「もう更新しないかもしれない」なんて数日前から書き続けながら、こんな日付になってまでも結局は更新を続けている T です。こんばんは。
さて、1年を回顧してみるか、と過去の日記を流し読み。
……回顧するんじゃなかった。
今年は金に泣かされた。学会開催地が LA、新潟(……ありえん)と遠かったのが最大の原因で、学会に行くたびに引きこもっていたような気がする。加えて、就職に対する焦りや不安などで、今年は色々と余裕がなかったなあ、と反省しきり。漢がコレでは駄目だ。周囲の方々には多大なる御迷惑をかけっぱなしではなかったのかと思うと身がすくむ。ここで謝っておこう。すみませんでした。
来年は是非とも良い年にしたい。勿論、いくつか抱負もある。一つは当然のことながら就職。これが決まらない限り、真の意味での来年は始まらないのではないか。ホントどうなるのか心配だ。で、二つ目は大型自動二輪免許。これは就職が決まったら是非とも取りたいと思っている。
ま、こんなことは俺の個人的なことなのでどうでも良いが、一つ、この「修羅場、どっと混む」に関しても計画がある。以前からずっと俺が愛する The Beatles に関するページを作りたいと思っていたのだが、来年こそは実行に移そうかと考えているのだ。ボチボチでも良いのでやってみたい。
それでは皆様、良い御年を。
突然の用事が入ってきて、帰省を 1日延ばした T です。こんばんは。
もう 12月 29日やで。何を考えているのだろうか、某社人事部。まあ、我が豪邸も見回してみたら汚いままであることだし、ついでに大掃除をしてから帰ろうか。などとブツブツ考えながらコンビニに足を運ぶと、
新人アルバイトF嬢、来たああぁぁっ!!!
恐らく年末年始で店が忙しいため、臨時で雇った新人だと思われる。レア物(あのな……)かもしれないので、とりあえず弁当を買って温めてもらった。何してんだろ、俺。
バイト友達と忘年会をしてきた T です。こんばんは。
総員 4名で盛大に行われた忘年会、俺を除く全員が社会人ということもあって、色々と貴重な話が聞けた一夜だった。ありがとうございました。特に、アキラメンが連れていってくれた 1軒目の蕎麦屋で出された「蕎麦焼酎」が絶品。旨い!
10日ぶりの更新の T です。お久し振りです、そしてこんばんは。
台風一過という言葉があるが、クリスマスが一夜明けた今日などはまさに「聖夜一過」で、小綺麗なだけのイルミネーションや、理由もなく浮かれ回る女子供が一斉に去ってホッと一息。
クリスマスとニューイヤーが連続しているキリスト教圏とは違い、「ハレ」と「ケ」の文化を持つ日本では、明らかな「ハレ」である正月を目前にした年末は「ケ」であるべきなのだ。それがクリスマスだ何だと浮かれ回っているからメリハリが付かず、正月の有り難みが薄れ、やれ伝統行事がどうしたと心を痛めねばならんのだ。クリスマスをやめろ。そうすりゃ伝統も復活するさ。
伝統的といえば、この 21世紀になっても「電線の近くでの凧揚げはやめましょう」というTVCFがあったのには驚いた。今の子供は凧揚げなんてしねえよ。ジョークなのだろうか。
明日はバイト友達と、明後日は義兄弟達と(これはまだ未定だが)忘年会。酒を飲んでいるので更新できないかもしれません。今日が今年最後の更新かもしれないので念のため、皆様、良いお年を。
押しつけがましい風潮の世の中に苦笑いの T です。こんばんは。
コンビニのトイレなどでよく目にする張り紙に「いつも綺麗にご使用頂き、ありがとうございます」というものがある。なんなんだ、コレは。
