- 哀しき進化論

2003/08/23/Sat.哀しき進化論

ラボに行ってない。だはは。線虫を植え継ぎに深夜徘徊をしたりしているのだが、実際には何もやっていないに等しい。休みには休みたい俺は研究者に向いてない。休みより研究の方が楽しくないと研究者なんてやってられないということをこの 1年間で実感した次第。サイエンティストというものには変わらぬ憧れやリスペクトがあるのだが、俺には無理だ。あれには才能が必要だ。

今日も爺ィの独り言。

最近のゲームをやっていて思うのは、まあよくぞここまで綺麗になったものよという感慨で、ファミコンを知る世代からしてみれば、まさに隔世の感である。と同時に、現在のゲームが到達しているレベルに既に満足してしまっている自分を発見したりして、これが少し哀しかったりもする。

生まれて初めてのゲームが PS2 のファイナルファンタジーだったりする今の子供たちは「何でムービーシーンとゲームシーンのレンダリングが違うんだよ」なんて不満を持っているかもしれない。俺から言わせればそれは当然のことで、よくもここまで近づけたもんだなんて感心しているから始末に負えない。

要するに現状に満足してしまっている。不満が進化を促すわけであって、俺のような爺ィはもう、何も進化に貢献できないであろうというのが哀しい。

そりゃあ俺でも、これからのゲームはもっとグラフィックが綺麗になるし、扱うデータ量も増えていくんだろうなというくらいの予想はつくが、しかしそれはあくまで進歩の範疇であって進化でない。進化ってのは、もっと飛躍のあるもんじゃないか。とは言っても、普通の人間がいくら妄想をたくましくしたところで、飛躍もせいぜい一足飛びが関の山。そして現在の社会は、俺が子供の時からすれば既に一足、あるいは一足半ほども飛躍してしまった。その間に俺の頭はすっかり固まってしまい、もはや妄想をたくましくすることも飛躍することもできない。

今の子供が何を考えているのかわからんが、いずれ俺の度肝を抜くような妄想を実現してくれるかもしれないと思うと楽しみだ。俺の頭は固くなってしまい、これから世界がどうなるかなんてさっぱりわからないが、それは消費者としての余生が楽しみなものであると思えば苦にはならんなあ。せいぜい新しいものに「それは駄目なんだよ」とか、若者の言葉に「何をわけのわからんことを」などと頭ごなしには言わないことにしよう。と、また爺臭い発言をしてみる。