- Diary 2003/01

2003/01/31/Fri.

やばいな、タイの想い出は今月で終わる予定だったのだが、そうもいかないようだ。

さて、前途多難なハイキング、それでも何とか方角と距離を頼りに指令書通りに進んだ。しかし、ついに迷ってしまった。だってだって、目印に指定してある植物が一体どれなのか皆目わからないんだからしょうがない。遅かれ早かれこうなることは目に見えていた。

「迷った」と書いたが、正確には指令書に指定されているルートを見失ったということで、ボーイスカウトとあろうものが地図にコンパスまで渡されて現在地がどこかわからないということはない。ただ、規定のルート上にいるかどうか(地図にはルートは示されていない)というのが問題なわけである。チェックポイントに辿り着けず、スタッフに心配をかけるかもしれない、というだけのことだ。

そこで通りがかったイギリス隊。お、アイツらについていこうぜ、ということになった。

俺「すまん、どうも俺達迷ったみたいなんで、ルートに戻るまで一緒に行かせてもらえないか」
英「別にいいよ。それにしても、この指令書難しくないか?」
俺「そうそう。マンゴの木とかわかる?」
英「わからんわからん」

そういうわけで、一緒に歩いていたのだが、そのうちイギリス隊の動きが鈍くなる。すでに山の中。

俺「どうした?」
「迷った」

あちゃー。さてどうすべえ、ということで急遽日英同盟を締結し、今後の対策を練る。とりあえずゴールは山の向こうで、どうしても山は越えねばならない。まずは山頂(チェックポイントがある)に向かえば何とかなるだろうということで、道なき道を上っていく。辺りは草が生い茂り、本当に道がない。交代で開拓しながら進む。ルートからはずれているのは明白だ。思ったより標高が高く、大げさではなく「遭難」の 2文字が頭をよぎる。

証拠写真。気分は開拓民or探検家。

遭難

今この写真を見れば、よくここから帰ってこれたなと思う。しかし、山頂に辿り着き、そこからの景色は絶品だったので、イギリス隊と手を取り合って喜んだものだ。久しぶりに地平線を見た。

山頂からの風景。

地平線

そこからは正規のルートに回復し、無事にゴールに到着しましたとさ。(つづく)

2003/01/29/Wed.

起床からすでに30時間経過。くそ、意地でも体内時計を直すぞ。

昨日の日記で紹介した場外プログラム。社会奉仕は幼稚園の建設手伝い。説明によればこの幼稚園、園児 96人に対し先生 1人。しかもこの先生、毎日 96 + 1人分の昼食を作っているとか。こんな幼稚園の食堂を建設していたのだが、我々はペンキ塗りやタイル貼りをお手伝いしたというわけ。

二つ目の文化遺産見学、植物園に行ってキックボクシングを習うというよくわからない企画。まあ面白かったから良いが。それにしても日本との植物層の違いに唖然。これは後々尾を引く。ところで、この植物園で俺は1週間以上口にしていなかった恋しい飲み物を発見。その名をコーヒー。さっそく売店へ向かい注文する。「何か入れるか?」と聞いてきたので「ブラックや、ブラック」と答えたら、久々に見る漆黒の液体。おお、うまそうだぞよ、と喉元過ぎれば、

「甘い、だだ甘い」

何でやねん、ブラック言うたやんけ。前々から気になっていたのだが、タイ料理はどれも激辛激甘。この2種類しかない。だから「ブラック」っていうのも色だけ。砂糖はデフォルトですか?

さて、そして三つ目の場外プログラム(と書くと全部を 1日でこなしたようだが、さにあらず。各場外プログラムは、どれも 1日がかりの大モジュール。しんどいよ、結構)は、そう、ハイキング。朝 8時、バスに乗せられて出発。同じ国はおろか、同じ隊の班とも分けられて、ゴトゴトと 1時間ばかり乗って山の中。降りたら地図とコンパスと指令書が渡され、強面のオッサンが一言、

