- 『私のマルクス』佐藤優

2010/11/16/Tue.『私のマルクス』佐藤優

非常に面白い「小説」として読めた。

本書は、佐藤優の思想遍歴が綴られた自叙伝である。時期的には、浦和高校入学から同志社大学神学部、神学研究科を修了するまでとなっている。

彼の精神的支柱は、マルクス主義(労農派)とキリスト教(プロテスタンティズム、特に彼が専門とするチェコの神学者フロマートカ)であった。一見相反するように思える二つの要素が、様々な体験や学習、思索、人々との関わりを通じて、徐々に佐藤の中で結合していき、最終的には一つの人間観・世界観が構築されるに至る。つまり、本書はビルドゥングスロマンなのである。

本文中で展開されるマルクス主義あるいは神学に関する議論は複雑で、ときに難解でもある。しかし、これらの要素を差し引いても、語られる人生模様——親友との交わり、恩師との触れ合い、書物との邂逅、そして己との葛藤——は、なおその魅力を失わない。単純に、青春小説としても面白いのである。

神学部の一年生のときに宇野弘蔵と河盛好蔵の対談「小説を必要とする人間」を読んだときにはじめて鎌倉先生がなにをいわんとしていたのかがわかった。

<河盛 しかし、小説を読まずにはいられないというのはどういうことなんでしょうか。

 (略)

 宇野 ぼくはこういう持論を持っているのです。少々我田引水になるが、社会科学者としての経済学はインテリになる科学的方法、小説は直接われわれの心情を通してインテリにするものだというのです。自分はいまこういう所にいるんだということを知ること、それがインテリになるということだというわけです。(略)>

(略)

私の場合、神学を半年くらい学んだところで宇野がいうインテリになるための必要条件である「自分はいまこういう所にいるんだということを知ること」は神学によっても可能だという確信をもつようになった。そういえば、そのような確信をもつようになってから、私は小説をあまり読まなくなった。

(「4 労農派マルクス主義」)

このくだりなどは、自分が小説を読まなくなった理由を解説してくれているように思えて、目から鱗が落ちるようであった。このように、自身を重ね合わせてハッとするような描写が非常に多い。佐藤とは全く background が異なっても、どこか似たような学生生活を送っていたのである。

そういう意味で、本書は、これから生涯を賭けて何かを学ばんとする、あるいは将来の進路に悩んでいる若い人にこそ読んでほしい。マルクスとキリストが主題では取っつきにくいかもしれないが、ややこしい話は読み飛ばしても一向に構わないのだと、あえて強調しておきたい。

もちろん、マルクス主義やキリスト教に対する鋭い考察は読み応えがある。例えば、以下のような指摘は随分と刺激的である。

今日はこれまで紹介しなかったフロマートカ神学の特徴について少しお話しします。

それは、キリスト教は宣教をやめるべきだという主張です。二十世紀の後半の時点でもうキリスト教に関する情報に世界中のすべての人がアクセス可能になっている。キリスト教宣教の目標は「地の果てまで福音を」ということだったが、その目標が客観的に見て達成されたので、ミッション(宣教団)を解体すべきだという主張です。

キリスト教に関する情報は、その気になれば誰でも入手することができる。そういう状況でミッションの活動をするということは、特定の文化形態を別の文化形態のところに押しつけることになる。無自覚のうちに文化帝国主義の罠に陥ってしまう。それで、「われわれ欧米のキリスト教徒にとって重要なのは、コンスタンチヌス帝の時代は終わったということを認識するべきなんだ」とフロマートカは強調するのです。

(「文庫版のためのあとがきにかえて 講演録」)

ところで、佐藤は「生涯でカール・マルクスに出会ったことが三回ある」という。一度目は、高校の夏休みに東欧を旅したときで、二度目は、同志社大学の学生運動家が占拠していた部屋でのことである。これらの出来事は本書で活写されている。三度目はソ連崩壊の一年後とのことだが、それはまた別の機会に——となっている。

三回目のマルクスとの出会いについての着地がどうなるかは、私自身にもまだよく見えていないが、そこに登場する、かつて私が教えたロシア人学生たちが、落ち着くべき場所に導いてくれると信じている。

(「はじめに」)

続編が発表されたら、是非とも読んでみたい。