- 『昭和史発掘 3』松本清張

2008/09/27/Sat.『昭和史発掘 3』松本清張

松本清張『昭和史発掘 2』の続き。本巻の内容は以下の通り。

「『桜会』の野望」「五・一五事件」

昭和6年、陸軍参謀本部第二部第四班長・橋本欣五郎中佐 (当時) が首魁を演じる、陸軍少壮士官の結社「桜会」は、軍事政権の樹立を目的としたクーデターを計画する。これらは後に「三月事件」「十月事件」と呼ばれるわけだが、いずれも未遂に終わっている。しかしこの構想は生き残り、橋本のプランを下敷きとして、五・一五事件および二・二六事件が引き起こされる。橋本自身は計画に失敗したが、「桜会の野望」は後の者に大きな影響を与えている。

橋本欣五郎および桜会が政府転覆を謀ったのは何故か。橋本による手記にはこうある。

政治は何ら国民の幸福を願うの政治ではなくて、政権の争奪に日を暮らし、政党は資本家の走狗となり、その腐敗は極度に達している。(略)

経済は大いに発展したが、これはみな個人資本主義の極地であって、国家の利益は考えず、自己の利益のみに汲々とし、貧富の差は隔絶し、さらに資本家を代表する政党政府もまた国民の敵たるの観を呈している。(略)

外交もまた不甲斐なき有様で、恰も国際女郎の観がある。

(略) いかにしてこの有様を挽回し、天皇一本の政治にしたいため、吾等同志は日夜深く思いを凝らしているところである。

(「『桜会』の野望」)

現在の日本とまるで同じではないか——、というのはさておき、橋本および桜会はこのような社会を憂えていた。彼らは憂国の士であって、その志は悪くない。しかし手段が未熟かつ浅薄であった。

帝都に騒擾を起こし、政府・財閥の要人を暗殺し、同時に天皇に奏上して、陸軍大臣宇垣一成に組閣の大命を拝受してもらう。これが橋本の計画であった。市外の暴動は大川周明が民間右翼を組織することになったが、そこに至るまでも色々とややこしい。右翼の巨頭といえば北一輝が思い浮かぶが、大川と北は互いに反目しあっており、右翼の中にも派閥がある。その間を橋本は奔走する。資金も要る。クーデターは秘密裏に起こさなければならぬが、しかし同時に人員も必要である。誰にどこまでを明かし、協力を要請するのか。もちろん軍部内にも派閥があって、橋本が担がんとした宇垣は、荒木貞夫一派と抗争しておる。グズグズとしている内に、宇垣は計画から降りてしまった。——クーデターなど起こさずとも、いずれ総理に任命される目処が立ったからであるという。上層部と、それ以下の乖離。こうして三月事件は未遂に終わった。何とも情けない話である。

三月事件の計画は、しかし政治家たちを震撼させた。「橋本らが大川周明一派を使う一方、社会民衆党を使おうとしたところに狼狽があった」という。近衛文麿の指摘が面白い。

これら軍部内一味の革新論のねらいは必ずしも共産革命にあらずとするも、これを取り巻く一部官僚および民間有志 (これを右翼というも可、左翼というも可なり、いわゆる右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり) は意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵しており、無智単純なる軍人これに躍らされたりと見て大過なしと存じ候。

(「『桜会』の野望」)

「いわゆる右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり」という一節は強烈である。確かに、後に起こる五・一五事件や二・二六事件ではクーデターというよりも革命の匂いが強くなる。桜会は参謀本部を中心とした中堅将校によって組織されたが、五・一五事件や二・二六事件で立ち上がるのは実動部隊の人間となる。これらの中には貧農の出身も多い。

三月事件からの一連の流れには、首謀者に同情するべきところもある。だがやはり、クーデターという手段を講じようとした点には弁護の余地がない。そして何より、彼らを厳罰に処せなかった軍部の落ち度は糾弾されてしかるべきだろう。

三月事件で処分者が一人も出なかったことは、処分しようにもするほうにその加担者があったために手がつけられなかったのである。しかし、これが部内に大きな禍根として残り、やがて満州侵略に暴走させるのである。橋本らは処分されなかったことで、上部何するものぞ、という驕慢に駆られた。

(「『桜会』の野望」)