「じゃ、ゴール地点で」

「へ?」と面食らっている間にスタッフの皆様は車に乗っていずこかへ。残された俺達。

仕方なく地図を見ると現在地とゴール地点しか書いておらん。あとはひたすら等高線。指令書を見ると「01: スタート地点から方角 255、距離 60 m」なんてのがズラズラズラ、と並んでいる。どうやらこの道順で行けということらしい。面倒やな。隣のオランダ(だったかな)のチームの地図と指令書を見せてもらうと、どうもコースが微妙に違う。結局、全リーダー(このときは 20カ国くらい)が集まって急遽国連ハイキング総会。結論は「全チーム別コース」だってよ。ま、予想はしたけどさ、凝ったことしてくれるじゃねえか、ハイキングスタッフ。

仕方ないので指令書通りに歩き出す。ゴールまで直線距離で 10 km ほどだが、どんなコースを歩かされるかわかったもんじゃねえ。楽しいから良いが。すると、班員の一人が、

班「Tさん、指令書のここ、何て書いてあるんスか?」
俺「こりゃあ、マンゴーやな、マンゴーの木を目指せって書いてあるやんけ」
班「はあ……、で、マンゴーの木ってわかります?」
俺「…………」

今日は絶好のハイキング日和。でも、皆の胸には暗雲が立ちこめていた。(つづく)

2003/01/28/Tue.

ここ2、3日、体内時計崩壊状態。辛いぜ。

さて、開会式の翌日からは具体的にプログラムが始まる。プログラムは「モジュール」と呼ばれ、子供達は毎日朝から夕方までを、このモジュール活動に費やすのだ。モジュールはスタッフにお任せなので、我々リーダー陣は簡単なプログラムの概要(これは毎朝本部から手渡される、ぶっとい英語のガイドブックに書いてある)を説明して、巨大なキャンプ場を迷わないようにプログラム会場まで送っていくと、

そこからは激ヒマ。

基本的に昼食はプログラム会場で配給(リーダーには別にキャンプサイトで配給される)されるので、作るのは朝と夜。つまり俺達の仕事は、朝早く子供達を叩き起こして、尻を叩いて飯を作らし、モジュール開始時間までに開場へと送り届け、夕方には帰ってきた子供達のこれまた尻を叩いて飯を作らし、あんまり夜更かしをしないように寝かしつける、その繰り返しなのだ(まあ、他にも色々あるが)。

これをショウ隊長は「お母さん状態」と名付けた。言い得て妙である。しかし、朝と夕方の忙しい時間を過ぎれば比較的ヒマである。といっても、普段のキャンプに比べてという意味。普通のキャンプなら、モジュールに当たるプログラムもリーダー側で企画展開しなければならない。今回はそれがない、というわけで時間をもてあました我々は他のサイトにお邪魔したり、反対に尋ねてくる外国リーダーをもてなしたり、ゆるゆると時間をすごしたのでした。

ところが、モジュールの中には場外プログラムというものもあり、これはキャンプ会場からバスに乗って外に行って展開されるのである。場外プログラムにはリーダーが付き添わなければならないので、子供達と一緒にプログラムに参加するのだ。

場外プログラムには三つあり、(1) 社会奉仕、(2) 文化遺産見学、(3) ハイキングと、どれも会場内ではできないものばかり。そういうわけで、明日からは場外プログラムについて書いていこう。(つづく)

2003/01/27/Mon.

卒論要項 Ver. 4.2 で終了。穏やかな戦いだったが、次は本文が待ちかまえている。勝てるか?

その日の夕刻からサブキャンプの開会式。1カ国ずつステージに上って隊長が簡単なスピーチ。その後、全体開会式へと移行。3万人全員が集う開会式のために、キャンプ地の北に巨大なアリーナが作られていた。夜で勿論電灯その他の設備も充実しているわけではないから余計に広く感じたのかもしれないが、まあ広いこと広いこと。そこはすでに無国籍状態。開会式にはタイの皇太子も出席。お堅い話(といっても英語だから聞いちゃあいねえ)がすんだら、ステージ(といっても遙か遠くにあるので人の顔も判別できない)上でオーケストラがやたらとノリのいい曲ばかり選んで演奏しまくる。あとはみんなで好き勝手に踊って騒いでくれ、と司会者が言った途端、3万人からのディスコ状態に。

気付けば、すでに人は入り乱れ、何かわけもわからぬうちに騒いでいる。オーケストラがタイのポップミュージックを演奏し始めた。実は俺はバンコクのバーに行ったときに、この曲のサビの部分は歌詞・ダンスともにマスターしており(アホ)調子に乗ってタイ人の集団の中に飛び込んで披露したら大受け。