「いつも」と言われたって、ココを使うのは初めてというときもあるし、なにしろ、まだ「ご使用」していない状態で目に入ってくる場合の方が多い。それなのに「ありがとうございます」と、あらかじめ礼を言われたって困るばかりだ。要するにこれは「こっちは最初から頭を下げているんだから、オマエも気持ちを汲み取って綺麗に使え」ということだろう。頭を下げる相手に日本人は弱い。使用者の罪悪感を喚起しておき、思惑通りに行動させようという意図なのだろう。
宣伝のためのティッシュ配りというものがある。これも同じで、受け取った人は「タダでティッシュ(実用性があるもの)を貰ってしまった」という罪悪感のためから広告に目を通しやすくなる、という話がある。これがティッシュでなくチラシなら、こういう感覚は湧かないだろう。
さて、視点を変えて「いつも綺麗にご使用頂き、ありがとうございます」というテクストを純粋に文章としてみると、これはこれで興味深い。このテクストにおける「ありがとうございます」の発言者は時制的に未来にいる。ところがこの発言者が何に対して礼を言っているかというと、これも現在に対してではなく未来に対してなのである。それも確定してはいない、不確定の未来にである。
通常の生活でも、確定的な未来に対して礼をいうことはある。例えば何かの催しの幹事に任命された人に対して、任命直後に「ご苦労様です」と言うことはあるだろう。この場合、その人がこれからなすであろう幹事としての仕事に対してあらかじめ礼を言っているわけである。
ところが「いつも綺麗に〜」の場合、これは「不確定未来に対する、更なる未来からの感謝」となるわけで、相当ややこしい。このように発せられる感謝を「メタ・サンクス」と呼ぶことにしよう。メタ・レヴェルからの感謝という意味だ。
最初の段で少し考えたように、メタ・サンクスは現在の人間に対して、無数に選択肢が存在する不確定の未来の中から、発言者の望む未来の選択を穏やかに強制する効果がある。テクストとしての解釈は文学者にでも任せ、我々一般人は、日常生活の中でメタ・サンクスをどう有効的に応用するかを考えよう。
……こうして書いてみると、あまり品の良いもんじゃねえな。要するに嫌味であり、プレッシャーであるわけだ。複数人で飯を食いに行って「ごちそうさん」と早々に席を立つ奴と、基本的には同じ精神構造から発せられているわけで、これが上品になろうはずがない。丁寧ぶっている分、慇懃な感じは否めない。企業イメージを下げたくないならば、この論法は使わない方が良策と思うけどな。
今日も履歴書を送付した T です。こんばんは。
間が悪いことに履歴書・写真・卒業証明書・成績証明書といった一連の書類ストックが底を突いていたために朝から走り回ってしまった。面倒くせえ、と思いながら新しく買ってきた履歴書を書いていたのだが、どうも以前のものとは様子が違う。ま、ええわ、と思いながら記入を進めていたのだが、最後の欄に至って筆が止まった。
「保護者記入欄」
なんじゃそりゃ。前のやつにはこんな欄なんてなかったぞ。っていうか、23の男が職を求めるためにしたためる書類で「保護者」ってどういうことよ? 不思議に思って履歴書のパッケージを見ると、
「パート・アルバイト用」
買い直して書き直し。……俺が悪いのだが。
……で、学会日記の 3日目。この日は俺のポスターの発表日なので、朝から行って掲示する。当然のことながらポスター発表の時間に自分がウロウロと見て回ることはできないので、この日に発表されるポスターは時間外に見なければならない。シンポジウムも面白そうなのがなかったので、一通りポスター巡りをする。帰ってきたところで Dr. A、B氏と遭遇。暇だから、という理由で、3人で近くの R研を見学しに行く。でけえ、周りに何もねえ、めっさ研究できそう、などと言いながら、辺りを一周して帰ってきた。何してんだか。
