料の、任意のZ軸平面上にピントを合わすことができる。焦点を Z軸に沿って動かすことで連続断層画像を得られ、それらを合成した立体感のある2D画像や、立体構造を反映した 3D 画像を作成できる。細胞骨格の染色像の撮影などによく利用される。

午前中は、みっちりと共焦点レーザー顕微鏡の講習。高性能だが、操作は極めて煩雑だ。講師はカールツァイス社のサービスマン。研究者といえど、彼等より顕微鏡に通暁している者は少ない。逆に考えれば、これからの顕微鏡メーカーに求められるのは、インターフェイスの簡略化だとも言える。今だって、写真を撮ること自体は難しくない。しかし、ある程度以上のクオリティーを得ようとすれば、顕微鏡やカメラ、デジタルイメージの基本的な原理を知っておかなければいけない。これらを意識しないでも済むようにするのは不可能かもしれないが、それでもまだまだ改善の余地はあるように思う。メーカーの奮起を求む。

ところで、顕微鏡の画像システムを管理するパソコンの OS が、IBM の OS/2 であった。知識としてこの OS の存在は知っていたが、実機を目にするのは初めてだ。

頼まれ実験その2。残っていたベクターも完成。すこぶる順調。

M弁の秋(夏の間は怖くて食えない)

昨夜は小学生並の時刻に就寝。ゆっくり休んだつもりだが、やはり夕刻以降は熱っぽい。晩飯は久し振りにM弁を食ったのだが、完食するのに精一杯。M弁そのものがキツいだけなのかもしれないが。

2004/09/02/Thu.

T です。こんばんは。

研究日記

頼まれ実験その2。ベクター完成。もう一つ残っているが、この調子だとそちらも確実っぽい。変な話だが、どんな実験結果を得るよりも、ベクターができた瞬間の方が嬉しい俺だったりする。何でだろ。ベクターなんて所詮はツールだし、それだけでは何の結果にもならないはずなのに。

熱っぽい。実験も上手くいったので、早めに帰宅。既に土曜の昼まで予定が立て込んでいる。体調が最悪になったのを見計らってドカンと高熱、というコンボは避けたい。

2004/09/01/Wed.

今日から 9月だというのに、スタートダッシュでつまずいた T です。こんばんは。

研究日記

頼まれ実験その2。ラボに来てみると、増えてるはずの大腸菌が増えていない。冷静になって考え、培地を間違えたことに気付く。増えるわけがない。培養し直し。日付が変わる前には帰れるだろうと考えていたのだが、夕方になってもほとんど増殖していない。やはり、ライゲーションしたばかりのベクターを導入した大腸菌は、生育が遅いのだろうか。このままでは日付が変わっても実験できそうになかったので、結局は廃棄。生き物は、なかなか思う通りにならない。

修士論文(?)のスペルチェックをするが、チェックが完了するたびに、Word が強制終了を繰り返す。この現象、何も俺だけに起こるものではないようだ。俺は Mac ユーザだが、決して Windows が嫌いなわけではない。しかし、こういう下らないソフトを平気で売るMicrosoftという会社はどうかと思う。

……今日は無駄に疲れた。

自炊日記

俺はカレーも酒も好きだが、組み合わせとなると、両者の関係は破滅的に悪い。誰か、カレーに合う酒(酒に合うカレー)を開発してくれないものだろうか。