- Book Review 2012/09

2012/09/17/Mon.

本書は『USAカニバケツ』『底抜け合衆国』のスポーツ編である。

スポーツで勝つには筋骨隆々の方が有利である(あるいは本書には書かれていないけれども、柔道、否、Judo で見られるように、筋骨隆々の方が有利なようにルールを改変する)。ステロイドや成長ホルモンを打つと筋骨隆々になれる。だからアメリカ人は打つ。あまりにも単純だ。

ステロイドの弊害はよく知られている。それでもプロ選手(とそのワナビーズ)はステロイドを手放そうとしない。プロスポーツにおける高額のギャラが理由の一つであることは間違いない。下層階級やマイノリティにとって、スポーツは莫大な富を手に入れられる唯一といって良い手段である。今日一日を生きるのに必死な彼らに、「将来の弊害」を説いたところで説得力はない。

このあたりの事情は複雑である。誰もがスポーツによって億万長者になれるという可能性は、米国の実力主義・機会均等・成果主義の顕れである。一方、多くの人間がスポーツに賭けざるを得ないという現実は、この国の人種差別・貧富格差・教育問題の反映でもある。

もっとも、米国ではプロ以外のスポーツも盛んである。本書の後半では、爽やかなスポーツマンシップ、生き生きとプレイする身体障害者、試合に勝てないが真面目なカルテクのガリ勉たち、演技に徹するプロレスラーなどの、喜怒哀楽に富んだ様々なエピソードが紹介される。また、選手以外の物語、ファンやチアリーダー、スポーツを題材にした映画の話も多い。

話は逸れるが、水道橋博士による「解説」が詳しくてなかなか良い。それで思うのは、Amazon で「まえがき」「あとがき」「解説」が読めるようになったらもっと売り上げが伸びるだろうということである。実現されれば、特に「解説」の質が向上すると思われる。また、下らない書評子は淘汰されていくだろう。——何だかアメリカ的な発想のような気もするが、それも著者からの影響かもしれない。

2012/09/16/Sun.

本書は『USAカニバケツ』の姉妹編にあたる。二〇〇〇年の大統領選挙でジョージ・W・ブッシュがアル・ゴアを破って当選し、翌二〇〇一年から彼の第一期政権が始まったが、同年九月十一日、同時多発テロが発生し、米国はアフガニスタン、イラクとの戦争に突き進んでいく。

「愛国法」などの統制的な法律の制定に加え、巨額の戦費による不況が重なり、ブッシュ大統領に対する庶民の批判は大きくなっていく。体制側(政府、共和党、大企業など)はこれら「反体制的」な言論をあの手この手で取り締まろうとするが、それに屈しないゲリラ的な、命知らずの、ユーモアと機知に富んだ、あるいはときに正面きっての、ときどき的外れな活動が様々な媒体で続けられる。

特に、マイケル・ムーアの活躍とその作品は本書で何度となく紹介され、筆者によるインタビューの様子も生き生きと描かれている。ムーアや『華氏911』に興味があるなら読んで損はない。

全体的に政治的で暗くなりがちな話題が多いが、著者の語り口は軽妙で、常にユーモアを忘れない。

そんな豪快なタカ派発言というか暴言で石原慎太郎的人気を集めていたラムちゃん[ドナルド・ラムズフェルド国防長官]だが、イラクの大量破壊兵器が見つからず、戦争が泥沼化してからは答えがしどろもどろになってきた。たとえば、オサマ・ビン・ラディンの行方について国防長官はこう答えた。

知っているだろう。
我々が知っている既知の事実がある。
知っていることを知っていることだ。

知っているだろう。
我々が知らない未知の事実もある。
知らないことを知っていることだ。

だが、存在さえ知らない未知の事実もある。
知らないことさえ知らないことだ。

妙に韻を踏んでいるので、詩みたいに改行してみました。これってソクラテスの「無知の知」かな?

(「ラムズフェルド国防長官のポエティック・ワールド 暴言ラムちゃんのハチャメチャ発言CD化」、[]内引用者)

「それでもまだアメリカが好きなのは、笑いがあるから」(「単行本あとがき」)と著者はいう。大統領って重要だよなあ。そういえば、ブッシュが ES 細胞の研究に対する連邦政府の助成を打ち切って、幹細胞業界が一時パニックに陥ったこともある。今年はまた大統領選挙があるが、果たしてどうなることやら。

2012/09/15/Sat.

題名にあるカニバケツの意は以下の通りである。

たくさんのカニをバケツに入れておくと、フタをしなくても逃げないという。一匹がバケツから出ようとすると他のカニに引きずり下ろされるからだ。

このカニバケツの話は、突出する者を許さない日本社会のたとえによく使われる。けれども実は、Crab bucket syndrome としてアメリカでも知られている言葉なのだ。アメリカン・ドリーム、一攫千金のサクセス・ストーリーの国でなぜ?

(「はじめに」)

本書は、米国の社会風俗を、セックス、ドラッグ、犯罪、テレビ、スポーツなどの身近な(?)エピソードをこれでもかと重ねることで鮮やかに描き出す。基本的にゴシップなのだが、その周辺を述べる膨大な固有名詞と数字から、著者の智識と情熱を窺うことができる。

僕は何度か米国に行ったことがあるが、いずれも学会参加が目的だった。会うのは研究者、触れるのはサイエンスだけである。そのときに僕が感じたアメリカ的なるものは、恐らく「良いアメリカ」のものである。けれども、例えばホテルでベッドメイクをしてくれる従業員(日本人の僕よりも英語が下手な人種不祥の人たち)、彼らがどんな生活を送っているかについては全く知らない。あるいは、飛行機の窓から見る都市と都市の間の広大な地域、決して学会で訪れることのないこのような場所に住む人々が何を考えているのか、これも全く知らない。

本書は、僕がこれまで漠然と抱いてきた疑問に、極端な例を挙げながら答えてくれる。「アメリカ人はオッパイと酒のことばかり考えている」「都合の悪い事実はメディアによって隠蔽されている」と著者はいう。でもそれは、日本も同じである。考えてみれば当たり前のことだ。それに気付くだけでも本書を読む価値があるだろう。

2012/09/03/Mon.