彼らも、彼らが憎んだ政党、官僚、財閥と全く同じであったのだ。

「スパイ "M" の謀略」

日本共産党に潜入した伝説的なスパイ "M" の話。これがすこぶる面白い。

三・一五および四・一六検挙で日本共産党は壊滅的な打撃を被ったが、共産主義運動の灯は消えず、過去の教訓から、その活動と当局からの潜行はますます巧妙になった。しかし警察も負けてはいなかった。共産党の中央に位置する M (松村という偽名を使っていた) をスパイに仕立て、M に組織を育てさせた上で一網打尽にしたのである。M が最初からスパイであったのか、途中でスパイになったのかはわからない。清張は後者であろうと推理している。

M と連絡していたのは、特高課長の毛利基である。彼は前の三・一五および四・一六検挙でも辣腕を奮っている。

毛利特高課長は、前にもふれたように、まるで特高警察のために生れたような男だった。彼くらい共産党検挙に有能だった警察官はいない。(略)

毛利は、或るとき、日本の共産主義運動はおれの掌の上にある、と豪語していたそうだが、「M」を操っている彼は、まさにその通りだったといえるのである。

(「スパイ "M" の謀略」)

その M というのはどういう男であったか。これが皆目わからない (というか、記録に残っていない)。本名、出身地、経歴、何もかもが不明である。M は共産党入党後、次代を担う闘士としてロシアのクートベ (スターリン大学) で共産主義を学ぶ。帰朝後、壊滅した日本共産党を立て直すために中央組織で活躍するのだが、どうもこの間に検挙を受け、スパイへ転身したらしい。

M は精力的に組織を拡充した。理論や闘争などの「表」の顔は他の同志に任せ、自らは資金繰りを始めとする裏方の仕事を牛耳った。かくして、日本共産党の全貌は、M の眼前に一望のものとなる。

以下は M の部下・久喜勝一の回想。

M は非常に能力のある男だった。私は M に直接指導されたのだからよく知っているが、あれほどの男がザラにいるとは思えない。とくに組織力、タイミングのつかみ方、方法の選び方、重点のおき方、活動面における人間の動かし方などの非合法技術にはすぐれていた。そしてシンパ組織、資金関係、会合場所、住居、地方との安全な連絡場所、敵の中枢に結びつく情報活動など、その他、資金・技術関係のあらゆる活動に前代未聞の能力を発揮した。あれだけ強力なものを短期間にしたのは M の能力である。党の中央部の他のだれがやっても出来ることではなかった。

(「スパイ "M" の謀略」)

こんな奴がスパイなのだからたまったものではない。

そして銀行襲撃事件が起こる。これは、資金に窮した日本共産党が銀行強盗によって金銭を収奪するという、前代未聞の事件である。これを計画・指揮したのが M であった。彼は巧みに若手党員の心を掴み、共産党の危地を救うには、闘争資金の入手に手段を選んでいる場合ではない、と力説した。

銀行強盗は成功したが、これは共産党に汚名を着せるためである。実行者の居場所は M によって警察に筒抜けなので、逮捕はいつでもできる。事件を防ぐよりは、事件を起こさせて世間の注目を集める方がよろしい。事件後も、警察は実行犯を泳がしている。一網打尽にするための準備に専念していたのだ。

数ヶ月後、M からの情報によって実行犯が捕らえられる。そして、実行犯の「自供」により、地下に潜行していた幹部たちの所在が明らかにされた——。そういうことになっているが、幹部たちの情報は、実は M からもたらされたものである。果たして幹部連中は一斉に逮捕され、日本共産党はまたしても壊滅的な状態に陥るのであった。

銀行強盗事件の裁判でも、その計画の首謀者であるはずの M の名前はほとんど出てこない。判決に必要な部分でのみ、非常に曖昧な形で登場する。いわんや、警察の記録には全く残っていない。

以下に彼が巧妙に立回ったかをみよ。松村は、こうして次々に中央委員を官憲の手に引渡してしまった。もちろん、彼もいっしょに逮捕された。だが、他の党員で松村のその後を知る者はいない。彼は捕縄をかけられ、どこかの警察の門だけをくぐったあと、いずこともなく逃げ去ったままである。

(「スパイ "M" の謀略」)