午後のポスター発表は、昨年に比べて聴きに来てくれる人も格段に増え、時間を持て余すこともなかった。やっぱ線虫の写真は必要だよなあ。去年はウエスタンのバンドしかなかったし。という訳で、いくつかの実りある御意見、御提案、ディスカッションを頂いた。有り難いことだ。
さて、元町では今夜からルミナリエが始まるということで、ちょっと見に行ってきた。阪神大震災を自宅で経験しながらも、今まで一度も行ったことがなかったのだ。というわけで写真を一つ。
小綺麗ではあったが、それほど大騒ぎしてまで見るものか?というのが俺の正直な感想であった。
というのも、商売し過ぎ。これって「鎮魂」がテーマとちゃうん? モノ売り過ぎやでホンマ。屋台も出過ぎ。全然オサレでも厳粛でもないやん。一応、神戸やからって「ルミナリエクッキー」や「ルミナリエチョコレート」で小洒落た感じにしとったけど、まあ、そのうち間違いなく「ルミナリエ饅頭」が出るね。最悪、「ルミナリエ音頭」も CD になるかもしれへんなあ。失望やわあ。
もう今年中にはないだろうとタカを括っていた企業への作文だが、最後の最後で「A4 用紙 3枚」という、これまでで最長の制限が課せられた研究テーマ作文を要求されて四苦八苦の T です。こんばんは。
本気で A4 用紙 3枚のものを書くと、かなりのことまで述べることができ、それをしっかり読んでもらえるならば、こちらも相当に気合いが入る。加えてこの会社は「学会発表リスト・発表論文リスト」も要求しており、貧乏に耐えながらも学会に参加し続けた俺としては、ここに来て非常に報われた気がするのである。要するにアカデミズムに残るつもりがない者にとっては、学会など履歴書の埋め草に過ぎない訳ですよ。文句あっか。でも、そうでなきゃ、あそこまで苦労して学会なんか行かねえよ。
で、これも詐欺まがいなのだが「発表論文リスト」には、2ヶ月ほど前に K先生に厳命されて下書きだけした論文を、投稿準備中としていつも書き加えていることは内緒だ。嘘じゃないし。そう、嘘ではない。
……で、学会日記の 2日目。前日、あまりにも混んでいた電車に辟易し、この日は少し時間をずらしてラッシュを避ける。勿論、朝からシンポジウムなど聞く気もない。午前中は三宮をブラブラして終わる。
午後はポスターを見て回る。数の割には大して聞きたいものがない、というのが去年の分子生物学会の感想だったが、今年もそんなに変わらない。変わったのはこちらの興味が少しずつ拡がってきたということで、それによって見たいと思うポスターの数も増えた。
例えば、俺は線虫の筋肉タンパク質を研究をしているわけで、「線虫」や「筋肉」の研究ならば、まあ普通に見に行くわけだが、それだけだとアッという間に見終わってしまう。そこで他のものも見ようと思うのだが、なにしろポスター発表は座って聞いているだけ、というわけにもいかず、何か質問しなけりゃ悪いような気がするのは俺だけか。質問するからには、こちらにもある程度の知識が必要なわけで、なかなか別の分野の研究は敷居が高い。で、少なくとも自分が興味を持っている分野でないと恐れ多くて聞きに行けないわけだ。
俺の場合、研究しているタンパク質がカルモジュリンやカルシニューリンといったタンパク質と性質が似ているため、比較的(あくまで他のものと比べて、だが)よく知っている。だから聞きに行く。また、研究している変異体の表現型は、細胞接着因子の変異体の表現型と同じであるので少しは勉強した。だから細胞接着因子の発表は見に行く。
そういう感じで色々と見るべきポスターは増えた。少なくとも発表時間を持て余すことはなくなったなあ。いいのか、それで、という議論はさておき。
ようやく冬物のスーツを買いに行った T です。こんばんは。
安売りで有名な服屋A で買ってきた。最初は 1着あれば良いかと思っていたのだが、結局は 2着買ってきた。だって、
1着買うと 2着目は(勿論ズボンを含めて)1,000円!