三十八億年に渡る進化の歴史が compact にまとめられている。本書の基調をなすのはネオダーウィニズムではなく構造主義進化論である。その要諦は著者の『構造主義進化論入門』に詳しい。

本書で印象に残ったのは、系統と分類の違いである。少々長くなるが、わかりやすい説明なので引用しておく。

このように、DNA 解析の結果からは、確かに、どの動物とどの動物が系統として近いかということがよくわかる。ただし、系統解析と分類はそもそも異なる営為なのだ。系統としては近縁だということになっても、形が全然違うから別の分類群にしようという考え方にはじゅうぶんに正当性がある。[略]

そもそも、単系統の考え方で言えば、哺乳類は爬虫類の一部にしか過ぎないということになる。爬虫類の中の、単弓類というたった一つの系統の、そのまたさらに一部の獣歯類が発展したのが、哺乳類なのだから。

遡れば哺乳類の先祖の爬虫類は両生類の一部から現れたのだから、両生類の内群であるという言い方さえも、系統のみを重視すれば成り立つ。また、もっと遡ればその両生類は硬骨魚の一部から進化したのだから……というふうにどんどんと系統を辿って考えていけば、われわれが考えている分類とは様相が大きく違ってきてしまうだろう。分岐の年代が古ければ古いほど、大きなグループになってしまうのである。早く分岐したというだけで大きなグループに分けなければならないとなると、たとえば肺魚と両生類の祖先種が分岐して、かたや現生のごくわずかの種の肺魚に、かたや両生、爬虫、哺乳、鳥類の膨大な種にそれぞれ進化したとして、この二つのグループは分類群として同格ということになってしまう。

(第9章「爬虫類と哺乳類のあいだ」)

系統が時間的要素を含むのに対し、分類は時間を抜きにした多様性を重視していることがよくわかる。言い換えると、系統は遺伝学そのもだし、分類は生態学と関連する。これらを進化論的にいえば、それぞれ突然変異と自然淘汰に相当する。この関係が把握できると見通しが良くなる。

もう一つ、ネオダーウィニズム批判で、これまたわかりやすい説明があったので引用する。

さらに言えば、その環境下では足が生えたほうが便利だから徐々に適応して足が出来ていったというよりも、何かのきっかけで足になりそうなものが出来てしまった、というのが先であろう。環境に適して徐々に形が変わっていくのではなく、むしろ、形が先に変わり、その形に合わせた環境を選ぶというのが、動物の基本的なスタイルなのである。動物は移動できる。自分の形態や機能に最も適していると思われるところへ移っていってそこで生活するというのは、動物の当然の行動である。そこの環境が自分に適さなくなれば、適した環境を探す。適さない環境に耐えながらじっとそこに留まって、突然変異と自然選択を待つという生物はいないのだ。そんなことが起こるのを待っていたら突然変異の前にその生物は滅んでしまう。

(第6章「『魚に進化した魚』と『魚以外に進化した魚』」、傍線引用者)

これは適応放散と収斂進化の説明でもある。動物が動くことの意義、そして私が筋肉に惹かれる理由もここにある。

引用部分に見られるように、著者の語り口は易しい。進化論に様々な version が存在するということを知らないような人でも楽しめるだろう。生命三十八億年の歴史を手軽に概観できる良書である。

2012/09/01/Sat.

副題に「米国アカデミアと競争的資金の申請・審査の全貌」とある。また "Rivalry Mind in American Scientists" という英語も付されている。"Rivalry" という単語を見たのは初めてである。

本書の中心は以下の三章である。

研究者であればいずれも断片的には知っている情報だが、その深部や詳細となると知らないことも多い。特に第2章の、ポスドクが Assistant Professor (non-tenure) になる際の選考や、Assistant Professor が Associate Professor (tenure) に昇進するための審査の過程は非常に興味深い。

第3章では、NIH grant (R01) の審査過程が詳述される。申請側からだけではなく、審査側(申請者と同じ科学者である reviewer)や運営側(NIH staff)の事情も明かされる。ここでは、著者が実際に NIH grant の審査をした経験が存分に生かされている。

より重要なのは、第1章を含め、個々のシステムが互いに関連し合いながら米国の科学技術研究を支えているという理解である。例えば、採用や昇進の際には論文発表と同等以上に研究費の獲得状況が重視される。なぜなら、NIH grant の審査は厳正厳密厳格な peer review によってその質が担保されており、その獲得状況は申請者の能力を如実に反映するからである。また、研究費には間接経費が含まれる。これは大学当局の収入でもある。大学は間接経費によって様々な設備やプログラムを整える。優秀な研究者、そして学生(大学院生には給料も払わねばならない)を獲得するためである。などなど。

このようなシステムの全体を把握しない限り、一部の構造だけを米国式に変えても日本では上手くいくわけがない、というのが著者の指摘である。例えば、最近は日本でも助教が任期制となっているが、講座制における助教は研究室の主宰者ではない。小なりといえども独立した研究室の主宰者である Assistant Professor とは根本的に異なる。

米国留学を考えている人は読む価値がある。そうでない人が読んでも、憂鬱になるだけかもしれない。彼我のシステムや思想の格差はそれほど大きい。