そのうちアメリカ人がやってきて「おい、俺にも何か教えてくれ」というので、コレは日本の伝説的コメディアンのギャグだ、と前置きして「三平です」を教えてやった。そいつは調子に乗って「サンペイデス、サンペイデス!!」と連呼しながら去っていった。今度はそれを見ていた他のアメリカ人が「俺にも何か教えてくれ」と頼むので、コレは日本のポピュラーギャグだ、と前置きして「宮迫です」を教えてやった。するとそいつも「ミヤサコデス、ミヤサコデス!!」と絶叫しながら退場。アホや、アイツらと思って眺めていたら、数十メートル向こうで「サンペイデス、ミヤサコデス!!」の大合唱が。

ホンマにアホや……。こうして開会式の夜は更けていきましたとさ。(つづく)

2003/01/26/Sun.

土日こっそり更新。今年初めての牛丼はうまかった。

さて、ちょっと時間が出来たのでぶらぶらとキャンプサイト内をうろつくのだが、どこまで行っても日本人に出会わない。どうやら同じ国の隊は意図的に隔離されているようだ。まあ国際交流がメインテーマだから当然ではある。

ところで、タイに到着した日からタイ女性の美しさの虜になっていた俺。だってみんな美人やしスタイルええし(多分暑い気候と辛い食物の恩恵)すっかり惚れてしまった。で、並いるヨーロッパ勢を尻目にタイのキャンプサイトを突撃訪問。タイには女の子のボーイスカウトも多い。ちなみにタイは筋金入りの親日国家、あと、小学校から英語教育をしているらしくコミュニケーションには困らない。

俺「(意図的に可愛い女の子を選別して)ええ、俺はこのサブキャンプの日本隊の副長だが、ここの隊長はいますか? 挨拶に来ました」
娘「え、日本? 副長? ホント?」
俺「(ID カードを見せながら)ホンマやって。ほれほれ」
娘「すごーい、若い!!」

何がすごいのかよくわからんが、確かに俺は副長としては若い。日本選抜隊で下から 2番目。というか俺の隊のリーダー陣はみな若い。これはあとあと(良い方向に)尾を引くのだが、このときは何も思わなかった。しばらくしてテントの奥から 30歳くらいの女性が出てきた。

女「ようこそ。はじめまして、サンといいます。この隊のサブ・リーダーをしています」

驚いたことに、この女性副長は日本語で話しかけてきたのだ。話を聞くとタイの学校で英語を教えるかたわら日本語も少し教えているらしい。日本に来たこともあるという。年齢は 30歳で、これはタイのリーダーの中で一番若いという。それだからこそ、俺の年齢を聞いてビックリしたようだ。

サン「若いわねえ。一緒に写真撮って」(ここからは大体英語で会話した)

サンは非常に子供っぽいところがあって、すぐに仲良くなったのだが、今思えばこの写真がきっかけであった。サンと写真を撮り終わると、今度はタイの子供達に囲まれていた。みな手にカメラを持ち、一緒に撮ってくれとねだる。勿論OKで、写真を撮り終わると今度は質問攻めだ。ひえー。こいつらパワフル過ぎ。

と、少し困った顔をしてサンを見ると「あなたの顔はタイ人風のハンサムだからきっとモテるよ。しかも若いリーダーってあんまりいないから」などとほざく。嬉しいのかどうかもよくわからん。タイ人風のハンサムって何や。ちなみにショウ隊長はタイ人マフィア風、N上班はタイ人(「風」ではない)と言われたそうだ。やれやれ。

そんなこんなで遊んでしまって、サブキャンプ開会式、そしてその後は全体開会式となる。(つづく)

2003/01/25/Sat.

