- 『殉死』司馬遼太郎

2008/09/22/Mon.『殉死』司馬遼太郎

福田和也『乃木希典』には、旅順攻略戦の戦闘描写がほとんどない。そこが不満であった。

本書には「要塞」「腹を切ること」という 2つの文章が収められており、前者は旅順攻略戦を、後者は殉死の様子を仔細に述べている。これらはそれぞれ、愚将と詩人、乃木が持つ両面に対応する。

「要塞」

乃木は戦術的——いわゆる実際の戦闘——に劣った武将であった。西南戦争では、薩摩軍に敗れて退却している。

乃木少佐は植木方面でこの敵と遭遇し、激戦になった。兵力は乃木隊が四百余人、薩軍の支隊とほぼ同勢であった。昼間は官軍の銃器の性能が優越しているため戦況はほぼ互角であったが、夜に入り、薩軍の抜刀による夜襲に抗しきれず乃木隊は算を乱して退却した。

(「要塞」)

このときの混乱で乃木隊は軍旗を奪われるのであるが、私は別に大した問題だとは思わない。乃木を擁護するなら、官軍は平民を徴兵して仕立て上げた弱兵であったし、一方の薩摩軍は日本最強の武士であった。戦闘には不確定要素もあり、また運もある。一合ぶつかって敗れることもあろう。退却も恥ではない。

将にとって重要なのは、戦術的な強弱ではない。ともすれば予測が外れがちな戦術的結果を吸収し得る、戦略的な思考であり、展開である。目の前の戦闘結果に一喜一憂するのは、戦略的位置に立つべき指揮官の仕事ではない。だから私は乃木の軍旗事件を責めようとは思わない。

乃木はしかし、戦略的にも愚将であった。それが顕になるのが旅順攻略戦である。旅順戦最大の戦略的目標は、旅順港内に停泊しているロシア艦隊の壊滅、あるいは港からの追い出し (港外には連合艦隊が待機している) である。旅順港の艦隊がバルチック艦隊と合流すれば、連合艦隊の敗北は必至であり、それはすなわち日本の滅亡を意味する。それを阻止するのが旅順戦の目的である。繰り返すが、旅順艦隊の撃滅が第一であり、それが達成できるのならば要塞の攻略などはどうでも良い。

これが乃木にはわからなかった。要塞の死角となっている二〇三高地を奪取すれば、そこから旅順港が一望できること、そこから大砲を撃ち込めば艦隊を一掃できること、したがって戦略的目標は要塞ではなく二〇三高地であること——、これらのことごとくを乃木は理解しなかった。あくまで目の前の要塞の攻略に拘った。結果、数万人の日本兵が死んだ。

近代要塞の攻略には、乃木が採ったような正面攻撃を要求する。当然、多大な犠牲が出る。だが、そうしなければ要塞は落ちないのだ。戦術的に杜撰なところはあったけれども、血みどろの白兵戦を演じた乃木軍は、基本的に間違えてはいない。ただ、戦略的に無駄だっただけだ。愚将・乃木の誹りは、やはり免れるものではないだろう。

乃木はその遺書で、殉死の理由に触れている。

「明治十年の役に軍旗を失ひ、その後死処を得たく心がけ候もその機を得ず」

(略)

それ以外に、理由は書かれていない。要するに二十九歳のとき軍旗を薩軍にうばわれたことについての自責のみが唯一の理由になっており、この一文あるがためにかれの殉死は内外を驚倒させた。

(「腹を切ること」)

乃木が最期まで気にしていたのは、西南戦争における戦術的敗北だった。それは、旅順において自分が戦略的に誤っていたこと、まさにそれゆえに、自分が将官に適していなかったことよりも大事であった。一軍の指揮官としては、やはりどうしようもないと思わざるを得ない。

将軍ではなく、一介の軍人として乃木が存在したら——、どうしてもそう考えてしまう。しかし将軍であればこそ、乃木希典は乃木希典たり得たのだが。とにもかくにも、これが歴史の配材であったとしか言い様がない。

「腹を切ること」

乃木の思想の背景には陽明学があった、という指摘が面白い。乃木は最後の陽明学者であった。

陽明学派にあってはおのれが是と感じ真実と信じたことこそ絶対真理であり、それをそのようにおのれが知った以上、精神に火を点じなければならず、行動をおこさねばならず、行動をおこすことによって思想は完結するのである。

(「腹を切ること」)

そして恐るべきは、「この学派にあっては動機の至純さを尊び、結果の正否を問題にしない」ことである。「学問というよりも宗教であることのほうがややちかい」。陽明学を補助線にしてみると、乃木の人間像が明確になる。乃木が殉死の直前、山鹿素行の『中朝事実』を裕仁親王 (昭和天皇) に贈っているのも興味深い。昭和天皇はこれをどう読んだであろう。

さて、長らく戦場で死に場所を求め続けるも、ついにその処を得なかった乃木にとって、明治天皇に殉じて死ぬのはもはや必然であった。その最期の場面が凄まじい。乃木は最初、妻・静子を道連れにするつもりはなかった (遺書にも、妻に残す財産のことを書いている)。しかし結局、乃木と妻は共に死んだ。何があったのか。

「もうすぐ、そう午後八時に御霊柩が宮城を御出ましになる。号砲が鳴る。そのときに自分は自決する」

あと、十五分しかない。静子は、そのことを冷静にきいた。

(略) 自分も生きていない、いずれおあとを追って死ぬ、と言ったにちがいない。

それまで希典は静子を道連れにするつもりはなかった。(略) が、いまはそのことが一変した。静子はあとで死ぬという。

「それならばいっそ、いまわしと共に死ねばどうか」

(略) このことに静子は驚いた。あとわずか十五分で死ねということであった。

(略) 静子は当惑した。当惑のあまり叫んだ声が、階下にまできこえた。

——今夜だけは。

(「腹を切ること」)

静子は、乃木に手伝ってもらって自死を遂げたことになっているが、実際はどうだったのだろう。乃木の陽明学的行動が、静子に対して起こされはしなかったろうか。ともかく、乃木は腹を切った。

軍刀を抜き、刃の一部を紙で包み、逆に擬し、やがて左腹に突き立て、臍のやや上方を経て右へひきまわし、いったんその刃を抜き、第一創と交叉するよう十字に切りさげ、さらにそれを右上方へはねあげた。作法でいう十文字腹であった。しかしこれのみでは死ねず、本来ならば絶命のために介錯が必要であった。(略) 軍刀のつかを畳の上にあて、刃を両手でもってささえ、上体を倒すことによって咽喉をつらぬき、左頚動脈と気管を切断することによってその死を一瞬で完結させている。

(「腹を切ること」)

凄絶というよりない。

三島由紀夫の切腹にしてもそうだが、思想だけで腹が切れるものだろうか、といつも思う。試しに包丁を手に持って想像してみたのだが、これを自分の腹に突き刺すというのは、やはり尋常ではない。首を吊ったりするのとは訳が違う。切腹という自殺様式については、また別に考えてみたい。