- 『瀬島龍三』保阪正康

2010/05/30/Sun.『瀬島龍三』保阪正康

副題に「参謀の昭和史」とある。

シベリア抑留

瀬島龍三については、以前に『沈黙のファイル —「瀬島龍三」とは何だったのか—』を読んだ。関東軍のシベリア抑留に瀬島が関与しているという噂は、『沈黙のファイル』では否定されている。「捕虜をシベリアで労働させようというのはスターリンのアイデアなんだ」(『沈黙のファイル』「第四章 スターリンの虜囚たち」)。

しかし「スターリンのアイデア」の源は、どうも日本側にあるらしい。外務省『終戦史録』に記載されている『対ソ和平交渉の要綱(案)』には以下の記述があるという。

ただし、第三項の「陸海軍軍備」のロの項には、次のように書かれている。

「海外にある軍隊は現地に於て復員し、内地に帰還せしむることに努むるも、止むを得ざれば、当分その若干を現地に残留せしむることに同意す」

そして第四項の「賠償及其他」のイ項にも、次のような記述が見られる。

「賠償として一部の労力を提供することには同意す」(傍線筆者)

日本政府は、ソ連側に海外にある軍隊は「現地に残留せしむることに同意」し、戦時賠償として、「一部の労力を提供することには同意」するつもりでいたのだ。ソ連は、この条項の意味を国家として見抜いていた、というのが甲斐(註・義也)をはじめ全抑協(註・全国戦後強制抑留補償要求推進協議会)の理事たちの見解であった。

(「第一章 シベリア体験の虚と実」)

「スターリンのアイデア」がモスクワから極秘に発令されたのは八月二十三日であるというから(『沈黙のファイル』)、瀬島も参加した、八月十九日の関東軍とソ連軍の停戦交渉でシベリア抑留が提案された可能性はやはり低いと思われる。

親電差し止め疑惑

真珠湾攻撃を目前に控えた一九四一年十二月七日十一時(日本時間)、ルーズベルト大統領は昭和天皇へ宛てた親電を打ち、その事実と内容がニュースとして世界各国に流された。内容自体は「此ノ危局ニ際シ陛下ニ於カレテモ同様暗雲ヲ一掃スルノ方法ニ関シ考慮セラレンコトヲ希望スルガ為ナリ」といったもので、大したものではない。

しかし問題なのは、この電報が東条英機にもたらされたのが、八日零時半だということである。

そのとき、東條は、「電報がおそく着いたからよかったよ。一、二日早く着いていたら、またひとさわぎあったかもしれない」と言った。(略)

この四分後、空母「赤城」からとび立った第一次攻撃隊は真珠湾攻撃を始めていたのである。

(略)もし親電が、東條のいうように一日か二日早く着いていても、日本にとってその内容は受けいれることのできるものではなかったから、戦闘中止の命令は発せられなかったろう。だが、いみじくもハルが回想録でいったように、「歴史に残す記録としての米国の和平の意思」というアリバイにはなった。

実は、このルーズベルト親電は、東條の恐れた「一日前」に届いていたのに、それを参謀本部の将校が故意に遅らせてアメリカ大使館に届けたということが、戦後の東京裁判の法廷で明らかになる。それを知ったとき、出廷していた東郷(註・当時外相)は驚き、東條もまた唖然としてしまった。東條はそんな事実を知らなかったのだ。

(「第二章 大本営参謀としての肖像」)

電報を差し止めていたのは大本営第十一課(通信課)の戸村盛雄少佐だが、彼の証言によると「十二月七日正午ころ米国大統領から陛下あて親電が送られたということを知った。(略)作戦課の瀬島少佐から、前日馬来(マレー)上陸船団に触接して来た敵機を友軍機が邀撃し、既に戦闘が開始されたこと、そしてそのことは杉山参謀総長から陛下に上奏済みであることを聞いた。今更米国大統領から親電が来てもどうにもなるものではない。かえって混乱の因となると思って、右親電をおさえる措置をとった」という。しかし、「『大本営機密戦争日誌』の、十二月五日、六日、七日の項には、瀬島が戸村に話したような内容、杉山参謀総長から天皇に上奏済みとの記述は見あたらない」。

大本営の佐官たちが何の掣肘もなく外交ルールを無視していた様子が浮かび上がってくる。だがこの件に関して、瀬島龍三は何も語っていない。

電報握り潰し疑惑

台湾沖航空戦の虚報については保阪の『大本営発表という権力』に詳しい。海軍によるこの虚報によって陸軍は作戦を変更し、レイテ決戦が行われた。結果、山下奉文率いる第十四方面軍は惨敗し、撤退先のルソンで絶望的な最期を迎えることになる。

虚報の責任は海軍にあるが、「実は、当時大本営のある情報参謀が、台湾沖航空戦での戦果は事実ではなく、これは点検の要ありと大本営に出張先から電報を打っていた」(「第三章 敗戦に至る軍人の軌跡」)。「ある情報参謀」とは堀栄三である。しかし、堀の貴重な情報が顧みられることはなかった。

取材を進めているうちに、かつての大本営参謀の間で密かに語られている事実に出会った。(略)この証言の確認はとれていない。それを前提に記しておくことにする。

堀の暗号電報は解読されたうえで、作戦課にも回ってきた。この電報を受けとった瀬島参謀は顔色をかえて手をふるわせ、「いまになってこんなことを言ってきても仕方がないんだ」といって、この電報を丸めるやくず箱に捨ててしまったという。そのときの瀬島の異様な表情を作戦課にいた参謀たちは目撃しているというのである。

客観的にみて、堀の電報が検討の対象になって、海軍からの報告のあった過大な戦果がくつがえったとしても、比島作戦の大勢に影響はなく、遅かれ早かれ日本はやはり敗戦の道を歩むことになっただろう。しかし、レイテ決戦で死んだ兵士幾万余の犠牲は避けられたかもしれない、という推測は充分成りたつのである。

(「第三章 敗戦に至る軍人の軌跡」)

堀によれば、戦後、シベリアから帰国した瀬島は、電報を握り潰したことを堀に告白したという。しかしこの「告白」を瀬島は否定している。