昨日は「千と千尋の神隠し」を見るために早々に帰宅したので更新できなかった。今日は土曜だが、ただ今連載中の世界ジャンボリーの反省会のついでに研究室に寄ったので更新する。が、ネット何故かつながらないのでアップするのは結局月曜か。とにかく今日の反省会で 1年間に渡って準備してきた行事が完全に終了となった。みんな、お疲れさまでした。って、タイのメンバーは誰も読んでないけど。

さて、バンコクで一夜を明かした我々は午前5時朝食という殺人的スケジュールをこなして半日観光へと出かけた。タイといえば仏教寺院。しかも日本のようなわび・さび寺院ではなくて金箔張りまくりのキンキラ仏像&寺院。数カ所を回って再びバスに乗り込み、いざキャンプ会場へ。キャンプ地はバンコクから南に 180 km。4時間ほど高速を走り、ついに着いたぜジャンボリー会場。

巨大なバスターミナル(というか果てしなき原野)で降り、ID チェックを済ました後、個人荷物約 20 kgと隊装備のコンテナ 4箱を数 km 先のキャンプサイトまで運ぶ。無論徒歩。ようやくボーイスカウトのキャンプらしくなってきた。標高 1,000 m の山でキャンプすることを考えれば屁みたいなもんである。

会場には開催地タイは当然のことながら、ヨーロッパ組も続々と入っていた。こいつらは遠いからなあ。アジア・パシフィック地域は近いので後発組らしい。会場はさっきも書いたが果てしなき原野。北に丘陵があり、南には海。その狭間の 3 × 1 km 四方がキャンプ地である。

キャンプ地

こんな感じ。ひたすらテント、テント、テント。

我々も自分たちのキャンプサイトに到着。キャンプサイトは一隊につき 25 × 15 m。この中で 40人が寝起き炊事などをしなければならない。このキャンプサイトが 25カ国集まって一つのサブキャンプを形成する。一つのサブキャンプに 1,000人の人間が寝起きする。このサブキャンプが六つ集まってヴィレッジという単位を形成する。このヴィレッジが合計四つある。よって参加人数は 2万 4千人ということになる。あと、プログラム・資材・運営・マーケットなどの膨大なスタッフがおり、合計 3万余名という勘定だ。いやあ、多い。

俺達のキャンプサイトの隣人は、右がスウェーデン、左がスイス、向かいがドイツ、はす向かいにイングランドとインド。インドを除くヨーロッパ勢はすでに設営が済んでいた。俺達も急いでテントを立て、というのも、すでに夕刻を過ぎていたのだが、まあ、その夜はさっさと寝てしまった。

次の日も設営の続き。完全にテントを張り、食堂フライや炊事場を作る。これらがないと飯も食えない。まあ、みんな冗談でも日本選抜であるわけで、設営はあっという間に終わってしまった。日の丸を掲げて完成。

キャンプサイト

こんな感じ。左はスウェーデン。奥はタイとイタリア。

さて、今夜は開会式だが、それまで時間があるので、他国のキャンプサイトに突撃だ。(つづく)

2003/01/23/Thu.

昨夜、寝入りばなに馬鹿馬鹿しい落語を思いついたのでタイの想い出を書き終わったら紹介しようかと思うのだが、忘れたりするかもしれんのでここでお知らせしておこう。タイトルは「たんぱく」だ。

さて、パッポン通りに付いた我ら3人。この通り、滅茶苦茶いかがわしい。3人並べば肩が触れ合うというくらい狭い路地を挟んで露天と店舗の中間くらいの店がひたすら並んでいると思えばよい。アーケード、と書けば聞こえはよいが、白い天幕みたいなものが頭上 2 m くらいの低さに張られていて、そのおかげでますます狭苦しい印象が強くなる。

売っているものといえば、ちゃちな服やら手作りの民芸品やら、あとは日本では非合法になるようなナイフとか酒とか煙草。その他は飲み屋や食い物屋。我らを日本人と認識した呼び込みのオッサンが「可愛い女の子がいるヨ」などと拙い日本語で話しかけてくる。かなり白人も多く、デブハゲが整った顔立ちのタイ青年と腕を組んで歩いているのとすれ違ったりなんぞして、かなりの無法地帯。う〜ん、アナーキーでエキゾチック。病みつきになりそうですな。ヒゲマン氏は間違いなく気に入るだろう。

