- 『昭和史発掘 2』松本清張

2008/09/24/Wed.『昭和史発掘 2』松本清張

このシリーズはとにかく密度が半端じゃない。セクションを読み終わってから頁数を確認すると、内容の濃さに比べて、その文字数の少なさに驚く。記述は簡にして要を得ており、かといって決して退屈ではなく、清張円熟期 (本書の初出は 1965年) の名文に酔うことすらできる。史料はふんだんに引用されており、構成も起伏に富む。まさに名著であろう。

本書の内容は以下の通り。

「三・一五共産党検挙」

草創期の日本共産党の奮闘と、その弾圧の歴史が語られる。

本邦の共産主義者は長らく地下に潜って非公然活動を行ってきたが、モスクワのコミンテルンを通じた指導を受け、日本共産党を正式に発足し、組織の拡充、機関誌の発行、そして普通選挙への出馬を通じて民衆の前に姿を現す。もちろんこれは当局の好むべからざるところであり、果たして共産党は、2回に渡る全国一斉検挙 (昭和3年 3月 15日、昭和4年 4月 16日) で壊滅的な打撃を被ることになる。

この検挙に至るまでには色々とあるのだが、一つには日本共産党の組織作りがまだ未熟であったということ、それからスパイの存在 (の可能性) が挙げられる。共産党内部には理論の対立があったり、また党設立にあたって党員名簿・党員章を作成してしまう (秘密組織においてこれらは致命的な証拠となってしまう) など、まだまだ警察に対抗するだけの充分な成熟がなかった。コミンテルンからの指導がこれを補うわけであるが、これもまた情けないというか。問題が起こるたびに海外にお伺いを立て、譴責されたといってはヘコみ、承認されたといっては喜ぶ。警察がブルジョワ政権の走狗であるというのなら、共産党はモスクワ政権の手下ではないのか。そんな素朴な疑問もないではない。

検挙によって共産党は壊滅寸前に至るが、この事件を通じて成長した部分もある。転向者も出たけれど、党員の多くは立派な態度で共産主義に殉じており、このあたりの風景はなかなか読ませる。一般にアカ狩りというと暗いイメージがあるが、裁判にも爽やかな光景を見ることができる。

さて、検挙後の日本共産党員がとった戦術といえば法廷闘争であろう。

後半は宮城裁判長によって昭和六年六月二十五日から東京地方裁判所で開かれたが、このとき被告が強く要求したのは裁判の公開であった。

その主張するところは、この公判を通じて国民に対し、党の真の姿を闡明する必要がある、世間に流されているデマによってわれわれの目的の真の正しさが歪められているから、この際これを正したいというのであった。(略)

被告側は、もし、この要求が受容れられない場合は、絶対に陳述しないと繰返し、三田村は、非公開ならばハンガーストライキを決行すると宣言した。

(略)

宮城裁判長は、尋問するに当って、事前に彼自身も社会科学を勉強し、相当その理論を掴んでいたといわれている。そして、佐野学に対しては、マルクス・レーニン主義の根本についてもかなり突っ込んだ訊き方をしている。

(略)

もとより、検事側は公開禁止を要求したが、宮城裁判長はこれを斥け、刑事訴訟法にもない被告らの陳述上の相談さえ許した。新聞はこれを「被告会議」と名づけた。

(「三・一五共産党検挙」)

なかなか粋な裁判長である。「各被告の代表陳述は、速記者を入れてことごとく記録されたから、あたかも法廷は放送局の一室でマイクを前にして講演しているような観があった」(名古屋地方裁判所判事辻参正『法廷心理学の研究』) というから、まさに奇観と言えよう。

そして本節の劇的なラスト。

——徳田が日本の軍国主義の役割を述べている際、法廷の窓外に号外売の鈴が鳴り渡り、法廷に一種名状のできない緊張が漲った。満州事変の突発である。彼は、このことをどこで聞いたのか、その鈴の音を聞くや、一段と声を張上げて、

「ただ今、帝国主義は満州に出兵した。日本の青年は、断然、これに反対して戦うであろう」

と絶叫した。

(「三・一五共産党検挙」)

「『満州某重大事件』」

満州某重大事件というのは、言うまでもなく張作霖爆殺事件 (昭和3年 6月 4日) のことである。この事件が関東軍によって起こされたことは世界中で報道されたが、唯一日本の新聞だけは「満州某重大事件」と称して、グズグズと議会を長引かせていた。