って言うんだから、これは買うしかないだろう。どういう価格設定なんだ。おかしいだろ。
……で、学会日記の 1日目。午前は元我が学科の教授・助教授だった A先生・K谷先生がオーガナイザーを勤める、進化発生学のシンポジウムを聞きに行った。どの発表も面白いものだったが、とりわけ印象深かったのは、トゲウオのヒレの発生を制御する因子の研究である。一連の Hox 遺伝子がヒレで発現しているかどうかを見たりしており、どうやらヒレの形成に関係しているのではないか、と言えそうな結果であった。
ここで俺の頭に浮かぶのは、どうしてトゲウオなんかで研究しているのか、という疑問である。
フカでやれ、フカで。
そう思いませんか貴方。だって、フカのヒレ形成遺伝子が見つかればフカヒレ作り放題じゃないか。俺だったら絶対そうするね。フカ幹細胞の培養系を立ち上げて、人工的にフカヒレ作りまくる。PIF (phine induction factor: ヒレ誘導因子) とかって名付けて特許取るな。
例えばK谷先生は亀の肋骨を誘導する因子を見付けようと研究されているが、これも絶対に鼈甲(べっこう)を人工的に作って金儲けしようという魂胆があるからに違いない。
(亀の甲羅は肋骨が変化したものであり、こういう形態をとるのは亀だけであるから、研究することに生物学的意義があるとか何とか理由を付けているが、それは表向きの理由だと俺は思うのだ)
いや、初日から欲得渦巻く学会であった(深読みし過ぎ)。
明日の夕方には実家に帰り、明後日からの学会には電車通勤の T です。こんばんは。
急に寒くなってきた。というよりは今までが暖か過ぎたのだが。暖房器具も炬燵だけで、部屋では T シャツで過ごし、寝るときも下着だけ。息が白くなったり、窓に結露した水滴が凍てつくこともない。非常に暖かな冬であった。
ところが今朝は道路にも霜が降り、ようやく冬めいてきた。寒い。ここまで冷えてくると自転車に乗るより歩いた方が寒くないので、最近はよく徒歩で通学している。歩いた方が身体が温まるし、眠気も飛ぶ。こいつは御機嫌だぜ。
ところが、世の中にはもっと御機嫌な奴等がいる。そう、小学生だ。今朝は丁度彼等の通学時間とかち合うように家を出たのだが、まあ、いるわいるわ、半パンの元気小僧がウジャウジャと。こいつらの穿いている半パン、気合い入り過ぎ。もう「膝上」なんてもんじゃない。股下。すげえよオマエら。股下 5 cm の半パン。もう俺には穿くこともできない。半端じゃない。凄過ぎ。
まあ、俺の年齢の半分以下の若さだし。って思うと、ちょっとヘコんだ。
午前 3時から 10時まで、我が豪邸にてヒゲマン氏と飲み明かした T です。こんばんは。
いつもと同じようにラボやプライベートに関する相談とも愚痴ともつかぬ戯れ言を聞いて頂いたのだが、話したら少しは気が楽になった。気のせいかもしれないが(聞かされたヒゲマン氏にしたら、たまったものではなかったと思うけど。すみませんねえ)。
まあ他にも、馬鹿な FLASH やムービーを観たり、CD を聴いたりと、まったりとした数時間を過ごしたのだが、「笑うって良いよねえ」などと、しみじみと 2人で実感するところなど、根底には非常にアンニュイな気分が横溢していたりして。
ヒ「最近、何か面白いことない?」
俺「ないっすねえ」
ヒ「良いこととかもないの?」
俺「ないっすねえ」
ヒ「……」
俺「……。ヒゲマン氏は何かないっすか?」
ヒ「ないねえ」
俺「……」
ヒ「……」
俺「……ウイスキー、空いてますよ」(冒頭に戻る)
ま、いいんだけどさ。今日はもう、研究も就職も頭から追っ払って、3回も風呂に入ったり(俺は風呂が好きなのだ)メールを書いたり、サイトをいじったり……。後ろ向きだなあ。