ブラブラと冷やかして通りを抜けきると、ショウ隊長が「そろそろ飲むか?」と訊いてきた。勿論否やはない。実はパッポン通りの隣は谷屋ストリートという、日本人観光客向けの通りらしい。谷屋てアンタ。とりあえず入ってみると、そこは何と旅出ったはずの故国日本。雰囲気としては歌舞伎町っぽい。看板は全部日本語で「クラブ葵」だとか、そんな感じ。呼び込みを冷やかしながら、それでも良心的そうな店を一つ選んで入る。

「クラブ恵」

ホントにタイかね、ここは。料金を聞いてみると、女の子 1人座らせて 1時間 600バーツ、水割り 1杯 50バーツ。聞いてびっくり玉手箱。何て安いんだ。その値段じゃあ、日本だったら爪先すら店内に入れませんぜ。

とりあえずボックス席に収まって、どの女の子がいいんだと選ばされたので一番日本人ぽい顔の子を指名した(どうも書いていると背徳的な感じがするが、とにかくタイ人は陽気であったので、いわゆる日本のクラブとは全然雰囲気が違うのだから何とも思わなかった。文章にすると中年オヤジの行動そのものだが)。

名前は AOO ちゃんで年齢が俺と同じだったので色々と喋った。ちなみにみんな日本語ぺらぺら。水割り(これも粗悪な酒が出るんじゃないかと思ったが、日本のウイスキーと同じ味)も値段を気にしなくともいいので、もりもりと空けていく。

ああ、ボーイスカウトじゃねえよなあ。と思いの方。これこそボーイスカウトの醍醐味なのですよ。無論こんなことばっかしてるわけじゃあないが、大体年頃の男ばかり集めて毎週みたくキャンプしてみたまえ。俺は自慢じゃないが悪い遊びは全部ボーイスカウトの先輩に教えてもらった。一種の社会勉強なのですよ。

そんなこんなで1時間ほど飲んで、3人合わせて 2,500バーツ。鼻毛が抜け落ちるほど安い。トゥクトゥクに乗って帰ったのだが、その途中、ショウ隊長が「たった 1,000バーツで持ち帰りも可能や」という。アンタ何でそんなこと知ってんねん!と N上班とともに突っ込んだが、う〜ん、1,000バーツかあ、と 2人して顔を見合わせてしまったのは愉快でした。(つづく)

2003/01/22/Wed.

怠惰な奴を「だらしがない」と申しますが真面目な奴を「だらしがある」とは申しませんな。「だらし」ってえのは一体何でございましょうねえ。

さて、キャンプ地はバンコクから南へ 180 km、パタヤビーチの東、チョンブリ県はサッタヒープという海軍演習地である。さすがにそこまで行くのは時間がかかるので、到着日はホテルで1泊。ここを出ると人間らしい暮らしが当分できないので、この夜はバンコクの街を堪能するぞと飛び出した。とりあえず空港のセキュリティを通るはずもないので持ってきていなかったガスボンベなどのキャンプ用品を購入、晩飯を食って子供達には夜間外出禁止令を触れ回った後、大人達はふらふらと出ていくのだ。文句あるか。

ここで登場人物を紹介しよう。昨日の日記で説明したが、一つの隊に 4人の引率者がいる。1人は風邪で寝込んでいたが、残りの 3人で遊びに行ったのだ。1人は勿論俺。そしてショウ隊長 40余歳。この人は今までプライベートで 3回ほどバンコクに来たことがあるという。基本的に今夜のメニューはショウ隊長にお任せだ。もう一人は N上班 19歳(上班とは上級班長の意味。ちなみに俺は副長)。

ええ、バンコクの様子をよく理解してもらうために、まず、いくつかの事実を知ってもらいたい。

さあ、今夜はショウ隊長に一任して大いに遊ぶべし。とりあえずタクシーに乗って町中に繰り出すことにした。ところでバンコクの交通事情だが、非常に交通行儀がよい日本人には信じられない光景が繰り広げられている。例えば、車線という概念がない。車線は引いてあるのだが誰も守らない。2車線ならば 3台、4車線もあれば 6台の車が横並び。おまけに首都道路なのに滅多に信号がない。道路を横断するときは命がけ、生き馬の目を射抜くような心持ちで渡りきる。あとバイクが多い。原付に一家 4人がヘルメットなしで乗っているなんて光景もざら。タイ人てのは刹那的なのかしらん。

