- ネットワークの向こう側 (3)

2004/06/14/Mon.ネットワークの向こう側 (3)

明日からは日記を短めにしようと思った T です。こんばんは。

前回のあらすじ)
 ネットワークを「リアル」と感じる、今どきの小学生。彼等が、ネットワークの「向こう」に、殺意という激烈な感情を抱く、そのメカニズムとは?

長崎の小学生殺害事件には、俺なりに衝撃を受けたり考えさせられたりしたので、そのことについて思っていることを書こうとしているのだが、いたずらに文章が長くなるばかりで、どうもうまくまとめられん。論旨があちこち飛ぶかもしれないが、まあ、今思っていることを書くということで。

まず気になるなのが、ネットワークの「向こう」に対して、自分と同じような存在、等身大レベルの存在感を感じているのだろうかという疑問である。個人のサイトや掲示板は、TV 番組のように流されている(更新されている)わけではない。個人、あるいは、かなり個人の資質に近い「誰か」が、制作するなり発言するなり書き込んでいるわけである。自分が発信したものも、同じように「誰か」が見ている。恐らく、こういう感覚がホモ世代には希薄なのではないか。そういう印象を受ける。

問題になるのは、このような希薄な意識が、彼等の世代に特有のものなのか、それとも、彼等の幼さから来る、対人関係のスキルの不足に起因しているのかだ。後者なら、それほどの心配はないと思う(とは言え、既に殺人事件が起こっているわけだが)。解決策は一つだけ。対人関係の教育をしっかりとすれば良い。教育、といっても、それは恐ろしいほどに巨大な問題なわけだが、とりあえず、ネットワーク固有の問題ではないことになる。

まあ、それでは話が続かない。だから、というわけでは決してないのだが、やはりネットワークの「向こう」に対する感覚には、彼等の世代特有のものがあると思う。加害者が、ネットワーク上でのやりとりが原因で「殺意を抱いた」ということばかりが取り上げられているが、裏を返せば、被害者はネットワーク上で「殺意を抱かせ得る」発言をした、ということにもなる。もしも、ネットワークの「向こう」に対して、もう少し意識的であれば、その発言はなかったかもしれない。

ネットワーク上の発言が過激になりがちなのは事実である。ネットワークを「ヴァーチャル」だなんて思い込んでいる人間が、「仮想だから」と、無責任な発言をまき散らしているのも、一つの現実だ。しかし、そういった記録は、サーバのハードディスクに「現実に」存在しているわけだし、ありとあらゆるサイトのバックナンバーは、アーカイブとして記録されつつある。そこには他の「誰か」もアクセスできるし、クリック一つで、いくらでもコピーしてネットワーク上に展開できる。

ネットワークに対して、こういったある種の不信感を持つヘテロ世代は、当然、ネットワークの「向こう」にも、同種の人間がいることを想定する。自分がやろうと思えば、どれだけのことがネットワーク上でできるかを知っているだけに、ネットワークの「向こう」を警戒する。自分がそれを行わないのは、自分のモラルに殉じているから(あるいはリスクを知っているから)であって、「向こう」が良心を持っているとは限らない。自然と、「向こう」を意識せざるを得ない、ということになる。

さて、ここまでは発信した被害者側の視点に立った問題提起。発言を受信し、殺意を抱いた加害者の方はどうなのだろうか。加害者を中傷した(とされる)発言は、加害者にとって全く予期せぬものだったのではないか、というのが俺の印象なのだが、どうだろうか。ネットワーク上で交わされる会話が何であれ、「向こう」を意識したことがなかった加害者にとって、それは長らく「風景」でしかなかったのではないか。その「風景」が、突如「人格」を持って自分を攻撃した、その事実に加害者は逆上してしまったんじゃないかな、と思う。

恥ずかしい話だが、俺はゲームで本気になるタイプの人間である。アクションゲームなどでコンピュータに負けると、腹が立ってコントローラーを投げつけてしまうこともある。コンピュータは、ただプログラミングされたアルゴリズムに従って攻撃しているだけであり、それは俺も知っている。そして、そんな小手先のテクノロジーに負けるのが悔しいのだ。その上、コンピュータ側が「弱いですね。ププ」などと言ったらどうなるか。俺だったら、テレビ画面を叩き割るかもしれんな。

もしも、加害者がネットワークの「向こう」を、ゲーム・キャラクターくらいにしか認識できていなかったとしたら、どうだろう。腹が立つのも、わからないでもない。だけれど、やっぱりそれは間違いなんじゃないかな。