文章を書くのが苦痛ではないため、小論文等の文字数制限は大きい方が喜ばしい T です。こんばんは。
企業にエントリーをする場合、「何故当社を選んだのか」「あなたが希望する職種は」という定番の質問に加え、理系であれば「卒業論文(修士論文)のテーマ」というものを必ず書かされる。
この課題に課せられる文字数制限は、おおよそ 3パターンに別れる。
一つは、ちゃんとした用紙に印刷して郵送するタイプに多い「1,000文字以上」である。A4 用紙全面の裏表に好きなだけ書け、というところもあった。やはり自分の実験に関しては詳しく書いておきたいので、このタイプは非常にありがたい。
二つ目は、「数十文字以内」というタイプである。このタイプではズバリ「テーマ」のみを書けば良いので、これも難しくない。卒論のタイトルや学会発表の演題に、ちょっと修飾節をつければ丁度良い文字数になる。
最後の三つ目が一番困る。Web 上での登録でよく出現する「200〜400文字以内」というタイプだ。転送量の問題があるのかしらんが、実に中途半端だ。テーマを書いただけでは文字数が足りないし、かといって「俺が研究している遺伝子はカルシウム結合タンパク質をコードしていて〜」などと悠長に書いていたら、アッという間に文字数が引っ掛かってしまう。頭を絞って書いたところで、いざ送信しようとなって読み返すと、極めて消化不良な文章に思えて躊躇してしまう。
雨の土曜日、少し溜まり始めてきた就職関係の仕事を洗いざらいやっつけた。次に忙しくなるのは年明けだろうか。
久々に完徹を敢行した T です。こんばんは。
徹夜したと言っても、別に仕事をしたわけでもなく、ただ単に眠れなかっただけなのだが、学会発表のポスターを仕上げたり雑用をこなしたり、割と普通に 1日を過ごした。最近、歳のせいか(ジジ臭いな)徹夜を全うできなくなっていたため、久方振りの快挙と言える。
睡眠という現象は色々とわかっていないことが多い。と言うか、俺が実験で使っている線虫達、こいつらは睡眠とかするんだろうか。ショウジョウバエは確か睡眠したはず。せめて神経節ができるくらいは複雑な神経系を持たないと睡眠は発生しないのだろうか。
睡眠って、どう考えても個体の生存に圧倒的に不利な現象だと思う。情報処理系が発達すること自体は問題ないのだが、肝心なのは、それによる恩恵が、睡眠と天秤にかけてもお釣りが来るほどなのかという点だ。とてもそうは思えないんだよなあ。
それにだな、長い進化の歴史の中で、睡眠時間が短くても事足りる、という遺伝子を持つ個体が現れる可能性もあるわけで、そうなると、この遺伝子を持つ個体は、持たない個体に比べて行動時間が長い(危険な睡眠時間が短い)ので生き残りやすい気がするんだが。そうなると自然淘汰で、どんどんと生物の睡眠時間は短くなっていくような気がしませんか貴方。でも、どう見ても高等動物ほど睡眠が深くて時間も長いような印象がある。逆じゃないか。
……もう寝ます。
2日連続でネクタイを締めたら、さすがに少しは気疲れした T です。こんばんは。
ホント、よく世界中の男達があんな首輪チックなものを毎日毎日付けているのには感心する。首からプラーンと布を垂らして、ピラピラピラピラ、邪魔になりこそすれ、役に立つこともない。まあ一種のユニフォームだから文句を言うつもりもないが、ユニフォームならユニフォームで、もっと機能的であってほしいものだ。あまり機能的となると軍服に近付いていくのだが。
警官や警備員の制服、建設現場のユニフォームや昔の国民服が何故に軍服に似ているかといえば、やはり活動のしやすさ、便利さ、丈夫さ、大量生産への適応、これらの課題を合理的に追及していけば自ずと一つの形に近付いていくからではないか。これじゃあ、多様性や他との差異が商品価値になる現代企業のユニフォームには適してないわな。とはいえ、スーツもみんな同じ形なんだが。ネクタイの太さや柄だけで何が主張できるというのだろう。