こんな中を客を乗せて目的地まで運んで下さるタクシーだが、普通の乗用車型タクシーの他に、バイクの後ろにトラックの荷台を合体させたようなトゥクトゥクというものがある。物見遊山な我らはアレに乗ろうということで運転手に近寄ろうとした。という素振りを見せるまでもなく運転手は話しかけてきた。

「おお日本人。500バーツでどこまででも運んでやるぜ」(基本的にここからの会話は英語)

500バーツってことは 1,500円か、妥当なんじゃないかと思っていたら、ショウ隊長が、

「ダメだ。50バーツに負けろ!」

50バーツってアンタ、1/10 やんけ。ところが、

「旦那、おたくはバンコクに来たことがあるな、わかった、70バーツでどうだ?」

おいおい、ぼったくりかよ。ところがショウ隊長は頑として譲らず、結局 50バーツで話はまとまった。

これからは省くが、基本的に金を払うときは上記のようなやりとりが一々あったと考えて頂きたい。

さて、トゥクトゥクに乗ったがこいつが結構爽快だ。椅子こそあれ、他は幌の屋根が申し訳程度についているのみで、熱帯夜の首都を走り抜けるのにはうってつけ。調子に乗って「オッサン、運転うまいやんけ」といったら、いちびりやがったのか、反対車線を逆走したのには少しビビった。

命からがらで我々がたどり着いたのはパッポン通りという怪しげな通りだった。(つづく)

2003/01/21/Tue.

ああ風邪で寝込んでいましたよ。ラボの人達からは「髭を剃ったから」と言われた。延び延びになっていたタイの想い出をつらつらと書いていきましょう。

さて、今回俺がどうしてタイに行ったのかというと、少し書いたこともあるが、ボーイスカウトというのは実は結構世界的な組織で、その運動はもうすぐ 100周年、世界 150カ国に広がっているのだが、このボーイスカウトの最も大きなイベントに世界ジャンボリーというものがある。これは 4年に 1回行われる、いわばオリンピックみたいなもので、世界中から青少年が集まって 2週間ほどキャンプするというものである。

こう書くと大したこともないように思うが、集まる人数が半端じゃない。今回の参加は 140カ国 3万人。それだけの人間が何もない広野に集ってテントを張ってキャンプする。実に馬鹿げた光景である。

で、今回の開催地がタイというわけで。このイベントは中高生が主役であって、まあ、俺はその引率という肩書きでいったわけだが、これも結構大変である。日本からは 1,200人が参加したのだが、これが 30の隊に分けられる。1個隊 40人であって、そのうち大人が 4人、残り 36人を更に 4つに分けて 1個班 9人の班を編制し、大人が 1人ずつ付くというわけだ。この隊単位で全て行動するのだが、考えてみたまえ、異国の地で 40人からが 2週間キャンプ生活をするわけで、これの準備は大変である。

そういうわけでタイに行くことになった。実は俺は海外に行ったことがなく、最初の経験がコレといういささか当惑するシチュエーションであったが、とりあえずタイ航空のジャンボ機に乗り込み、一路バンコクを目指して飛び立ったのだった。(つづく)

2003/01/14/Tue.

どうも久方ぶりの更新で申し訳ない。今日からまたもりもり更新していく所存です。

さて、何度も書いたが年末年始はタイに行ってきたのだが、タイは現在乾期とやらで、日中の気温は 40℃を越える暑さ。そんなところで 2週間もキャンプをしてきたのだから日本の寒さがこたえる。てなわけで、帰国してから数日というもの、少々体調がすぐれぬ上に報告書やら会計やらの雑務が重くのしかかり、無論のこと卒論も仕上げなければならないので、タイ旅行記は明日からぼちぼちと書いていきます。

その前に昨日のことを少し。昨夜、バイトの友人が最後の労働というので閉店時間を待って祝いに駆けつけた。俺がバイトを辞めてから半年、同い年の人間がさすがにどんどん辞めていき、バイト先に買い物に行っても見知らぬ顔が増えていくのは寂しいことだ。

と・こ・ろ・が、バイトの同僚で俺と同学年の人間は 6人いるのだが、就職する奴なし。進学する俺などマシな方で、留年1人、専門学校 1人を除き、あとはプー。皆この地に残るというので何も寂しいことはないだとさ。は。ははは。