事件を起こした関東軍に厳罰を、という声も大きくあった。当時の総理大臣は、第1巻でも取り上げられた田中義一である。彼は昭和天皇に対して、満州某重大事件の明白な解決を約束している。ところが田中は陸軍大将でもあった。関東軍に対する処罰は我々に対する裏切りだという声が軍部で大きくなり、田中は板挟みに悩んだ揚げ句、枢密院からも嫌われ、天皇に対する不明から遂に辞職する。この人はどこか田舎親父みたいなところがあり、悪い人間ではないのだろうが、すぐに弁を左右するので、結局は何も果たせぬまま表舞台を降りることとなった。

軍部が独走するに至った、その論理的支柱が、かの悪名高い「統帥権」である。統帥権干犯問題については、司馬遼太郎『この国のかたち』でも詳しく触れられている。統帥権を振りかざした軍部の悪については論を待たないが、それにしても政治家の方も腰が砕けている。

(略) 下手人が河本大佐や東宮大尉だとは陸軍部内の調査で早くからわかっていたのだ。しかし、これを処分することができない陸軍側は、事件首謀者の志は国家に対する忠誠から出たものだとして、称賛する声すら内部からあがっていた。内閣糺弾に起った民政党も、関東軍の警備や満蒙の権益の点だけをとりあげて政府を攻撃するだけで、事件の核心を衝くことができない。これを突きすすめると、軍部は、その常套手段の「統帥権」をふりかざしてきそうである。次期政権を眼の前にした民政党も軍部の反撥を怖れた。

(「『満州某重大事件』」)

軍部の反感を買うと、陸軍大臣・海軍大臣の推挙が得られず、よって組閣ができないからである。この点が非常に問題であって、明らかな制度上の欠陥であろう。いくら軍部が統帥権を持ち出してきたところで、具体的に圧力をかけられないと実効性はないのだが、大臣制度がこれを担保してしまっている。統帥権干犯問題——、その実態のいくらかは現役軍人による軍務大臣制度の問題といって良い。

「佐分利公使の怪死」

昭和四年十一月二十九日、支那公使・佐分利貞男は、箱根は富士屋ホテルで死体となって発見された。ベッドに仰臥し、頭を撃ち抜かれた状態であった。右手には拳銃が握られている。誰もが自殺と思ったが、しかし佐分利は左利きなのであった——。

そのまま、松本清張の社会派推理小説になりそうな事件である。清張はこの事件の背景を述べながら、事件を詳しく分析し (現場の見取り図まで付されている)、関係各位の証言を丹念に集めながら真相を推理する。さながら、彼の小説に登場する刑事のように。

佐分利は支那公使として対中問題にあたっていた。当時、満州某重大事件で田中義一内閣が斃れ、浜口雄幸が総理の座に就いている。外相は幣原喜重郎であり、協調外交を掲げて対中内政不干渉を唱えていたが、これは右派から「軟弱外交」と謗られていた。佐分利公使は、幣原の右腕として、その「軟弱外交」に辣腕を奮っていたのである。それゆえ、他殺説の匂いはどうしても消せない。

まだ生きていた頃の丸山鶴吉 (当時の警視総監) は、この事件をひとにきかれて、「あの事件の真相は、日本の黒体が変ったときに初めて判る」といったという。この辺のところが真相かもしれない。

(「佐分利公使の怪死」)

「潤一郎と春夫」

谷崎潤一郎が、その妻・千代を、しかも公然と、佐藤春夫に「譲った」という事件である。第1巻でも「芥川龍之介の死」に触れているが、こういう話題を取り上げるところが小説家・松本清張らしい。

谷崎、千代、春夫は、以下のような書状を知人に宛てており、これは広く報道されもした。

拝啓 炎暑之候尊堂益々御清栄奉慶賀候 陳者我等三人此度合議を以て千代は潤一郎と離別致し春夫と結婚致す事と相成潤一郎娘鮎子は母と同居致す可く素より双方交際の儀は従前の通に就き右御諒承の上一層の御厚誼を賜度何れ相当仲人を立て御披露に可及候へ共不取敢以寸楮御通知申上候

敬具

谷崎潤一郎
千代
佐藤 春夫

ここに至るまでに、三者の間でどのような葛藤があったか。谷崎と佐藤の作品を縦横に分析しながら、清張がこのドラマに迫る。もとより昭和史に直接の影響を与えた事件ではないが、当時の慣習、風俗、人々の心理、文壇事情、そして谷崎と佐藤の人間的刻苦と文学的成長が存分に織り込まれていて、非常に面白い。事態の経緯も、およそ常人とは異なる、いかにも作家的な経緯を辿るのだが、そのあたりは実際に読んでみてほしい。

そして、清々しい読後。

谷崎、佐藤の択んだ方法が正当だった証拠には、その後、佐藤が幸福な結婚生活を送ったこと、谷崎も松子夫人を得てますます旺盛な創作活動に入ったことでも分る。

(「潤一郎と春夫」)