……てなことを夏物のスーツに身を包みながら考えた。寒っ。さっさと冬物を買いに行くか。夏物で差異を強調してもなあ。ただの馬鹿と思われるだけだし。
縄文人のデザイン指向が気になっている T です。こんばんは。
縄文土器に付けられた縄目模様、あれは装飾なのか、それとも実用的な理由があってのことか? これが気になって仕様がない。縄文土器といえば、時代が下るにつれ、どんどんと装飾が発展していき、最後にはゴテゴテで「どう考えても使い辛いだけやろ」というほどにまでなるのだが、この流れを考えると、初期の素朴な縄目模様、あれもやはりデザインだったのだろうと推察できる。
この論法が正しいとすると、更に時代を遡れば、もっと素朴な、否、縄目模様さえもない土器が出土しても良いはずなのだが、寡聞にしてその存在を俺は知らない。出土していないだけなのか。それともないのか? ないとすると、縄文土器は出現当時から最低限の縄目模様デザインを兼ね備えていたことになる。
なるのだが、それはやっぱりおかしいんじゃないか。装飾ってのは二次的なものだろう。土器の必要性と装飾の必要性が、縄文人にとっては同じウエイトだったのか。それとも、土器を作る頃の縄文人には、既にデザインを考えるほどの余裕があったのか。どちらも変な話だ。
……てなことを、「縄目模様も鮮やかに『貴方好みに縛って!』と哀願する M女、多数登録!!」という出会い系メールを削除しながら考えているところだ。
そこで閃いた。縄文人(というかもっと以前からの人類)ってのは狩猟生活だったわけで、農耕を営んでいた弥生人とは異なり、その日の獲物を求めて山に分け入り、狩りをしては肉を喰らっていた。復元図などでよく目にする通り、獲物ってのは「縄で縛る」のが定番。毎度毎度、食事といえばボンレスハムの日々ではなかったのか。
食事 = 縄目模様
このような図式が悠久の歴史で刷り込またとしてもおかしくはない。時代が下り、ようやく彼等も土器を作れるようになった。勿論、当時最先端の技術製品である土器の使用目的は、一番重要な食物に関してであることは論を待たない。そこでついつい先祖からの記憶で、作成過程の土器を縄で縛ってしまったのではないだろうか、というのが俺の推理である。
ここまで来ると、どうしてSMプレイで縄が出てくるのかという、ノーマルな俺にとっての疑問も氷解する。あれも先祖の記憶なのだ。食と性は近しい関係にある。あれはやっぱり縛っている相手を「俺の獲物だ」と認識することによって縄文の血をたぎらせているに違いない。間違いない。
昨夜の9時から今朝の6時まで実験したりポスター作ったりで、完全に昼夜逆転の T です。こんばんは。
さすがに学会参加も 6回目となるとポスターを作るのも早くなったもんだ。1年半前、最初の学会発表用のスライドを K先生に見せたところ、「作り直し」と一蹴されたことも今や懐かしい想い出。分子生物学会、この学会は分野も規模もデカ過ぎて、今一つ突っ込んだ興味も持てないのだが、Dr. T に直接お会いできることが何よりの楽しみ。あまり進捗しているとは到底言えないが、それでも自分の研究を Dr. T に見てもらうのは、他のどんなエラい先生に質問されるより気合いが入る。
(Dr. T にしてみたらウザいだけかもしんないけど……、すみませんねえ)
思い起こせば約 2年前、ラボに入ったばかりの俺に、Dr. T は 1枚の紙を手渡してくれた。
「こんな感じで研究したら」
実は 2年経っても、その A4 用紙 1枚に書かれた内容をこなしきれていないのだが、最近、ようやく終わりが見えつつあり、何とか今年度中にはケリをつけたいと思っているのだ。