- ネットワークの向こう側 (2)

2004/06/13/Sun.ネットワークの向こう側 (2)

長い日記を書いていると、段々と何を書きたかったのかを忘れていく T です。こんばんは。

前回のあらすじ)
 コンピュータやゲーム、ネットワークといったもの(粗っぽいまとめだが)は、果たしてヴァーチャルなものなのか? 少なくとも今の小学生にとって、それらは「リアル」でしかない。だって、それらもテクノロジーの産物でしかないんだから。でも、ネットワークの「向こう」は、また違うものなのではないのか?

このような問題に対して、世代論が有効かどうかはよくわからない。しかし、長崎の小学生殺害事件の加害者、事件の背後に滑稽なほど巨大なヴァーチャルの幻影を見る大人達、そして、その双方に対して、自分の価値観との違和感を感じる俺、この三者の間には確実にジェネレーション・ギャップが存在すると思う。

「コンピュータ遺伝子」や「ネットワーク遺伝子」というものが、仮にあったとすると、TVゲームすらしたことがないような大人達は「ヌル世代」(null; 遺伝子がない) と言えるだろうし、生まれたときから家庭の中にネットワーク端末があったような小学生は、明らかに「ホモ世代」(homo; 遺伝子を二つ持つ) だろう。

俺のようなファミコン世代はどうか。コンピュータなるものを知ったとき、それはまだ特別な存在だった。時が経つにつれ、それは段々と普及していったが、今度は「ネットワークに接続されたコンピュータ」が特権的な時代があった。今となっては、どちらも当たり前のように使い倒しているが、そういう体験が下地にある。生物学的に言えば「獲得形質」に近いが、便宜的に「ヘテロ世代」(hetero; 遺伝子を一つ持つ) と呼ぶことにする。

どうして遺伝子に例えたかというと、「X歳以上はヌル世代」といった区切りができないからだ。バリバリとコンピュータを使って仕事をされている中高年の方もおられるだろうし、逆に、俺と同年代でも「ゲームはしたことがない。パソコンも全然ダメ」という奴が存在するからだ。結構、個体差が激しい。単純な世代論にはならないと思う(勿論、俺が分類した三つ以外のタイプもいるだろう)。

さて、ここからはネットワークに話を絞る。ネットワークの発展とともに成長してきた俺のようなヘテロ世代が、恐らくは潜在的に意識している点が二つある。

  1. ネットワークやコンピュータは、テクノロジーの産物でしかないが、まだ「枯れて」もいない。
  2. ネットワークの「向こう」には、自分と同じように、ネットワークを疑うことのできる存在がいる。

最初の認識は、技術的な側面である。インターネットやパソコンは、既に生活の一部として使いこなしている。しかし、テレビやラジカセのような「枯れた技術」とは思っていない。故に、諸々の新技術やアップデートには敏感で、積極的な行動も取る。ネットワークなどに対しては、やはり「特別なもの」という感覚があるが、同時に、充分な理解もある。技術的な未成熟さから予想されるリスクに対策を立てつつ、自分で必要なものを選んで、システムを構成・運用することができる。これが、俺のイメージするヘテロ世代である。「軽い特別視と充分な理解」がキーワード。

ヌル世代だと逆になって、「過度の特別視と不十分な理解」となる。まず、システムを特別視するあまり、彼のシステム、というか、彼のネットワーク上などでの行動から、可塑性が失われる。あまりに特別と思い込むため、テクノロジーに自分を適応させようとする傾向も希薄になる。当然、理解も不十分なままだ。ウイルス・メールが1通来ただけで大騒ぎするくせに、パスワードを書いたポスト・イットをモニタに貼り付けたりする。

最後にホモ世代である。彼等は、ネットワークに特別な感情を持ってはいない。ブラウザを起動することは、テレビの電源を入れるのと同じような意味しかない。技術的にも、同様の安心感がある。だから、ネットワーク・サーバは落ちるものであるとか、ハードディスクはクラッシュするものであるとか、そういう意識がない。しかし、これはあまり問題ではない。こういった問題が起こるのは、ホモ世代がまだ幼く、経験も知識も不足しているからだ。学べば済む。

ここまでは技術論だ。そして技術論とは、概ね解決されることになっている。CD にどうやって音楽が記録されているのかを知る必要がないように、いずれ何の問題もなく、コンポで音楽を聴くようにネットワークへ接続できる時代は必ず来る。しかし、ネットワークの「向こう」に対する認識、これは誰かが教育するか、さもなければ自分で意識的に感覚を養っていくしかない。

ネットワークの「向こう」となると、これは一種の社会論になってくる。まず、「ネットワークはヴァーチャル」などと発言するホモ世代は論外だ。ネットワークに接続しているのは、人格のある個人であり、確固として存在する組織であり、誰かが作ったシステムだ。ホモ世代がヴァーチャルと叫んでいるその相手は、自分の子供かもしれない。そういった現実感があるか?

犯罪の責任をネットワークに帰するのは、思考放棄であり、その行き着く先はネットワーク差別でしかない(とはいえ、すぐにネットワークを差別する方が圧倒的に少なくなるだろう。となると今度は、彼等はネットワーク賎民として、反対に差別される対象となる。皮肉ではなく、本気で彼等を心配してしまう)。

今回の事件では、加害者が小学生ということもあるが、やはり、犯罪の責任はネットワークにはない。酷なようでも、全て個人の責任であるはずだ。

長崎の事件は、加害者にとってネットワークの「向こう」の存在が、同時に現実世界の級友でもあるという二面性が、話をややこしくしている。だが、一番肝心の部分は「ネットワークの『向こう』に殺意を持った」という点である。それがたまたま身近な人物であったから、実際に犯行を行ったというだけなのではないか。俺はそう思っている。どうしてネットワークの「向こう」に、殺したくなるほどの感情が湧くのか。それがキーである。

……長くなるので、次回に続く。